燐と雪男が13回目の誕生日を迎えた其の歳、雪男が歴代最年少記録を叩き出し、最年少で祓魔師の資格を取得した事を獅郎から聞いた。鼻高々に誇らしげに言う其の姿は、唯の親馬鹿である。無事に小学校を卒業し、中学校に入学した燐と雪男は、身体は勿論の事、精神もとても大きく成長した。精神面で言うと、燐よりも雪男の方がずっとずっと大人びただろう。それだけの数々の事を、燐に秘密にし、にも秘密にし、ひっそりと獅郎と経験していったのだ。しかし、一つ訂正を加えるのなら、雪男はに隠してきた事実は、とうの昔からは知っていたという事である。
「ただいま〜〜〜」
清々しい朝だ。春はもう直ぐ其処まで来ているものの、矢張り夜や朝方は未だ少し肌寒い。小鳥が可愛らしい声で鳴く中、正十時学園町にある南十字男子修道院のリビングには住み込みで働く神父見習い達がこぞって集まっており、長細いテーブルには数々の色鮮やかな食事が並んでいる。この数十年、料理が出来ないながらも試行錯誤した結果、それなりに良い出来栄えの食事を作れるようになっていたのだから、時の流れとは偉大である。
「おかえり。どこ行ってたの」
「ハラ減った。メシある?」
「………あるけど」
顔や拳に出来たばかりの傷を負った燐が玄関の扉を開けて帰って来た頃、は自室のある2階から、1階にあるリビングルームに向かって寝癖がついたままの髪を乱雑に掻きながら階段を下っていた。ギシ、ギシ、と木で出来た階段は年々軋む音を大きくさせるのだが、其れは劣化の所為なのか、の身体が重くなったからか、原因はきっと両方だろう。
「おかえり。燐」
「おう。珍しいな、が朝から起きてんの」
「偶にはね」
大きな欠伸を隠しもせず、首元が伸びたスエット姿ではいつもの獅郎の斜め左隣の席に着けば、既に食事に手を付けている男達が「もっと女の子らしくだなー」「恥じらいを持てよ」「そんなんじゃ男出来ねぇぞ」なんて言いながら笑っている。其れは何時もの事なので、は気にも留めずに並べられた食事を見渡すと、静かに両手を合わせて「いただきます」と呟いた。
「おう、燐。帰ったか。職安行って朝帰りたぁ勤勉だな。なんか仕事決まったのか」
「あー…。それがその…」
空いた席、獅郎の正面の席に座った燐に、獅郎は箸を片手に口角を吊り上げて尋ねた。途端言葉を濁らせる燐に、茶碗に白ご飯をよそった雪男が呆れながら口を挟む。
「またケンカしたんでしょ。ケガしてる」
「!」
「なにッ」
雪男の告げ口にビクリと身体を反応させた燐に、獅郎は素早く立ち上がると手に持っていた箸を真っ直ぐ燐へと投げつけた。食事の上を箸が回転しながら飛んでいくのだが、誰も其の箸に気を留めないないのは、最早これが日常的によくある事であり、すっかり慣れた出来事だからである。
「お前はどーしてそうケンカッ早いんだ!…手ェ出す前にまず考えろって言ってんだろ!!」
「いだァ!人のこと言えんのかよ!!」
「なさけねえ!」
箸が激突した額を顔を歪めて抑える燐に、獅郎は再び椅子に腰を下ろすと、服のポケットに入れていた二つ折りの紙を取り出せば、其れをサラダを食べているへと渡すのである。
「…コレを回せ!」
まるでバケツリレーの様には其の紙を隣の男に渡し、隣の男もまた其の隣の男へと渡る。そうやって紙は男達の手によって燐の元へと辿り着けば、燐は恐る恐る其の紙を開くと、其処に箇条書きにされた文字を読むのだ。
「なにコレ」
「知り合いの料亭が見習いを一人欲しがっててな。お前どうだ。その気があるなら今日面接してくれるってよ」
「りょ、料亭!?俺が…!?ム、ムリだろ!」
「何でムリなんだ。…お前料理得意じゃないか。ピッタリだろ」
其れは紛れも無く獅郎が燐の為に探してきた仕事で、ずずっと味噌汁を啜りながら、は紙に書かれた内容を見て動揺を示す燐を眺めた。
「俺に…そんな、ま…まともな仕事できるわけねーだろ。自分の事は自分でよく解ってんだ」
俯きながら、そう言う燐の表情は歪んでおり、其の言い方はまるで自分がまともじゃないかの様だった。其れが獅郎の怒りに触れるのである。
