「何でそんなキリの悪い数字なんか分からんけど…一人部屋やなんて願ったり叶ったりやん!」


今にもスキップを始めんばかりの軽い足取りで、志摩は顔を緩ませながら薄暗い廊下を歩いてた。勿論其の笑みは胸の中で渦巻く下心から来るものである。呼びに行くという面倒事も率先して立候補したのも、“何かあれば”良いと思ったからに他ならなかった。


「此処…やな」


ぽつり、小さく呟いて志摩は四二三号室と書かれた扉の前で立ち止まる。初めての姿を目にした時の志摩の感想は“男持ちの綺麗な子”だった。全く興味が無かった訳ではない。例え彼氏が居たとしてもの姿は良く志摩の目に止まった。いつも燐の隣で静かに佇むは、冷静沈着、クールビューティーといった言葉が似合う、大人っぽい女子だった。其れが、志摩の抱く“”という人物の人物像で、其れ以上の感想も感情も特には無かった。唯、見かける度に“綺麗やなぁ”と精々思う程度だった。其れが変化したのは、杜山しえみという新たな塾生が加わり、燐の隣にでは無く、しえみが座る様になった頃。が燐やしえみから距離を取る様に、一番後ろの席に座る様になってからだ。


「(開いてる…?)」


ノックする前に何気無く手を掛けたドアノブが、突っ掛かる事もなく簡単に動き、僅かに開いた扉に志摩は運が良いと思う反面、不用心だなと内心思う。音を立てない様にゆっくりと扉を引けば、鈍い音を立てて開く扉。部屋の中は明かりが無く、廊下よりも暗い。寝ているのだろうか、寝ているのなら扉の開いた音で起こしてしまっただろうか。其の時は、何と言い訳をしようか。そんな事を思いながらも足は自然と部屋の中へと進んで行く。


「(寝てるやん…)」


部屋の奥、窓の外から柔い月の光が差し込む僅かに明るい部屋のベットの上で、布団も被らずに瞼を閉ざすの姿があった。純粋に、綺麗だと、思った。其の陶器の様な白い肌に触れたいとさえ思う程だった。


「(ホンマに…綺麗やなぁ)」


頬杖を付いて、心此処に在らずといった風に、ぼんやりとしながら、つまらなさそうに授業を受けているの姿を、志摩はよく目にする様になっていた。時折寂しそうに、時折悲しそうに燐の背中を見つめるの姿も良く見た。噂によると二人は付き合っていないらしく、唯の友人関係なんだそうだが、志摩から見れば、決しては燐に対して友人の枠組みに収まるような感情を抱いている様には到底見えなかった。


「(冷たい…生きてる、やんな?)」


無意識に伸ばした手は、の頬を撫でていた。触れた手から伝わるのは冷たい温度で、ほんの少し死んでいるのかと不安を過ぎらせる。撫ていた手を頬から離し、直ぐ横のシーツへと手を付くとほんの少し前屈みとなって今度は反対側の手を伸ばした。触れた肌は、やはり冷たかった。


「(ちょっと無防備過ぎるんとちゃうの?)」


真っ白なシーツの上で散らばる漆黒の艶やかな長い髪、陶器の様な白い肌の上で滑る切り揃えられた前髪。閉ざされた瞼から生える長い睫毛。全てが、美しかった。


「(これくらい…ええよな)」


頬を包んだ手を其のままに、桃色に色付く其れを目掛けて近付く。触れたい、其の味を知りたい。欲望のままに身体は自然と動いた。互いの呼吸が聞こえる距離、唇が触れ合うまで、あと数cmの所で志摩は目を細めた。目を開いたまま口付けをする主義では無いからだ。シャンプーの匂いだろうか、優しい良い匂いが志摩の鼻を掠める。嗚呼、奥村くんはアホや。志摩は心の中でそっと毒突く。こないな別嬪さん、ほっとくなんか男やないわ。指先で触れたの頬を撫でる。傷も出来物も無い平で柔らかい肌の心地良い感触に、遂に志摩は瞼をそっと下ろす。


「何?」


刹那、耳に届いた、はっきりとした声に志摩は今迄の人生の中で一番と言える程の驚愕を受ける。反射的に瞬時に下がっていた瞼を見開かせると、至近距離で見えたのは寝起きだとは到底思えない程にしっかりと開かれた漆黒の瞳だった。動揺しない筈も無く、頭の中で言い訳がグルグルと巡る。しかし、其の言葉を口にするよりも早く、シーツに付いた手首が信じられない力で掴まれた。慌てて其方へ視線を向けると、己の手首をしっかりと握り込むの細い指がある。血の気が、引いた。瞬間。左足の付け根に鋭い衝撃が走り、まるで後ろから引っ張られたかの様に勢い良く志摩の身体がから離れて後方へ吹っ飛ぶ。その最中、見えたのは此方に足を突き出したの姿。に蹴られたのだと理解すると同時に床と衝突した衝撃が電気が走るかの様に志摩の背中を突き抜ける。


「グホォッ!!」

「女の部屋に断りも無く入って…何をしようとしてた?」


背中が、痛い。其れも強烈に。格好悪いなと思いつつも口から漏れるのは言い訳なんかじゃなく、唯の激痛に耐える呻き声だ。痛みが少し和らいだ頃、何とか弁解しようと志摩は口を開きながら顔を上げ、絶句した。自身の腹部を跨いで無表情に見下ろすの目が、此れ以上無く恐ろしかったからだ。


