「“…心を騒がすな、神を信じまた我を信ぜよ。汝、汝らを導きて心理をことごとく悟らしめん。彼己より語るにあらず”」


木のバリケードを前に、勝呂は唯ひたすら無心に詠唱を唱え続ける。屍は目の前を阻む木を破壊し進み、木と木の隙間から其の醜い顔を覗かせ、勝呂目掛けて唸り声を上げながら手を伸ばしていた。


「う゛わ゛ーー!!とうとうここまで来た!」

「坊は最後の章に入った…」

「“凡そ聞くところの事、悟らしめれ…これ彼が如何なる死にて神の栄光を示し言い給いしなり”」


眼前まで迫る屍の姿に真っ青になりながら志摩は不安と恐怖に声を上げ、子猫丸は冷静に詠唱する勝呂を見つめている。


「お、奥村くんどないならはったろ…」

「か…考えたないなぁ」


勝呂、子猫丸、志摩、しえみの四人掛かりでも此の様で、屍は未だに無傷で目の前まで迫って来ている。屍を一匹引き連れて部屋を飛び出して行った燐に不安を抱かない訳が無く、頭に過ぎるのは燐の“死”だ。そんな中、平然と今の現状を眺めている。燐の霊圧は消えずちゃんと捕捉出来ている。即ち生きているということだ。


「(見る限り屍はネイガウスの使い魔。部屋には五人の祓魔師が潜んでる…助太刀に入る気配も無い)」


ぼんやりとは思考する。現状を正確に理解し、状況を把握する為だ。そして情報を一つずつ処理し、パズルの様に組み合わせていくと一つの仮説に辿り着くのだ。此れが“候補生認定試験”なのではないかと。刹那、しえみの霊圧が揺らぐ。


「杜山さん!」


受身を取るのも儘ならず、倒れるしえみと同時に消える木のバリケード。煙を巻いて消え去った木に目の前を阻むものが無くなった屍は嬉しそうに呻き声を上げた。顔の表情は全く持って読み取れないので、本当に嬉しがっているのかは定かでは無いが。


「のやろォ…!」


志摩は構えていた錫杖を突き出し、屍の胸を貫く。続いて錫杖を引き抜き屍に振りかざせば、屍は手で錫杖を弾き飛ばし、志摩の手から離れて円を描きながら部屋の隅へと飛ぶ。


「しもた!!」


武器を失い後退した志摩に目もくれず、屍は詠唱する勝呂を狙って近寄れば、其の頭部を破裂させ、まるで花の様に開かせれば、中央には大きな口があり、長い舌は勝呂へと伸びる。此の皮膚が花の様に開き、其処から覗く目や口から見て、屍の顔は本来此方にあたるのだろう。


「坊!」


屍が詠唱する無防備な勝呂へと両手を伸ばし襲い掛かれば、子猫丸が声を上げて勝呂へ逃げろと訴える。しかし勝呂は詠唱を止めない。は素直に大した度胸だと思った。普通の精神をしていれば、詠唱を止めて逃げ出しても可笑しくない此の状況、勝呂は腰を下ろした場所から一歩も動かず、ただひたすらに唱える。もしも今唱えている詠唱が屍の致死節で無ければ全て水の泡だと言うのに。


「“ふるえゆらゆらとふるえ…靈の祓!!!!”」


事態に見兼ねたのか、倒れたしえみに後押しされたのか、今まで何も行動を起こさなかった出雲が詠唱を唱え、二匹の白狐を召喚し、白狐は屍に襲い掛かり飛び回る。淡い光を放つ出雲の使い魔を用いた攻撃に、痛みに絶叫を上げる屍の声は耳に痛い程に響いた。


「神木さん!!」

「やった…!?」


加勢に加わると思わなかったのか、出雲の行動に子猫丸が驚愕を示し、志摩は苦しむ屍にほんの少し緊張を和らげた。しかし、屍は傷こそ負ったものの致命傷では無かった様で、勝呂へとまた手を伸ばすのである。


「“…またこれを録しし者…この弟子…なり!………!!!我らは、その證の、真なるを…!!知る」

「坊!」


屍の手が勝呂の髪を引っ掴み、勝呂の体は徐々に上へと浮かされる。髪を引かれる頭部の痛みに顔を強張らせながら、眼前に迫る屍の顔に言葉を詰まらせながらも、勝呂は詠唱し続けた。子猫丸が叫ぶ。駆け寄る体力ももう無かった。志摩は顔を歪め、屍に弾かれた錫杖を拾い上げると屍に振り向き、息を呑んだ。恐ろしくない、訳が無い。屍の隙をつく為に、機会を窺う。其の間にも勝呂は今にも屍に殺されてしまいそうで、やるしか無いと志摩が覚悟を決めた時。


