窓から飛び降り、時折霊子を固めた足場で勢いを殺しながら一気に1階まで下降したは、開いた窓から寮の中へと戻り、女子風呂へ向かって廊下を駆けた。そして女子風呂に土足のまま中へと入れば、が目にしたのは、へたり込む下着姿の出雲でも、腕を負傷した朴の隣で腰掛けて応急処置を行うしえみでも、粉々に吹き飛ばされていた浴室と繋がる硝子の引き戸でもなく、浴室のタイルの上で屍の悪魔に馬乗りにされ、首を締め付けられている燐の姿だった。


「アンタ…!」


現われたに気付いたのか、驚いた様に目を丸くさせた神木を視界にも要れず、は大きく足を広げて駆ける。瞬きすれば一瞬にして視界から消えてしまいそうな速度を生む脚力は、とてもあの細い足からは想像する事が出来ない。武器すら持たず、一直線に屍へと向かって間合いを詰めるに出雲は口を開いたものの、何も言えずにいた。


「(何も…出来ない…!)」


大切な友達一人守る事が出来ず、こうして腰を抜かせ、の様に果敢に悪魔へ立ち向かう勇気も無い自分が、躊躇い一つ無く立ち向かうに、一体何が言えるというのだろう。は駆ける速度を落とさずに、道中吹き飛んだ引き戸の硝子の破片を拾い上げる。悪魔相手に使い魔も無く、只の硝子の破片で立ち向かう無謀とも言えるの背中に、何の言葉を掛ける事が出来るのか。出雲には、何も、無かった。


さん!」


目の前を通り過ぎた影が、であると認識すると、しえみは使い魔を傍らに朴の傍から離れずの名を呼んだ。は強く床を蹴った。握った硝子の破片が皮膚に食い込み鋭い痛みを走らせる。しかしは迷わない。一切の躊躇無く、其の硝子を振りかぶり、屍の横顔に突き刺すのだ。


「…ゲホッ………え…?」


横顔に突き刺さった衝撃に燐の首を絞める屍の力が僅かに緩み、燐は苦しそうに表情を歪めながらも、視界の端に突如現われた姿に声を漏らした。長らく首を圧迫されていたからか、燐の声は掠れており、其れが余計にの神経を逆撫でさせた。


「(…?)」


燐は呆然と、を見つめていた。其の瞳に釘付けになったのだ。こんなにも、怒りを瞳に宿したを燐は見た事が無かった。頬に突き刺した硝子を握る右手の上に、は更に左手を重ね、力任せに両手で皮膚に刺さる硝子を斜め下へと切り下げる。首を両断せんばかりに裂かれた皮膚に、屍は呻き声を上げて生臭い血を傷口から噴出させるが、出血しているのは屍だけでは無い。硝子を握るの掌からも、鮮明な赤が飛んだ。




「退け」




とても其れは冷たく、氷の様な声で、有無を言わさぬ程に圧力のある言葉だった。から醸し出される絶対零度の空気に、誰もが息を呑む。そんな時、屍の手が、燐の首から離れた。圧迫感が無くなり、楽になる呼吸。燐は屍を呆然と見上げた。有り得ない事ではなるが、其れがどうしても、まるでに屍が従ったかの様に見えたからだ。


「兄さん!!!!」


刹那、雪男が燐を呼ぶ声が風呂場に響き渡る。は瞬時に身を屈めて燐の上へと覆い被さると、其の上を数々の無数の銃弾が飛び、屍の上半身に撃ち込まれて行く。端から見ればと雪男の動きは、一寸の狂いも無い完璧なタイミングのコンビネーションだった。屍は何やら吠えると飛び上がり、浴槽の縁を蹴り上げて天井付近に設置された窓硝子を突き破って外へと逃げ出すと、場の空気はほんの少しだけ穏やかになるのだ。風呂場の入口の方面では銃を片手に構え、肩で息をする雪男の姿が有り、其れから少し遅れて勝呂、志摩、子猫丸が現われる。


「ゆ…きおッ、遅ェーぞ!!」


意外にも登場の遅かった雪男には燐の上から退くと、燐は上半身を起こしながら締め付けられていた首元を摩った。雪男は視線を燐からへと移し、更に逃げた屍へと向けると直ぐ様後方、しえみと朴の方へと振り返る。屍が退いた今、最優先は負傷した朴だからだ。


「しえみさん。朴さんは…」

「雪ちゃん………。わ…私…」


銃を仕舞いながら雪男は横たわる朴の元へと近寄ると、しえみの傍らに笑顔を振りまく小さな使い魔が居る事に気付く。其れに驚きながらも、朴が負傷した腕を診る雪男は、其の傷の上に巻きつけられたアロエを見て、しえみが使い魔を呼び、使い魔がアロエを召喚したのだと悟るのである。


