どれだけ外で夜風に当たっていたのかは分からない。心の整理がついた所で、は己の部屋に戻って来ると、喉の渇きを覚えて厨房へと向かって一階の廊下を歩いていた時の事。荒々しく開かれた扉の音に不信を覚え、玄関の方へと踵を返し歩いていれば、慌ただしく廊下を駆ける雪男と、其の後ろにしえみが居た。冷静沈着な雪男が、こうも顔に出して慌てているのは珍しく、しかしは平然とした態度で声を掛けるのだ。


「おかえり」

…兄さんは?」


其の口調が、普段より幾分強く感じるのは気の所為では無いだろう。焦燥感に駆り立てられ、普段よりも早く捲し立てる様子は、緊急事態が発生したのだと物語る。


「部屋に居ると思うけど。寝てるんじゃない」


の答えに雪男は顔を顰めると、部屋に向かうのだろうか、階段へ向かって再び駆け出した。雪男から何も聞いていないのか、困惑の面持ちのしえみは、一度に視線をやるだけやって、雪男を追い掛ける方が先決だと判断したのか、其の後を数歩遅れて追い掛ける。


「何事?」


階段を駆け上がる雪男の背中にが問い掛ける。すると雪男は足を止め、一度悩んだ様に口を閉ざせば、結局に振り返り、心情を零すのだ。


「…嫌な予感がするんだ」


たった一言。何故そう思うのか、そんな問い掛けすら必要無かった。を突き動かすには十分なものだったからだ。


「…わかった」



















遠くから静かに近付いて来る靴の音。一定のリズムを刻んで近付く其れは、確かな殺気を纏わせながら少しずつ、少しずつ燐と雪男の部屋へと近付いて来る。足音は静かに部屋の前で足を止まり、実に慎重に閉ざされた扉を開けた。迷う事無くベッドへと向かう爪先は、遂にベッドを目の前に立ち止まる。何かが擦れる音が微かに耳に届く。殺気がより一層強まり、緊迫した空気が流れた。空気が、揺れる。風を切る音を耳は確かに捉えた。迫るタイミングに合わせて身体を反転させれば、視界に入る銀色の其れ。先程まで心臓のあった位置に突き刺さる鋭い針の様な刃物は、確かな殺意を持ってベッドを貫いていた。


「殺すつもりはないんじゃなかったんですか、ネイガウス先生」

「…見事だ、奥村雪男」


ネイガウスの頭部には雪男が銃を突きつけており、引き抜かれるネイガウスの獲物であるコンパスの針。其れを合図に顔を隠す様に頭まで被っていた布団を吹き飛ばし、燐に扮して布団の中に身を潜めていたがネイガウスの腹部目掛けて蹴りを繰り出すと、其れを容易に避けてみたネイガウスは、コンパスを振るってと雪男から距離を取ると、素早い身のこなしで部屋を飛び出す。


「逃がすか…!」


ネイガウスの後を追って雪男が部屋を飛び出し、続いても部屋を飛び出す。命を狙われていた事も知らず、今頃燐は別の部屋で涎を垂らして呑気に眠っている事だろう。明かりの無い暗闇の中を駆けるネイガウスの背中を目掛けて雪男は次々と弾も惜しまず発砲した。しかし暗闇で視界が悪い所為か、放った弾丸はどれもネイガウスを仕留める事は叶わない。其の間、は雪男の後ろに付き、ネイガウスを追いながら着実に闇に目を慣らしていった。


「出でよ!!」


ネイガウスの腕に記された幾つもの魔法円。ネイガウスの呼び掛けに魔法円からは屍の手が飛び出し、雪男とへと襲い掛かる。其れを一寸の狂いも無く撃ち抜けば、血を噴出し千切れた肉片の下を潜り抜け、は雪男を追い越して階段を数段飛ばしながらネイガウスの後を追った。ネイガウスは屋上へと飛び出し、続いてが、其の後に雪男が屋上に飛び出す。


「…先生!何故兄を殺す必要があるんです。…それもまさかフェレス卿の命令だというんですか!」


雪男がネイガウスに問いかける。しかし聞く耳を持たぬネイガウスは己の腕を撫ぜながら小声で呼びかけると、己の手を雪男とに向けながら更に幾多の屍の手を召喚させて襲い掛かるのだ。


「!」


無数の迫る手に、両手に銃を構えて雪男が応戦するが、其の内の一つに足を掴まれ、其の場に転倒させられれば、雪男の体はネイガウスの方へと引き摺られていく。


「破道の三十一、赤火砲」


詠唱を破棄し、唱えた鬼道。翳した掌から赤い火塊が放たれ、其れは一直線に雪男の方へと飛び、雪男に次々と襲い掛かる屍の手を焼き尽くす。


「…っ!!」


目の前を通り過ぎ行く灼熱の炎に雪男は喉を引き攣らせた。鼻先が熱い。炎が掠めたのだろう。何て無茶な事を、僕まで焼き殺す気か。そんな文句すら雪男は口に出来なかった。は雪男に駆け寄ると、黒焦げの灰へと化した雪男の足を掴む屍の手を蹴り飛ばす。


