今宵は三日月だった。つい数刻前に屍に襲われた事が嘘のように静かな夜。勝呂、志摩、子猫丸、出雲、しえみ、燐、は所々蛍光灯の切れた薄暗い廊下を固まって歩いていた。其の腕に点滴の針は無い。


「ほな、また明日」

「おやすみなさい」


各自部屋へ戻って良いと医工騎士の許可も降り、塾生達は其々の当てがわれた部屋へと向かう。階段を登った先、勝呂と志摩、子猫丸が先に集団から離れて行く。各自部屋の階が違うからだ。


「おう!おやすみ!」

「また明日ー!」


遠ざかって行く三人の背に向かって燐としてみが手を振る。また一つ、階段を登れば今度は出雲としえみが分かれた。女子の部屋は男子の部屋の一つ上の階なのだ。


「寝坊すんなよ」

「し、しないよ!」


足早に早々と去って行く出雲を慌てて追い掛けるしえみに、燐が意地悪く笑えば、しえみは顔を真っ赤にして立ち止まって声を上げる。すっかり仲良くなった二人を尻目に、は先に階段を登り始めると、そんなを引き止める様にしえみは声を荒げるのだ。


さん!」


静かな夜、静かな廊下に響くソプラノの声。立ち止まり、振り返れば着物をぎゅっと握りしめたしえみが何やら言いたげに視線を彷徨わせていた。は其れをじっと黙って待つと、しえみも決心がついたのか、更に頬を赤らめて緩い笑みを浮かべるのだ。


「ま…また明日ね!」


どれだけの勇気を振り絞り、しえみが其の言葉を発したのか、には分からない。しかし、しえみの努力を感じない訳ではないのだ。ほんの僅かに吊り上がる口元は、闇に紛れてしえみには目視出来なかったのかもしれない。踵を返し、再び階段を登り始めれば、肩を落として落ち込むしえみが其処に居る。


「また明日」


目に捉えられなかった笑みでも、言葉なら届いた事だろう。しえみがどんな反応を見せたか、背を向けたには確認のしようがなかったが、容易に予測出来てしまうのは、しえみが真っ直ぐな裏表の無い人間だからだ。また明日、また明日も変わらぬ朝が来るのは当たり前の事なのだが、其れがどれ程に素晴らしき幸福であるか。きっと以外誰にも分からない事だ。


「…くだらない」


自虐的に零れたものは、まるで自分を嘲笑うかの様だった。また明日が来る事を慈しむ反面、此の命が尽きても続くかもしれない途方も無い明日に怯える自分がいる。自室は相変わらず殺風景で、生活感もまるでなく、未だに愛着が湧かない部屋は、まるで自分じゃない誰かの部屋の様だった。無機質で温かみの無い部屋の、閉ざされた窓を開け放てば温い風が舞い込んで来る。夜でも半袖で過ごせる季節、夏がもう目の前まで迫っていた。


「………。」


窓から見える夜空を見上げ、窓枠に足を掛けて外へと飛び出す。風の抵抗を受けて急降下する身体。しかし身体は地面に衝突するよりも前に停止し、まるで階段を登るようには宙を歩いた。特に其の行動に理由は無い。強いて言うならば夜の散歩だ。旧男子寮から遠く離れ、目的地も行き先も決めずただ歩く。時期に見えた大きな館の様な建物の屋根まで歩けば、休む様に瓦の上に降り立ち、照明で輝く街を一望する。美しい景色だというのに、心は晴れない。何とも言えない感情がの胸を埋め尽くした。何をする訳でも無く、只ひたすらに佇んでいれば、の視界にひらり、ひらりと美しい羽根を優雅にはためかせる蝶が映る。


「………、」


己の血が付着した略図の魔法円が記された紙を、あれから常には持ち歩いていた。特に理由は無い、さっさと捨ててしまえば良いものをは何故か肌に離さずにいたのだ。呼びもしていないのに蝶は時折現れの前を一頻り飛び回ると、また何処かへと消えていく。その繰り返しだった。


「お前は誰かを呼んでくれるの…?」


指先を地獄蝶へと向ければ、地獄蝶は静かに指先へと止まって羽根を休める。まるで何かを待つ様に、大人しくする地獄蝶は、を見つめている様にすら見えた。


「“…軋む軋む、浄罪の塔”」


不思議なことに、地獄蝶が姿を見せる時に浮かぶ言葉は毎回違った。地獄蝶に呼び掛ける様に脳裏に過る言葉を紡ぐ。


「“光のごとくに、世界を貫く。揺れる揺れる、背骨の塔”」


勿論聞いたこともない詩だ。しかし口は、すらすらと言葉を吐き出す。紡がれる言葉の意味は分からない。けれど、其れが確かに何かに対して呼び掛けの言葉である事は明白だった。