「ちょ…ま…、ちゃ、ちゃうねん!待って待って待って!!」

「何が違うって?」


は怒りもせず、笑いもせず、唯々無表情に志摩を見下ろす。特に脅している訳では無かったが、其れでも志摩を怯えさせるには効果は十分だった様で、志摩は顔を勢い良く横に振りながら否定するのだ。全くもって、からすれば何が違い、待たなくてはいけないのか分からなかったが。


「い、いやぁ…。さん風呂まだやろ?交代で男子風呂入る事になったから呼びに来ただけで…」

「………。」


風呂に呼びに来ただけだと志摩は訴えるが、呼びに来るのに唇を奪おうとする必要が有るのか。其れでは理由にならない事など、志摩にも十分分かっていた事だ。己が口にした言葉が、どれだけ意味の成さないもので、を納得させるのには不十分な言い訳だったか。穴があれば是非とも入りたいと強く思う程に志摩には分かっていた。


「(アカン…終わった)」


志摩は未だ自身を見下ろすを見上げ、僅かに口元を歪に吊り上がらせた。口走った言葉がもう少し尤もらしければ、己の此の危機をどうにか出来たのかもしれない。否、寝ていると踏んで唇を奪おうとした決定的瞬間を見られた時点で、志摩の未来は決まっていたも同然なのだ。志摩は覚悟を決める。殴るも蹴るも、好きにしてくれと。煮るなり焼くなり、自由にしてくれと。次に来る衝撃に奥歯を噛み締めたのなら、動きを見せたに強く目を瞑るのだ。だが、身体を襲う痛みは一向に無かった。


「へ…?」

「何?」


恐る恐る開いた瞳が映したものは、己の上から退いたが、何やら段ボールの中から衣服を見繕っている光景だった。間抜けな声を出した志摩を何だと目を細めて見やるに、反射的に志摩は顔を勢い良く横に振る。我ながら、必死だなと思った。


「な…何してるん?」

「着替え。用意してる」


呆然とする志摩を一瞥し、は床に無造作に置かれていた手提げ鞄に着替えとバスタオルを詰め込む。まるで先程の事件が無かったの様に平然としているに、困惑する志摩。荷物を詰め終えた鞄を肩から下げると、はドアノブに手を掛けて未だ床に倒れたままの志摩を見れば、相変わらずの仏頂面で淡々と言うのだ。


「風呂、呼びに来たんでしょ。先行くから」


志摩は何も言えず、返事を期待していた訳では無かったは、自室に志摩を放置したまま、とっとと部屋を出て風呂場に向かって行った。遠ざかって行く小さな足音。其れから暫くして漸く志摩は上体を起き上がらせる。全くもって、頭の中で状況を処理する事が出来なかったが、其れでも唯一理解出来た事は、自身の過ちを許されたという事だ。



















志摩が入浴待ちをする塾生が集まる部屋へと戻って来た時、其処にはしえみの姿は無く、燐、勝呂、子猫丸の三人の姿だけが残っていた。特に何も発さず静かに入室した志摩だったが、次の風呂の番だった筈の勝呂が、未だ風呂に入っていない様子で座っていた事が気になり、志摩は首を僅かに傾ける。


「あれ?坊、風呂まだ入ってはらんのですか?」

「先にさんが入っとる」

「ああ…」


勝呂の隣に腰掛けながら、そう言えば風呂は勝呂の後になるだろう事をに告げるのを忘れていたと振り返る。勝呂の事だ、入浴権はに譲ったのだろう。本来ならば燐や宝よりも先に入浴する筈だったのだから、勝呂が譲ったのも当然と言えば当然の事だった。


「お前大丈夫だったのかよ」

「ん?」


勝呂の隣で楽な姿勢を取る志摩に、恐る恐ると近付いて来た燐に志摩は首を傾げる。燐の顔色があまり良くない事や、志摩の身体を気遣っている台詞に、志摩がの部屋に向かった時の事を言っているのだと瞬時に察すると、志摩の表情は途端に儚げにさせて、ぽつりと声を漏らした。


「せやなぁ…」


其の続きは問い掛けた燐だけで無く、隣に座っていた勝呂や子猫丸までもが顔を上げて志摩が次に発する言葉を待っている。志摩は静かに息を吸い、其れを時間を掛けて吐き出した。脳裏に過ぎるのは微笑みこそしなかったが此方に振り向くの横顔。普段からあまり笑みといった表情を浮かべないからすれば、其の無表情が標準装備である事は承知済みである。咎める事も、罵声を上げる事も無く紡がれた短い言葉。今でもはっきりと思い出せた。そして、志摩がゆっくりと唇を開くと誰かが生唾を飲み込んだ。


「菩薩や…」

「…は?」


一方的に怒鳴り付けもせず、何も言わずに全てを許して出て行ったは、まさに菩薩だった。背後から輝く神々しい光、美しい容姿には呼吸すら忘れた。勿論、実際はそんな事は無く、志摩の目にそう映っただけなのだが。普通ならば引っ叩くにしても、騒ぎ叫んで喚いても可笑しくない状況だと言うのに、それをあたかも何も無かったと言わんばかりに流して立ち去ったの背中に志摩が涙が出そうになったのは言わずもがなだ。まるで悟りを開いたかの様な遠い目で、しみじみと呟いた志摩の言葉に燐だけでは無く、勝呂や子猫丸までもが驚いた表情を浮かべる。ははは、と乾いた声を漏らす志摩の表情は何故だが清々しく爽やかで三者は思わず声を失うのだった。










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