「鼻先掠めたよ…!」

「なら問題ない」


勿論、は雪男に当たらぬよう赤火砲を放った訳だが、雪男からすれば己も殺される所だったと感じるのは突然の事だ。不満を零した雪男の肩をは鷲掴み、乱暴且つ強引に立たせれば、よろけながら眼鏡を正す雪男は横目にを睨む。


「“視よ、此処に在り。屍體のある所にはには鷲も亦あつまらん!”」


何時の間にか足元に描いた大きな魔法円。詠唱しながらコンパスの針を深くネイガウスは己の腕に突き刺し裂けば、大量の血が魔法円へと落ちる。煙を上げて、おどろおどろしい邪気を放つ魔法円は、今までとは比較にならぬ悪魔を呼び寄せている事が明白だった。


「…ククク…コイツはな、私の持ち駒の中でも最上級の屍番犬だ…!」


奇声を上げ、何とも形容し難い禍々しい風貌の屍番犬は、発する臭気は酷く臭い、幾つもの縫合痕が痛々しい。


「ッ」


屍番犬が腕を勢い良く横一直線に振るえば、すかさず身を低くして回避したとは違い、反射的に対応出来なかった雪男はいとも簡単に吹っ飛び屋上の縁へと身体を強打させる。追い討ちを掛けようとする屍番犬に、すかさず応戦しようと構えただったが、視界の端に掠めた蒼き其れに身動きを止める。何処からか飛んできた蒼い炎を纏う降魔剣が屍番犬の身体へと突き刺さった瞬間、炎上する屍番犬は大層耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げて炎に包まれた。


「!!!」


驚愕に咄嗟にネイガウスが顔を上げれば、其処には耳を尖らせ、尾を生やし、サタンの証である蒼い炎を纏う、悪魔の姿へと変貌した燐の姿がある。燐の視線は真っ直ぐネイガウスへと向けられており、強く炎を纏った拳を握って一直線にネイガウスへと向かった。


「てめェやっぱし敵か…!!」

「悪魔め…!」


ネイガウスは口元を歪め、腰に下げていた瓶を素早くホルスターから外すと、燐に向かって勢い良く其の中身を吹っかける。音を立てて消える炎に煙を上げる燐の身体。燐は顔を覆って地面に転がれば、ネイガウスは聖水と書かれたラベルの空になった瓶を投げ捨てるのだ。


「人の皮を被っていても聖水が効くようだな。やはり本性は隠しきれないというわけだ」

「聖水…?」

「…だが大したダメージにはならないか…化け物め…!」


呆然と皮膚から上がる煙を見つめる燐を、苦々しく言葉を紡いでネイガウスは屍番犬を燐へと嗾ける。聖水に気を緩ませていた所為か、燐は簡単に屍番犬に体を掴まれ、メキメキと音を立てて骨が軋む。燐は締め付ける其の力の強さに呻き声を上げた。


「!!」


刹那、煙を上げて消滅する屍番犬。ネイガウスが慌てて振り返れば、其処には魔法円の一部を足で擦り消した雪男が、片足を付いて息荒くネイガウスを睨み付けている。


「お前は何者だ」


屍番犬に開放された燐が、地面に転がっていた降魔剣を掴み、其の刃をネイガウスの喉元に突きつけて問いかける。


「く…」

「先生!もうそれ以上は召喚しない方が身の為です。失血死したいんですか!」


刃を突きつけられながら、大量の血が流れる魔法円が刻まれた腕にネイガウスが意識をやる。雪男はすかさずネイガウスの行動を止めれば、ネイガウスは暫し葛藤し、召喚を諦めると徐に歪んだ口元を吊り上げて燐を見るのだ。


「…私は、“青い夜”の生き残りだ…」


其の目には憎悪が込められ、燐は思わず息を呑む。青い夜、即ち、十六年前にサタンが世界中の有名な聖職者を大量虐殺した日の事だ。


「…俺は僅かの間、サタンに身体を乗っ取られ…この眼を失い…そして俺を救おうと近付いた家族をも失った…サタンはこの俺の手を使って家族を殺した」


左眼を覆う眼帯を引き上げて其の下を晒せば、まるで火傷の様に爛れた皮膚に閉ざされた、眼球の無い左眼がある。生き残った代償は、家族と左眼の喪失だったのだ。


「ククク、許さん。サタンも悪魔と名のつくものは全て!!サタンの息子など以ての外だァ!!!!」


喉に刃が刺さる事も構わず、ネイガウスは感情のままに声を上げて憎しみを吐き出した。至近距離で向けられる明らかな敵意と殺意に、燐は突きつけた刃こそ降ろしはしなかったが明らかに動揺していた。ネイガウスがサタンを怨む事が可笑しいのではない。だが、サタンはサタンであって、燐は燐で、全く別物なのだ。サタンに向けられる筈の殺意を、ネイガウスはサタンを燐に重ねてぶつける。理不尽にも程があるだろう。燐が傷付かない、訳が無かった。