「“堕ちてゆくのは…”」


言葉が、詰まる。此れを音に乗せれば何かが起きそうな気がして。生前にあった関わりが、今此処に現れてしまったらどうすれば良いのだろうか。あの場所に帰りたい訳では無い。見たくない知りたくない聞きたくない、そんな気持ちと、逆に見たい知りたい聞きたいという気持ちが交差する。言ってしまえ、最後の言葉を。言ってはならない、最後の言葉を。頭の中で二人の自分がそう囁く。沈黙が続いた。地獄蝶は急かすように指先に止まったまま、羽根をはためかせる。そんな地獄蝶を愛らしく感じたのは、何故だろう。薄く開かれた唇は闇に良く響いた。


「“ぼくらか、空か”」


結局、紡いだ言葉は周囲に溶け込むように波紋を生むように響いた。反応する様に地獄蝶は指先から離れ、突如吸い込む様に周囲の風を呼ぶ。強い風に目を細めれば、地獄蝶の姿は消え、代わりに障子の様な形をした門が現れた。


「穿、界門…」


穿界門とは、尸魂界と現世を繋ぐ門であり、死神が尸魂界と現世を行き来する際に使用する扉だ。本来、地獄蝶を携え、斬魄刀で開錠しければ開かない扉は、何故か開錠もしていないのに音も立てずに開かれる。早まる鼓動は気の所為では無い。開かれた扉の向こうを、は見つめた。


「うわあ!」


間抜けな、声だった。まるで吐き出されるかの様に穿界門から飛び出した人影は、そんな声を上げて屋根の上に受身も儘ならず転がり込む。真っ黒な短い髪と同様に、真っ黒な着物。肌の色以外、黒で統一された装束はとても見覚えのあるもので。長い前髪の隙間から大きな目がを見上げた。


「あ、貴女は…」


驚いた事だろう。酷く困惑したことだろう。に向けられた其れはとても掠れていて、黒装束を纏う彼は生唾を飲み込む。戸惑うのはも同じ事だった。二度と会う事は無いと、思っていた存在が、今目の前に居る。


「花太郎…」


たった16年そこらで、忘れるような名前じゃなかった。覚え易い様な、覚え難い様な名前の彼、だから覚えていた訳では無い。16年なんて長い筈の月日が、一瞬だと思える程、長い長い月日、何十年も何百年も共に生きてきた仲間だった。配属された隊こそ違ったが、彼にお世話になる事も、彼を庇う事だってあった。


さん…?」


彼、山田花太郎は問い掛ける様にの名を呼ぶ。まるで其の姿は、本当になのかと疑っているかの様にすら見えた。信じ難いものを目にしているかの様に、瞬きすら忘れての姿を凝視する姿は、とても滑稽であったが、其れを笑う者は此の場には居ない。


さん…!」


身体を、声を、震わせて、花太郎は其の場に膝をついたままを見上げた。伸ばした長い漆黒の髪を夜風に靡かせながら、顰めっ面で己を見下ろすの姿を。最期に見た時よりも幾分若く見えたのは此の際どうだって良かった。膝に着いた手を、指先が白くなるまで強く強く握り込む。そうしなければ、今にも声を荒げてしまいそうだったからだ。


「どうして…!!」


深く項垂れ、花太郎は沸き起こる感情を何とか抑えつけようとする。が、抑え切れる様なものでは無い。花太郎は、を敬慕していた。の最期を、否、遺体を目にしたあの日、堪えようの無い悲しみに押し潰されそうになった、あの日の事を決して花太郎は忘れる事が出来ないでいた。


「どうして、死んでしまったんですか…!!」


花太郎が唸る。脳裏を過る鮮明に焼き付けられた記憶は残酷だ。血溜まりに横たわり、絹の様な美しい髪を散らす骸。只でさえ白く細い陶器の様な肌は、真っ赤な海の上ではとても青く見えて不気味だった。不器用で、あまり笑みを見せなかった彼女は、静かに眠りについた様に荒れ果てた大地で息を引き取っていたのだ。


