雪男はとても良く泣く子供だった。其れが、の印象だった。


「なにやってんだよ!」


獅郎に今日の夕飯の食材の買出しを頼まれ、八百屋からの帰り道の事だった。修道院から割りと近くの公園から燐の声が聞こえて思わず其の場に立ち止まる。公園には男の子三人に囲まれて、蹲り泣いている雪男の姿があり、燐は真っ直ぐ雪男の元へと駆けていた。


「やめろ!」


燐が雪男を囲む男の子達と雪男の間に割って入り、雪男を足で踏んでいた男の子に掴みかかった。雪男は相変わらず泣いていて、ただ、燐の背中に守られながら事の行く末を見ていた。は公園の出入口から其れ見ていたのだが、面倒臭そうに息を吐く。


「なんだよおまえ!」

「おまえがなんなんだよ!雪男からはなれろ!」

「うるっせー!」


夕暮れ、人が集まる公園の中央で幼い子供の喧嘩が始まった。珍しくも公園に他の人の影は無く、喧嘩を仲裁するような大人が居ない。どうしたものか、が手に食い込むビニール袋をぶら提げながら思案した。其の間にも喧嘩はヒートアップしていき、男の子達だけでなく燐も怪我をしていく。殴り、蹴られ、殴り返し、投げ飛ばして。三対一という全くもってフェアじゃない喧嘩だが、元々燐はサタンの血を継いだ子供なのだ、無傷ではいないもの三人同時に相手をし、しかも圧倒しているのだから流石である。


「お、おぼえてろよ!」

「よわむし!たすけられてダッセー!」

「ばーか!ばーか!」


目の上を真っ赤に腫れさせ、鼻血を出し、タンコブを頭に乗せながら捨て台詞を吐いて逃げ出す三人の男の子達は、代表的な雑魚キャラそのもので最早天晴れである。其の場から動けず止まらぬ涙を拭い、しかしまた涙と鼻水を垂れ流して雪男は泣いた。雪男は虐められっ子の泣き虫で、弱い子供だった。


「なんなんだよあいつ!」

「あいつのにーちゃんだろ!?」

「ほら、となりのクラスにいた!」


燐と雪男に背を向け、半泣きになりながら足を動かし、懸命に走る男の子達。出入口の所で立ち止まっていたからすれば、此方に向かって走ってくる男の子達の会話は十分聞き取る事が可能で、むしろ聞こえない振りをする方が困難だった。


「くそ!あしたせんせいにチクってやる!」

「なぐられましたーって!」

「せんせいにおこられれば、いいんだ!」


負け犬の遠吠えを上げながら、燐によって返り討ちにあった男の子達はを横切り、公園を出て行く。―――否、出て行こうと、した。男の子達は、ひゅっと息を呑んで駆けていた足を立ち止まらせたのである。其の喉元に、行く手を阻むように行き成り現れた白葱の所為で。


「…まぁ、其処のクソガキ達。そんなに急いで帰らなくても…良いんじゃない」

「な、なんだよおまえ…!」

「あ!こいつ!おくむらたちとすんでる、ひきこもり!」

「誰が引篭もりだよバカ」


クイッと、指を差して引篭もりと言った男の子の顎を白葱の先で突いてやる。言わずもがな、この白葱は今晩の鍋に投入される食材の一つである。は視線を公園の方へと向けた。隙を見て逃げ出そうとする男達を横目に睨みつければ、萎縮して途端逃走を計るのを素直に止める男の子達。一応聞き分けは良いようだ。


「…だいじょーぶか…?」

「…ご、ごめんね…」


喉を詰まらせながら、涙と鼻水で濡れた顔を手の甲で拭い、雪男は身体中に傷を作り、鼻血を流す兄を見上げた。己の身を犠牲にし、痛いだろう傷に顔色すら変えず、燐は心配そうに弟の雪男に歩み寄る。そして雪男を囲むように引き千切られた紙切れに気付くと、落ちていた紙を一枚拾い上げて、視線を其の紙へと向けた。まだ下手で歪な平仮名が其処に書かれており、燐は其の紙を雪男に突きつけて尋ねる。