「バカヤロウ!!学歴ねぇくせに仕事えり好みしてんじゃねぇ。俺には後見人としてお前等を一人前にする責任があるんだ!」
何時かは離れていく、血が繋がらない子供。其れでも獅郎は此の十数年間、我が子同然の様に燐と雪男を育て、今まで見守って来た。其れは二人を本当に大切に思い、愛しているからだ。何時までも傍に居る事が出来ないからこそ、時には厳しく接する事も必要なのである。
「本当に解ってるのか!?いずれお前は修道院を出て、一人で生きていかなきゃなんねーんだぞ!!」
真っ直ぐ獅郎に見据えられ、燐は下唇を強く噛み締める。燐も分かっていない訳ではない。ただ、其れを理解し、納得するには、未だ精神が大人になりきれていないのだ。
「…んなことッ、わかってるよ!!!!」
燐の荒げた声に反応する様に、リビングを暖めていた年季の入ったストーブが突如爆発する。ストーブの上に乗せて温めていた鍋が、其の反動で真っ逆さまに床に落ち、折角の料理が床に無残に飛び散った。暫しの静寂、突然の出来事に困惑の色を隠せない男達。食事は一時中断され、男達は立ち上がり汚れた床と転がった鍋、ストーブの片付けに取り掛かる中、何か考え込むようにずれた眼鏡を直す様に上げた獅郎を、は横目で見ていた。
「獅郎」
「………」
が獅郎の名を呼ぶ。しかし獅郎は何も答えず視線だけをへとやった。其れだけで十分だった。二人は十分、口は出してはいないものの、互いの思考を理解した。
「藤本神父。お客様が…」
「おう」
すっと横から現れ、軽く頭をやや下げながら髭を生やした男が獅郎に耳打ちする。此の男、一足先に正装に着替え、皆が食事を取っている間、表に出ていたのである。
「雪男、後で燐を手当てしてやれ」
「……はい」
雪男が少しの間を置いて返事をすれば、獅郎は呼びに来た男と共にリビングを出て行く。朝早くから訪れた客の相手をしに行くのだろう。獅郎の姿を視界の端から消えるまで見届けたなら、は机の中央に置かれた目玉焼きを掴んだ。ふっくらと焼き上げられた其れはとても美味だった。
「チッ、クソジジイ…」
「まあまあ」
爆発したストーブと吹っ飛んだ鍋の後片付けは神父見習いの男達が。机の上に散乱した空っぽの食器達は手際良く燐と雪男が後片付けをした。机に備付けられた椅子の上で膝を立てた体育座りでリビングか綺麗になっていく姿を見ていただが、誰もを咎めようとはしない。は昔から何かをするだとか、手伝ったりだとか、そういった類の事は一度だってして来なかったからである。実際、現在も燐の手当てをする雪男の隣で、は今日の朝刊を雪男が入れた温かい珈琲を飲みながら読んでいた。
「…雪男、お前いつ高校始まんの?」
「もうすぐ」
「…はーーーーー、正十字学園て超名門なんだろ?すんげーよな!双子の兄として俺は鼻が高いね!」
「はは…」
燐と雪男が中学を卒業してから暫く経つ。もう直ぐ春を迎える此の季節は期待を胸に躍らせる人々も少なくは無いだろう。中学を卒業する前の進路の問題で、雪男は迷わず正十字学園の進学を希望し、対して燐は就職を選択した。今朝の通り、就職を選択したものの仕事は未だ決まらずに居て、雪男の入学式はもう直ぐ其処まで迫っているのだが。
「僕は医者になりたいから…ただ、その為に必死なんだ」
「お前ならぜってーなれるよ!」
「………頑張るよ」
其の燐の言葉は、今からずっと昔にも聞いた事のある言葉。幼い頃、虐められていた雪男に向かって燐が言った言葉だ。当時は将来の夢も自分で言えなかった雪男だが、今となってはこうして自らの口で将来の夢を語り、笑みを浮かべることも出来る様になった。ただ、その将来の夢と語る言葉の裏に、どんな感情が潜んでいるのかまでは、きっと本人にしか解らない事だろう。
「手当ての手際もいーしな!」
「それは兄さんがしょっちゅうケンカするからだね」
救急箱を広げ、燐の傷付いた手を消毒した後に絆創膏を貼る姿は本当に手際が良く、逆を言えば燐が其れだけ沢山の喧嘩をし、怪我を負って帰って来ているという証拠でもある。
「弟に引きかえ兄貴はショボすぎんな…」
「…兄さんはどうしたいの?」
「…な、なんだよ。お前も説教か?」