「………っ、」


花太郎の頭に乗せられる、決して大きくは無い手。其れは確かに暖かく、体内に血が巡っている事を示している。脈打つ鼓動、微かに上下する胸。全てが生きている事を物語る。何度、夢見た事か。唇を紫色にした彼女が、美しい漆黒の瞳をまた見せて、呆れた様に己を目に映してくれる日を。花太郎の夢が、今現実となっている。強いて言うならば、彼女は呆れた表情というよりも、困った様な表情で己を見下ろしているのが夢とは違う点だった。


「すみません…」

「構わない」


何度も、何度も、花太郎を落ち着かせる様に頭を優しく撫でる手。手を伸ばして触れれば、直にが生きている証の温もりを感じれるのだろう。しかし其れが出来ないでいるのは、触れてしまって、全てが壊れてしまうのが怖かったからだ。


「…少し、若返りましたか?」


暫しの沈黙後、意を決して花太郎がに問い掛けたのは、初めに感じた違和感だ。こうして落ち着いて見れば、やはり幾分若返った様に見える。纏う雰囲気こそ、記憶のものと同じではあるが、顔立ちも、肉体も、やはり何処か幼く見えた。


「少しね」


頭部に乗せていた手を下ろし、はほんの少し柔らかい笑みを浮かべる。嗚呼、やっぱりさんだ。花太郎は安堵し、鼻先がつんっと熱くなるのを感じる。今にも潤みそうになるのを何とか堪えると、漸く其の場から立ち上がり、真正面からと向き合った。凛とした佇まいに、感情が読めない引き締められた表情。全てが懐かしく、愛おしかった。


「…隊長が」


口にしてから、花太郎は不味かったかと一度言葉を区切る。が僅かに眉を吊り上げたからだ。長い付き合いなのだ、僅かで些細で、皆が見逃す様な変化を、花太郎は決して見逃したりはしない。けれど、此処まで口にしておいて今更口を閉ざす事も出来ず、花太郎は結局其の続きの言葉を口にするのだ。


「隊長が、悲しんでいました」


どの隊長、なんて野暮な問いだった。には分かっていたからだ。花太郎の所属する隊の長では無い、違う隊を束ねる長の事を指している事を。の脳裏を、懐かしい人物の背中が過った。隊首羽織を靡かせ、颯爽と歩くあの男の背中を。しかし其れを掻き消すように、夏の割に冷たい夜風がと花太郎に吹く。消える背中に抱いた感情は何とも形容し難いものだった。


「そう」


零れた声は思っていたよりも小さく、無機質で、夜風に乗って闇へと消える。花太郎は拳を握ってを見上げた。靡く髪、闇に浮かぶ白い肌、己を真っ直ぐ見据える力強い瞳。自然と口元が緩んだ。まるで夢でも見ているかの様だった。何ら変わり無く生きたの姿をまた目にする事が出来ただなんて。此れを幸福と言わず、一体全体何と言えよう。


「花太郎」

「はい」


名を呼ばれる事が、こんなにも嬉しい事だったなんて知らなかった。其の感情が顔に出ていたに違いない。頬が高く持ち上げられ、だらしない笑みを浮かべている己が容易に花太郎は想像出来ていた。浮かれていたのだ。此の夢は永遠に続くのだろうと、根拠も無く思い込んで、浮かれていた。しかし夢は唐突に覚める。


「もう帰りな」


頭の中の思考回路が急停止する。色とりどりの花が咲く花畑が、一瞬に来て荒地にでもなったかの様。


「此処は、花太郎の居るべき世界じゃない」


困惑した。動揺した。戸惑い以外、何も無かった。花太郎の頭の中でサイレンが鳴り響く。またの最期が脳裏を過る。


「…嫌…です…!嫌です、さん…!!」


縋る様に花太郎はへと手を伸ばした。掴んだのは死覇装では無い、晒け出されたの足だ。現世に生きる学生が纏う様な衣服を着るが、途轍もなく遠くの存在に見える。行かないで、そんな思いと言葉が駆け巡り、花太郎は懇願するのだ。


「嫌だ…!」


声は情け無く震え、連動する様にの足を掴む手が震える。


「折角…会えたのに…!!」


項垂れ、花太郎は懇願する。離すまいと力の入らない手で、しっかりとの足にしがみ付いた。伝わる生身の人間の熱が、花太郎に強烈な恐怖を与えた。


さん!…さん…!!」


意味も無く、花太郎は只ひたすらにの名を繰り返し呟いた。目尻が熱くなり、目の前が霞む。今にもの存在が消えてしまいそうで、花太郎は怖かった。


「ごめんね」


花太郎を同じ視線で向かい合う様に膝を着いたは、花太郎の目をそっと手で覆う。翳した手の下から、綺麗な一筋の涙が花太郎の頬を伝い、を掴んでいた手が重力に従って落ちる。花太郎は決して、そんな謝罪が欲しかった訳ではない。むしろそんなものはいらなかった。其の謝罪が、が花太郎の要求に応える事が無いのだと物語っていたからだ。