「おまえ…しょうらい、おいしゃさん、なりたいの?」

「あ!あ…あの…あの…」


紙には乱暴に千切られた所為で、“しょうらいのゆめ、おいしゃさ”の所で文字は途絶えている。しかし、其れで本来書かれていた内容が分からない筈も無く、燐は純粋に不思議そうにして真意を雪男に問うのだ。途端、言葉を詰まらせ、顔を真っ青にさせたのなら、しどろもどろになる雪男。きっと、将来の夢を馬鹿にされ、虐めにあっていたのだろう。その恐怖心が、己の夢すら口に出来なくしたのだ。


「スゲェ!」


しかし、そんな植え付けられた恐怖心でさえも、燐は雪男の中から吹っ飛ばす。唖然と燐を地面に座り込んだまま見上げる雪男は、兄の口から飛び出た言葉に驚いたのだろう、あれだけ止まらなかった涙と鼻水がぴたりと止まったのだ。


「かっけぇ〜!おまえ、あたまいーもんな〜。ぜってーなれるよ!!!」


千切れ、汚れた紙に書かれた文字を見ながら、燐は目を宝石の様に輝かせて言う。雪男は茶色く汚れた手で、己の服を強く握り締めた。


「………そうかな………」

「そうだろ!!」


雪男の顔に笑顔が浮かぶ。涙と鼻水で汚い顔だが、それに負けない明るい良い笑顔だ。が修道院に連れられて訪れた時、燐も雪男も未だ幼稚園生だったが、月日の流れは早く、もう彼等は低学年とは言えど小学生なのである。200年以上生きてきたからすれば、本当に些細な時間、短い時の流れだが、きっと燐や雪男からすれば長い長い永遠の様な時間だったはずで、其の新しいものに溢れた世界は楽しい気持ちにさせるものもあれば、泣いてしまう程に苦しく悲しい事もあっただろう。燐と、雪男の様に。


「良い話だと思わない?兄弟愛だよ」


白葱を下げ、不透明なビニール袋の中に他の食材と共に仕舞えば、は何処か緊迫に表情を強張らせる未だ幼い男の子達を見る。心なしかチンするだけで食べれる冷凍のチャーハンが温くなっている様な気がした。


「正直言って雪男がどうなろうが燐がどうなろうが、あたしの知った事じゃない。けど、一応同じ屋根の下暮らしてる訳だし、あたしを拾った人間が大事に育ててる子供達だから、無下には扱うつもりもない」

「…なにいってんのか、ぜんぜん、わかんねぇよ…」

「まだまだ知識の乏しい子供には難しかったかな」

「おっ、おまえだってこどもだろ!」

「そこ等の人間よか大人だよ」


喚く男の子達の声に気付いたのか、燐と雪男の視線が公園の出入口の前で立ち止まると、男の子達へと向けられる。燐は目を丸くさせてを見ており、雪男はと男の子達を交互に見て顔を真っ青にさせた。自分の様に、絡まれていると思ったのだろう。実際は男の子達にが絡んでいるのだが。


ーーー!おまえ、なんでここにーーーー!?」

「に、にいさん…!こえ、こえ、おおきいよ…!」


大声を上げて片手を振る燐を宥めるように落ち着きの無い様子で雪男は燐の服の袖を引っ張った。しかし燐は聞く様子は無く、今にでも駆けて来そうな勢いだ。つい先程、燐に返り討ちにされたばかりの男の子達は顔を引き攣らせる。騒がしくなってきた公園には溜息を零すと、未だ其処に佇んだままの男の子達に言うのだ。


「なんかもう面倒だし、結論だけ言う。“二度と二人に手を出すな”」


男の子達は飛び上がる様にして踵を返し、足を縺れさせながら悲鳴を上げて逃げ去って行った。少しだけ威圧感を込めて、迫力も出るように声のトーンも落として言った言葉は、とても男の子達には効いたらしい。雪男の手を取り、地面に落ちていた紙を拾ったのだろう、ぐしゃぐしゃになった幾つもの紙を握り締めながら燐はの元へと駆け足でやって来た。燐の方が足が速いからか、雪男は何度も転びそうになっているのが無性に笑えた。