「借りる」


凛とした鋭い声が志摩の耳に掠めた刹那、確かに手に握っていた筈の錫杖の感触が消えた。目の前には志摩の錫杖を握ったの背中が有り、志摩は呆然と其の背中を眺めるのだ。


「(使い辛い…)」


錫杖を握った感触に、は顔には出さないものの内心溜息を零す。もっとも、使い慣れない獲物だからといって使えない訳ではないのだ。錫杖を横一直線に一振りし、屍の腹部を切り裂くと、其の腰に向かって錫杖を鋭く突き刺す。痛みに背を仰け反った屍は呻き声を上げて勝呂の頭部を手放すと、背後から錫杖を突き刺したへとゆっくりと振り返るのだ。屍の標的が、勝呂からに移る。


さん!あかん!!」


子猫丸が前のめりにへと叫び、其の場に落ちた勝呂は呆然と屍に立ち向かうを見つめ、再び詠唱の続きを口ずさむ。錫杖を引き抜き、は錫杖を構え直した。とはいっても、其の先端を屍の顔に突き付けているだけで、何の型でも無い構え。しかし、屍がなかなかに襲い掛かる事が出来ずにいるのは、其の一見何も考えていない様な構えに一切の隙が無いからである。


「(何や…あの目ぇ…!!)」


勝呂は詠唱しながら、屍越しに見えるの目を見ていた。特別殺気を向けている訳でも無く、怯えている様子も無い。唯、無表情に屍を見上げて錫杖を構えるの瞳は“無”其のもので、逆に其れが恐れを抱かせた。刹那、目の前が白く光輝き、眩しさに目を細める。


「電気が…!!」


消えていた照明が再び光を放ち、当りを照らす。鮮明に見える屍の姿には構えていた錫杖を降ろすと一歩後ろへと後退した。だが、屍はに襲い掛からない。点いた照明の光が、屍の動きを鈍らせるのだ。屍は光がとても苦手な悪魔だからである。


「“…我…おもうに世界も…”」


勝呂の詠唱が響く。露になっていた顔を隠す様に開いた皮膚を元通りに閉ざしながら、屍は再び勝呂に振り返り手を伸ばした。しかし勝呂は恐れない。勝気に満ちた表情を浮かべ、薄っすらと口角を吊り上げるのだ。唱えていた最後の章が、終わる。


「“…その録すところの書を載するに、耐えざらん!!!!」


詠唱を最後まで言い切ったと同時に消し去る屍の肉体。黒い煙を上げて消える其の姿はまるで目の前にいた屍が其処に最初から居なかったのでは無いかと思わせる程で、跡形も無く消えていく。


「坊!!」


屍が滅され、子猫丸は歓喜と安堵で勝呂の名を叫び、小刻みに震えながら浅い呼吸を繰り返す勝呂も元へと駆け寄った。屍が消えたことで用済みとなった錫杖を、は無言で志摩に突き出すと、志摩は呆然と其の錫杖をから受け取るのだ。


さん…」

「…?」


受け取った錫杖を握り締めながら、志摩は己を真っ直ぐ見るを見つめた。の瞳に、頬をほんの少し赤らめる志摩の顔が映る。


「惚れそう」


只一言、へらりと緩い笑みを浮かべて志摩はそう零した。射抜く様な瞳で一瞥した瞳、志摩が承諾する前に錫杖を奪って果敢に屍に対峙する背中、屍を真っ直ぐ見据えて錫杖を突き出し威圧する其の背中は女にしておくには勿体無い程に格好良かったのだ。


「200年早い」

「200!?其の頃なったら死んでるやん!」


不敵に、ニヒルに、軽薄に、はほんの少し口角を吊り上げて笑うと、志摩から視線を、へたり込む勝呂へと向ける。に返された言葉に、いつもの調子で戯けて笑う志摩は錫杖を片手に頭を掻いた。笑みを浮かべて只々、背中を向けたを見る。


「(なんや…無視される思ったんやけどなぁ)」


いつもの如く、睨まれるかそっぽ向かれるか、其の何方かの対応をされると踏んでいたのだが、返ってきた言葉は例え流す様なものだったとしても、喜びを感じずにはいられなかった。


「(ホンマに惚れてまいそうや)」


声を掛ければ返事をしてくれるだろうか、其の細い肩に触れれば振り返って此方を見てくれるだろうか。したいという欲望もあるが、実際に手を伸ばせずにいる己のヘタレさに苦笑が浮かぶ。今は其れでも良いかと思う。少しずつ、距離を縮めていけば、其れでいいだろう。


「うわーーーよかった、坊!僕は…」

「し…し…しし、しぬしぬしぬし…」


勝呂の無事に胸を撫で下ろす子猫丸だが、勝呂はそんな余裕も無いのか譫言の様に唯々死ぬと繰り返し呟いている。顔には出していなかったものの、相当恐ろしかったらしい。悪魔に対峙しながら其の恐怖を顔に出さず、詠唱に集中していた心の強さは立派なものだ。


「はは…坊も怖かったんやなぁ」


未だ小刻みに震え項垂れ呟く勝呂を苦笑を浮かべながら呟いた志摩に、は小さく息を吐き出す。屍と勝呂が対峙した時、初めこそは手出しをするつもりは無かった。其処等中に祓魔師が潜んでいた事から、本当の危険が迫った時に彼等は塾生達を守る為に飛び出して来るに違いなかったからだ。万が一、祓魔師達が助けに入らなかったとしても、其れは其れで良いとさえは考えていた。あくまで傍観を決め込み、燐に危機が迫れば、此の場に居る皆を見殺しさえするつもりだった。


