燐と雪男が小学校の高学年に上がった頃、は昼間に誰にも告げず一人出歩く事が増えていた。道中で擦れ違う魍魎に目もくれず、視えないものとして扱いながらは賑やかな南十字通りを抜け、どんどん人の少ない静かな場所へと向かって行く。宛ても無く歩いている訳ではなかった。行き先は勿論決まっており、目的地までただ黙々と足を進める。其処は偶々散歩の道中で見つけた場所なのだが、此の町を一望出来る絶景の場所で、強いて難点を上げるのであれば、其処が断崖絶壁であるという事である。山道を抜け、傾斜の酷い坂を上り、草木を掻き分けて進んで漸く辿り着ける場所、其処がが毎度訪れるお気に入りの場所だった。


「―――――…」


断崖絶壁の先端に立ち、は街を見下ろしながら深く静かに息を吸った。住宅やあらゆる店舗が立ち並ぶ繁華街とは違い、緑が多く生い茂った此処はとても空気が美味い。心まで癒される様な感覚に、そっと瞼を閉じれば、は背後で一つの気配が揺らめいた。


「何やってんだ、こんなとこで」


突然ふらりと姿を消す様になったに、彼も彼なりに思う事があったのだろう。勿論、獅郎が後を付けて来ているのには気付いていたのだが、隠す必要も無かったは今日も此の場所に訪れた。空中に足を放り出す形で断崖絶壁の上に座り込むに獅郎は尋ねる。遠く遥か下にある地面、落ちれば確実に即死は間違い無い高さに、獅郎は早く崖から離れろとに忠告するのだが、は獅郎の言う事を聞き入れず、ただずっと崖に座り込んだまま、遠く、遠く、向こうを眺めていた。


「一つ、聞いていいか」

「なに」

「“死神”ってのは死なねぇもんなのか?」


獅郎は過ぎった思考をそのままに、今にも崖から落ちてしまいそうな小さな背中に問えば、小さな背中の、小さな子供は振り返らぬまま答える。


「死ぬよ。人間と一緒」


其の声が何処か寂しさを含んでおり、獅郎は口を噤みの次なる言葉を待つ。乾いた風がと獅郎の間に吹き抜け、風が止むとはゆっくりと口を動かすのだ。


「霞んでいく意識も、走馬灯ってやつも、激痛も死ぬ直前には消えるのも、闇に堕ちていく感覚も。全部、一緒」


まるで“死”を経験した事があるかのような口振りで、は死ぬ間際の感覚を語る。獅郎は直感的に、は少なくとも一度は死を経験しているのだろうと直ぐに悟った。だからこそ、次に自身の口から出た言葉はとてもすんなりと出て来たのだ。


「何回死んだ?」

「人間の時に一回、死神になってから一回」


其の予想は正解で、は己が死を経験した回数を平然とした声色で語る。しかし、内心はそんな平然としていられるような死に方はしていないのだろうと獅郎は気付いていた。楽な死に方をしていれば、死の感覚をあんな風に語らないだろうからだ。


「生きるのは…これで三回目だね」


笑い飛ばすかのようには少しばかり声を明るくさせて言った。放り出した足を揺らしながら、眼前に広がる絶景を見渡す。騒がしい街だが、此処まで離れてしまえば聞こえてくる音は無い。


「生きるのは辛いか」

「うん。いずれ死ぬから」

「そりゃそうだ」


獅郎は土の地面を踏みしめ、に近寄ると其の隣に屈み込む。崖の上から見下ろす遥か下の地面は想像してたよりもずっとずっと迫力のあるものだった。


「其れが生きるっつーことだからな」



は隣にやって来た獅郎に視線を向ける。いつもの様に口角を吊り上げて笑う獅郎が其処に居た。


「けどな、今から死ぬ時の事を考えて生きてたら、つまんねーだろ」


ぐしゃりと乱暴に獅郎はの頭に大きな手を乗せて撫でた。少しの重みと、少しの温かさが頭から感じられ、胸が少しだけ穏やかになるのを感じる。獅郎の言い分はもっともなのだが、其れを素直に受け入れる事は難しかった。


「(―――――目の前で、死んでいく)」


死んで死神になって過ごした200年以上の期間。其の中で数々の戦場を駆け抜け、数々の部下や上司や同期が虚に喰われ死んでいく姿を見てきた。其の光景は今でも鮮明に脳裏に刻まれており、消えやしない。多くの親しい人達がを置いて死んでいった。そして、自身も、多くの親しい人達を置き去りにして死んだのだ。


「置いてかねぇよ」


獅郎が何故、そう言ったのかは分からなかった。まるでの思考を読み取って選び出された言葉の様で、は驚いた様にほんの少しだけ、僅かに目を大きくさせる。


「約束だ」


獅郎は笑って小指を突き立てた。無論、その小指が意味するものが分からない訳では無い。しかし、咄嗟に反応する事が出来なかったは呆然と獅郎を見ていた。


「なんだ、死神様ってのは指切りすら知らねぇのか?」

「…知ってるし」

「じゃあ指切りだ!」


くしゃりと皺を寄せて、大きく口を開いて、獅郎は笑って小指をに突き出す。恐る恐る出されたの小指は子供らしい小さな小さな短い指だった。決して離れる様に絡まる大きな太い指と、小さな短い指。定番の言葉をリズムに乗せて獅郎は口遊めば、契りを交わした指は静かに離れていった。


「ちゃんと帰って来いよ」


そう言って獅郎は立ち上がった。逆光を浴びる獅郎を見上げ、は小さく頷く。


「お前の好きなカレー作って、待っててやるからよ」


踵を返し、手を軽く振りながら去って行く獅郎の背中を見送った後、は再び静寂の訪れた崖の上でぽつりと呟くのである。


「あたし、別にカレー好きだなんて言った覚えないんだけど」


無論、の独り言は獅郎に届く事は無い。暫くしては立ち上がると尻に付いた砂を払って其の場を立ち去った。来た道を辿り、ゆったりとした足取りで修道院へと続く道を一人歩く。すっかり日が沈み薄暗くなった頃、修道院の扉を開ければリビングの方から聞こえてくる騒がしくも楽しげな和気藹々とした声が聞こえてき、導かれる様にリビングの扉を開ければカレーの独特な匂いが鼻を掠め、机を囲みスプーンを手に持つ同居人達が其処に居る。


「よう。帰ったか」

「おっせーぞ!もう食っちまったからな!」

「兄さん、ご飯粒飛んでるよ!」

「自分でよそって食えよー」


獅郎を筆頭に、口の中に沢山のカレーを含んだ燐が声を上げ、雪男が何時もの如く呆れた様子で注意をする。キッチンには大きな鍋があり、炊飯器は保温状態のままで、其の隣には用にと大きな底の深い皿が一つ置かれていた。


、言うことがあるんじゃねぇのか?」


そう言った獅郎には後ろ手に扉を閉めると、皆が見つめる中、最近よく言う様になった言葉を吐くのである。


「ただいま」


自身でカレーをよそい、獅郎の斜め左隣に座ると皆が揃って笑顔を向けてくれる。そんな中、出されていたスプーンでカレーを掬い、口に含めば少しピリッとした辛味のあるカレーの味が広がった。










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