「…心配してるんじゃないか…神父さんだって、兄さんが心配なんだよ」
「………。」
行儀悪く、机に座っている燐は苦い声を零しながら、両手を後ろについて天井を見上げる。雪男は、お役目御免となった救急箱を抱えており、そんな様子の燐を心配そうに眉を下げて見つめている。ぺらり、乾いた音を立てては新聞を捲り、珈琲を一口飲んだ。今読んでいる記事は最近連続で犯行を起こしている連続殺人に関する記事である。
「…俺だってこれでもアセッてんだ。早くまともになんなきゃってさ…。でも、きっかけがないっつーか…。つか、俺よりもだろ!」
燐が己の進路の事を雪男を話している中、突然其の話題が自身に向いては視線だけを新聞から上げて燐を見た。びしっと人差し指をに突き出し、焦っている様な表情を浮かべている所から、燐は己の話題を避ける為、こうしてに話を振ったのが見え見えだった。
「に関しては小学も、中学も出てねぇーし。そもそも入学すらしてねぇよな?お前そんなんで将来どうすんだよ!」
「………、」
まだ半分残っている珈琲の入ったマグカップを口元に運んだ所で、は手を制止させると、初めて新聞から視線を外し、机の上に座る燐を見上げた。小学生の頃は未だの方が背が高かったというのに、今となっては燐だけでなく、雪男にまで身長を抜かれてしまったのだから、随分と大きくなったものである。そんなつい最近まで小さかった子供に、まさか自分の今後の人生を心配される羽目になるとはは露程にも思わなかった訳で、はマグカップを机の上に置くと静かに燐の名を呼ぶのだ。
「燐」
「…な、なんだよ」
何を言われるのかと不安なのか、落ち着きの無い様子でを恐る恐る見る燐。図体は大きくなったものの、中身は未だ昔と何ら変わりないらしい。
「料亭、面接行っておいで」
結局、燐の自分の話題からに標的を移すという作戦は、の此の一言によって失敗に終わり、話題も再び燐へと戻るのである。
「そうだよ、兄さん。試しに料亭の面接受けてみたら?」
「え…」
「重く考えないでさ…」
雪男はにっこり笑った。救急箱を持ったまま燐に詰め寄れば、唇を尖らせて難色を見せる燐。本気で料亭が嫌なのではなく、きっと不安だとか、恥ずかしさだとか、そう言った感情が燐の中では渦巻いており、抵抗を生んでいるのだろう。
「お、いたいた」
雪男の説得の言葉に被さる様にしてリビングに響いた声は、先程まで一緒に食事を囲っていた見習いの男で、少し大きめの白い箱を燐に投げ渡すと、そのまま燐に歩み寄り、己の腕に掛けていた皺一つ無いシャツとズボンを燐の頭の上へと被せるのである。何処からどう見えも、それはスーツだった。
「ほれ、面接行くんだろ?」
「は!?」
「スーツだよスーツ!リクルートなんだからビシッと決めなきゃな」
「まだ行くとかいってないんだけど…」
「もし仕事決まったら夕飯スキヤキにしてやんぞ燐」
「肉!?行く!」
「(肉がきっかけ…)」
結局スキヤキという言葉に吊れられ、燐は意気揚々と借りたスーツ一式を持って着替える為にリビングを飛び出していく。嵐が去り、静かになったリビングでは再び新聞に視線を落とすと残りの珈琲を全て飲み干すのだ。
「」
「なに」
「は、どうするつもりなの?」
「なにが」
「これからのことだよ」
どうやら燐と同じ事を雪男も思っていたらしい。真っ直ぐと此方を見る雪男の瞳を見て、は暫し口を噤んで黙り込んだ。燐の様に上手くはぐらかせてはくれないだろう、瞳の力強さがそう言っていた。
「雪男」
「…なに?」
「おかわり」
しかし、だからと言って素直に白状するでも無い。空になったマグカップを相変わらずの仏頂面を引っ提げて、は雪男に突きつけた。雪男はほんの少しだけ、眉を吊り上げる。
「、話を―――」
「雪男」
すぐさま話を戻そうと口を開いた雪男だが、は其れを許さない。名を呼び、言葉を被せて言えば、雪男は渋々口を噤む。其れを見ては、にぃっと口角を吊り上げてニヒルに笑うのだ。
「おかわり」
雪男は暫くの間を置くと、結局の突き出したマグカップを受け取り台所へと向かう。其の背中を眺めた後、は再び新聞に視線を落とした。
戻ル | 進ム
|