「(強い祓魔師になるのだろうね)」


は温かい目で勝呂を眺める。何故、そう考え、決めていたというのに手を貸す気になったのかといえば、其の勝呂の姿勢が気に入ったからに違いない。本当に唯の気紛れだった。手助けが来る本当の危険が迫るまで放っておくのがほんの少し“可哀想”に思い、手を貸したに過ぎなかった。


「おい!」


刹那、騒がしい足音を立てながら登場した燐に皆の視線が其方に向く。大粒の汗を浮かばせてはいるものの、これといった外傷は無く、霊圧をずっと辿っていたは、其の燐の無事な様子にそっと胸を撫で下ろすのだ。


「…ぶ、無事?」

「「「「………」」」」


座り込む勝呂や、子猫丸、志摩、出雲としえみを見て尋ねる燐に、皆は思わず絶句する。其れもそうだろう、何故、こんなにも疲れた表情一つせず、何事も無かったかの様に燐は現れたのか。有り得ないと何度も瞬きをして燐の姿を見直すが、其処には変わらず無傷の燐が居るだけだ。


「おおおおま…もう一匹は…」

「え…?ああ、倒した!お前らも倒したのか?スゲーじゃ…、え?」


勝呂は突如立ち上がり、燐に向かって駆け出すと強烈なラリアットを決める。先程の震えや、疲れは遠い彼方へと吹っ飛んだらしい。ラリアットをもろに食らった燐は後方に白目を向いて勢い良く吹っ飛ぶと、受身もとれずに倒れ込むのだ。般若の顔をした勝呂が、酷く取り乱しながら燐に怒鳴る。


「なん…なんやお前、なんて奴や!!!!死にたいんかーーーッ!!!?」


勝呂に罵倒される燐は言われるがままで強烈な一撃に悶え苦しむ。追撃を掛けようとした勝呂の動きに、瞬時に燐は立ち上がり回避するとラリアットを受けた首を摩りながら何度も咳き込むのだ。そんな騒ぎの最中に、任務で席を外していた雪男が、扉を開けて部屋の中へと戻って来る。其の後ろからは静かにネイガウスが現れ、燐はネイガウスの姿に目を見開くと、雪男に離れろと忠告をしようとするのだが、其の言葉はとても中途半端な所で区切られるのだ。


「おや失敬」


突如天井が外れ、振ってくる白い人影。奇抜で真っ白かつ派手な衣服を好んで身に纏う者など、一人しかいない。メフィストは燐を踏み台にし、部屋に降り立つと、メフィストに踏まれたままの燐が己の上に乗るメフィストを見上げるのだ。


「この理事長が中級以上の悪魔の侵入を許すわけがないでしょう!」


ぱちん、と鳴らされるメフィストの指。其れを合図に天井、床下、戸棚、押入れに潜んでいた祓魔師達が一斉に姿を現す。床下に潜んでいた祓魔師は意外にも老体で、長時間潜んでいた所為で腰を痛めたのか、とても腰痛に苦しそうにしていた。もう少し若い祓魔師を待機させて居れば良かったのにと思う。人手不足で有名な祓魔師だ、若い祓魔師が皆出払っていたのだろう。とはいえ、もう少し広い所に隠れて居れば良かったのにと思わずにはいられなかった。


「医工騎士の先生方は生徒の手当てを」

「え?」

「………まさか………」


メフィストの指示に従い、医工騎士の面々は生徒達に歩み寄り、屍の体液を浴びた皮膚を筆頭に他にも外傷が無いかと各自見ている塾生の容体を確認する。的確かつ素早い処置は、流石年を食っているだけあってベテランの祓魔師と言えるものだ。其の中には勿論雪男の姿もあり、雪男は戸惑う出雲の傷の手当をしている。困惑する塾生達に至極楽しげにメフィストは笑みを浮かべると、長い両手を広げて実に高らかと言うのだ。


「そう!なんと!この強化合宿は候補生認定試験を兼ねたものだったのです!!!」

「はがっ!?」

「合宿中はそこかしこに先生方を審査員として配置し、皆さんを細かく審査していました」


出雲の手当てをする雪男を燐が熱い視線で見つめると、視線に気付いたのか雪男が眉を八の字に下げて苦笑を浮かべる。一応黙っていた事を申し訳なく思っているらしい。


「これから先生方の報告書を読んで私が合否を最終決定します。明日の発表を楽しみにしていてくださいネ」


ウィンクと共に言われた言葉。抜き打ち試験に呆然とする塾生達は皆、言葉を無くして呆然と治療を受けていた。しかし事態を逸早く燐は理解すると、青筋を浮かべながら、しかし頬は赤く染めて、燐は悔しさを腹の底から絶叫を上げるのだ。










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