「貴方を…皆を残して…先に死んで」


其の続きを聞きたくない。そんな意に反して花太郎の耳はの言葉を拾う。遮る事は許されない。しようと気も湧かず、しようとする事も出来なかった。


「ごめんね」


が花太郎の目を覆っていた手を離せば、遠ざかるに花太郎は無意識に手を伸ばす。が、其の手は空を切るだけで届かない。スカートのポケットに仕舞われていた魔法円の略図が書かれた紙をが取り出すと、花太郎は目を見開いて声を荒げた。其の小さな紙が何なのかは分からない。しかし其れがとても重要である事を花太郎は本能で察知したのだ。


「嫌です…嫌だ!嫌ださん!やめてください!!」


声を荒げる。喉にピリッとした熱が走るのも構わず花太郎は拒絶した。止めなくては、でないと、そんな思いが花太郎を急かせる。


「嘘なんでしょ!?死んだなんて…だってこうして…!居るじゃないですか…!」


大粒の涙が、はらりと零れ落ちた。涙で潤んだ瞳に視界がぼんやりと霞んで、の姿が歪む。


「帰りましょう、さん…!皆…、皆待ってます…!貴女の帰りを…!!」


勢い良く立ち上がり、花太郎はに訴える。離れたくない、もう一度あの場所で、共に。本当は花太郎も分かっていたのだ。此処が尸魂界で無い事は勿論、何度か足を運んだ事のある現世でも無い事を。違う世界だなんて、何とも馬鹿げているとは思う。しかし、やけに落ち着いてるが、其の纏う雰囲気が、空気が、花太郎をそう思わせるのだ。


さん!!!」


全ての思いを、其の名に乗せて。やけに遠くに感じるへと最後の、哀訴を。


「花太郎」


だが、花太郎を見据えるの瞳の色は変わらない。


「あまり、名前を呼ばないで」


そう言った顔が、僅かにくしゃりと歪んで、花太郎は胸を締め付けられる感覚を覚える。そんな顔が、見たいんじゃないんだ。


さ…!!」


花太郎がに手を伸ばし、駆け出したと同時に破られる魔法円の記された紙。煙を上げて消え行く花太郎と穿界門を、は憂いを滲んだ瞳で眺めた。花太郎の伸ばした手は、指先はを捉えること無く消える。煙が晴れれば、其処には変わらず夜景が広がるだけで、飛び回っていた地獄蝶の姿も無くなっていた。肌に離さず持ち歩いていた魔法円の記された紙を何度も何度も、重ねて、重ねて、千切り、引き裂き、破り捨てる。紙屑と化した其れを夜風に乗せれば、美しい光り輝く夜景と消えていった。


「…ごめんね」


ぽつり、呟かれた懺悔は誰の耳にも届く事なく消える。吐き出した溜息は重苦しい。花太郎には可哀想な事をした。知らなかったとはいえ勝手に召喚しておきながら、ろくに話も聞かず強制送還させ、酷く傷付けてしまっただろう。悪かったとは思っている。けれど、あのまま花太郎が此処にいれば、いつメフィストが花太郎に勘付いて飛んで来るか分からない。否、もう目敏い彼の事だ、気付いているのかもしれない。優しい彼の事だ、簡単に言いくるめられてメフィストに良い様に使われてしまいそうで、二人が遭遇するのは何としてもは回避したかったのだ。とは建前で、結局の所は此れ以上、彼に名前を呼ばれたくなかったのだ。理由は言うまでも無い、辛くなるからだ。


「…悪い夢」


現実であることは重々承知の上である。けれど、そう思ってしまわないと苦しくて仕方が無かった。あの場所には決して帰れないのだから。獅郎の最期に交わした二人を護るという約束の為、墓前に誓った決意の為にも、此の世界では生きなければならないのだ。あの危なっかしい子供を、危うい子供を、此の命が尽きるまで護ると約束したから。出来れば悪い夢だったと、そう花太郎が思ってくれればいい。そしてさっさとという故人を忘却の彼方へ投げ捨ててくれれば良いと。










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