「かいもの?」

「そう。今日は鍋だって」

「またかよー」

「食べれるだけマシでしょ」


修道院の食事は比較的鍋の日が多い。理由は簡単で、鍋なら食材を切って鍋に入れた後、其れを煮込んで食べるだけのお手軽簡単料理だからだ。修道院には数名の住み込みで働く者がいるが、男所帯の環境では料理をまともに出来る人物など存在せず、三食食事にはありつけるものの、どれも此れも簡単な質素なものばかりだった。


「燐、持って」

「えー!!」

「燐は男の子なんだから力持ちじゃないの?」


ビニールに詰め込まれた沢山の食材。小さな子供が持つには重い其れを、は軽々と燐に押し付けた。唇を尖らせる燐を、上手いこと乗せて袋を持たせれば、荷物がなくなり軽くなった腕のダルさを解す様に何度か腕を回す。の後ろでは重いビニール袋を、地面に擦らない様に慎重に持ちながら歩く燐の姿があった。


「雪男」

「…なあに?」

「鼻水汚い」

「!?」


を筆頭に、半歩下がった所に雪男が歩き、其のまた数歩後ろに燐が歩く。先程まで燐は雪男の隣に居たのだが、食材の詰まったビニール袋は大層重いらしく危うい足取りで燐は歩いていた。徐々に広がると雪男と、燐との距離。燐が来るのを待つように道の道中で立ち止まったは拭う事すら忘れた雪男の顔を見て、きっぱりと、はっきりとした声色で思った言葉をそのまま口に出す。途端、傷付いた様に表情を一変させた雪男に、は雪男の手を取った。


「さっきの男の子達の夢、雪男は知ってる?」

「え……。…ううん、しらない…」

「人の夢を笑う奴の夢なんか、大したもんじゃないって相場は決まってるんだよ」


掴んだ雪男の手は細く、少しの湿りとザラザラとした砂の感触がある。沢山泣いて、沢山涙を拭って、我慢していたのだろう。我慢してきたんだろう。燐という救世主が現れるまで、たった一人で耐えていたのだろう。そんな自分の主張をする事すら難しい雪男の腕をは引いて歩いた。


「気にしないでいい。医者になる夢は立派だよ。恥じる事は無い」


眼鏡のレンズ越しに見える雪男の瞳に、仏頂面のの横顔が映った。時折雪男にはという同い年の女の子が、とても年上の、大人の様に感じる事がある。立派だと、言われたことがむず痒く、雪男はひっそりと表情を緩ませた。


「おーーーーーい!まてって!」


背後から呼び止める様な声が掛けられ、と雪男は道の道中にも関わらず足を止めて振り返る。すると其処には食材が詰まったビニールの袋を地面に置き、肩で荒い呼吸を繰り返す燐が、と雪男をじとりと睨み付けていた。


「なんで、おれが、もたないといけないんだよ!が、もてばいいだろ!」

「八百屋から公園までの距離と、公園から修道院までの距離。どっちの方が遠いと思ってんの。あたしは十分持ったよ」

「うぐ…」


言葉を詰まらせる燐に、はやれやれと盛大に息を吐いたのなら雪男の腕を掴んでいた手を離し、雪男を解放する。雪男は目を丸くさせて自分よりも背の高いを見上げた。


「仕方ない。雪男、手伝ってあげて」

「えっ」

「二人で持ったら、少しはマシなんじゃない?」


雪男の背中を軽く押せば、雪男は戸惑いながらもの傍を離れ、兄の元へと駆けて行く。燐と雪男は何度か言葉を交わすと、ビニール袋の持ち手の片方を雪男が持ち、もう片方の持ち手を燐が持った。二人の間で揺れる、食材が詰まったビニール袋。二人が歩き出したのを確認し、は再び歩き出した。遠くに見える修道院を眺める。空はすっかり橙色に染まっていた。後方で何やら喋りながらついて来る二人の会話を聞きながら、普段よりもゆっくりとした足取りで修道院までの道程を歩くのだ。










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