「屍系の魔障は対処が遅れると命取りになる可能性があった。この処置は正しいです。しえみさんがいなかったらどうなっていたか…」


感心する様に雪男は朴の傷口を見ながら言葉を繋ぐ。どうやら意識があったようで、虚ろながらも朴の視線は、ゆっくりと雪男からしえみへと移るのだ。


「杜山さん…」


朴がか細い声でしえみを呼ぶと、しえみの視線は朴へと落ちた。傷が痛むのだろう。汗を浮かばせながらも優しい笑みを浮かべた朴は、心からの想いを言葉に乗せてしえみへと伝えるのである。


「ありが、と」


其の言葉が、しえみの心に深く深く染み渡る。


「うん!」


頬を赤く色付かせ、花が咲いた様に笑うしえみを、皆が温かく見守っていた。駆け付けた勝呂や志摩、子猫丸も朴の周りへと集まりだし、其の容態を気に掛ける。そんな中、は静かに足を引いて下がると、燐は首元を摩りながらへと視線を向ける。


「おい…お前、」


燐が言わんとしている事は容易に想像がついた。が、は応じるつもりはない。血液が滴る右手をそっと背に隠し、反対の手で口元に人差し指を立てる。静かに、言葉にせずとも口の形で分かる紡がれた言葉に燐は不服そうにしながらも口を閉ざした。の瞳には、先程宿していた怒りの炎は無い。


「(何であんなに怒ってたんだろ…)」


踵を返し、誰の目に留まる事も無く、気付かれる事も無く、はそっと女子風呂を出て行った。其の背中を、燐はぼんやりと眺めながら自身も此の場から立ち去る為に歩き出す。脳裏には屍へと向けていたの鋭い刃物の様な瞳が焼き付いていて離れなかった。あんなにも感情を露にし、敵意を見せるを、燐は見た事が無かったからだ。


「う?」


しかし其処で思考は一旦中断する。物陰にひっそりと屈んで居た所為で見えなかった出雲の姿に気付いたからだ。驚きのあまり、ほんの僅かに跳ねる肩。下着姿のまま、何やら小声で独り言を呟きながら涙を流す出雲を燐は呆然と見下ろすのだ。



















其の頃、はと言うと、一人寮の階段を上っていた。足音を響かせながら、一段、また一段を上る。四二三号室、メフィスト曰く、通称“死神ルーム”は紛れも無いへと宛がわれた、の自室だ。自室の扉を押し開け、は手に持ったままの硝子の破片を無造作にゴミ箱の中へと投げ捨てる。右掌へと視線を向ければ、一直線に亀裂が走る、割と深い傷が有り、今も尚じわじわと赤い血を滲ませていた。


「(屍…ネイガウスの差し金か…?)」


悪魔にあえて鬼道などの術を使用せずに、偶々転がっていた硝子の破片という心許無い武器で挑んだのは、しえみや出雲、朴は勿論の事、燐にも未だ死神である事を知られたくなかったからだ。雪男が向かって来ている事も分かっていた為、屍を倒そうとはせずとも、只時間さえ稼ぐ事が出来れば十分だと考えた結果である。


「(…何の目的で…)」


床に滴る血液に眉を顰めると、は負傷した右手を握った。淡い光が右手を包み、暫くして其の手を開くと血痕こそ付着しているが、其処には傷一つ無い掌がある。は制服のスカートに皺が寄る事も気にせず、後ろから倒れ掛かる様にしてベッドの上へと倒れた。スプリングの利いたマットが優しくの身体を受け止める。血に汚れた右手を天へと翳せば、はすっと目を細めるのだ。


「(…風呂どうしよう)」


吹き飛んだ引き戸と天井。言うまでも無く風呂場のタイルの上や、湯の溜まった浴槽にも硝子の破片は飛び散っている事だろう。ついでに言うと、彼方此方に屍の体液や血液も飛んで汚れていた筈なのだ。あの荒れ果てた風呂を、一体誰が片付けてくれるのだろうか。むしろ片付けて直ぐに風呂に入る事が出来るのだろうか。風呂の心配をしながら、静かには瞼を閉じる。翳していた手はだらりと落ちて、意識は徐々に微睡んでいった。鬼道を治癒にも使えるだが、余り得意ではない事もあり、使った後は此れでもかという眠気や怠さが襲って来るのだ。どっと押し寄せる疲れが、の意識を奪う。少しだけ、眠ろう。そう思ったのも束の間、は小さな寝息を立てて眠っていた。










戻ル | 進ム

inserted by FC2 system