「貴様は殺す…」

「………」

「この命と引き換えてもな!!」


刹那、ネイガウスは己の腕に刻まれた魔法円から屍の腕を召喚すると、其の腕は一直線に燐へと向かい、腹部を深く深く抉る。対応出来なかった訳では無い。燐はわざと受け入れたのだ。


「………!?」

「………ゲホッ」


突き刺さる腕を振り払いもせず、されるがままの燐にネイガウスは動揺を隠し切れない。大量の血が燐の口から零れ落ち、地面が赤く汚れた。


「…気ィすんだかよ」


血に汚れた口元を吊り上げて僅かに笑みを見せる燐に、狂気を感じた。雪男は言葉すら出ず困惑し、顔を強張らさる。ネイガウスは召喚した腕を魔法円に引っ込めながら、まるで燐から距離を取るように後退するのだ。其の背後に、は足音を消して回る。いつでも手を出せる間合いの距離、其れが更にネイガウスへと圧力を掛けるのだ。


「…これでも足んねーっつーんなら…俺はこーゆーの慣れてっから何度でも…何度でも相手してやる…!!」


ネイガウスに向けていた降魔剣の切っ先を下げ、刀身を鞘に収めながら燐は言う。小さな音を立てて刀身が鞘に収まれば、一瞬にして消える青い炎。尖った大きな耳は小さくなり、相変わらず尻尾は出たままではあるが、其処にサタンの面影は無い。


「だから頼むから、関係ねえ人間巻き込むな!!!!」


力強く、しかしとても悲しげに燐はネイガウスに訴えた。其の脳裏には傷付いた朴の姿や、眠りに付いたしえみの姿が浮かんでいるのだろう。眉を八の字に下げ、しかし眼は鋭くネイガウスに向けられている。ネイガウスは、眼を見開いて燐を見ていた。ネイガウスの顔が強張る。


「………こんな事で済むものか…俺のような奴は他にも…いるぞ…覚悟するといい…!」


傷付いた腕を庇いながら、ネイガウスは一旦引く事を決めたのだろう。燐に背を向け、雪男とに目もくれず、歩く地面に血痕の道を作って屋上を後にして行く。雪男はネイガウスが扉の向こうへと消えた事を確認すれば、慌てて血を流す燐の元へと駆け寄るのだ。其れに続き、はゆったりとした足取りで燐に少しの距離を取って歩み寄る。


「兄さん…!…何てマネを…」

「大丈夫大丈夫!…もうこんなだから」


心配する雪男に問題ないと首を振る燐は、先程屍の腕が突き刺さった腹部の傷を見せる様に着ていたTシャツの裾を捲り上げた。これだけの失血をしているのだ、其の傷の深さは早急な処置が必要だろう。雪男もポーチに常備している薬品に手を掛けるのだが、Tシャツの下から覗いた傷口に絶句するのだ。


「…!!もう閉じかけてる…!」

「もともと怪我治んの早かったけど………いよいよ本当の化け物だな…ハハ」


燐の表情は重い。煙を上げて急速に傷口を塞いでいく再生能力。血こそは付着したままではあるが、其処にはもう抉られた深い傷は無く、すぐに治る様な浅い傷。人間では絶対に有り得ない事。其れが酷く燐の心を痛ませるのだ。己が人間では無く、サタンの子であると痛感させられて。


「燐!!」


暗い顔をする燐に雪男が何も言葉を掛けられずにいると、ふいに屋上に声が響く。声につられるように振り返れば、着物の所為で小さい歩幅で慌てて此方に駆け寄ってくるしえみの姿があった。


「雪ちゃん…さん…。り…燐…どうしたの…!?」

「しえみさん…」

「!ああ…大丈夫だ」


しえみを見て慌てて燐が己の尻尾を掴み、いそいそと服の中に其れを仕舞う。しえみは燐の尻尾に気付かなかったようで、燐の赤く汚れたTシャツを見ては驚いた様に目を大きくさせるのだ。


「!!…屍の魔障!今直ぐ手当てしなきゃ…」

「いい、いい!平気だ」

「ダメ!!」


まるで最初から此処に雪男とが居なかったかの様にしえみは燐に一直線だった。実際、傷は既に完治目前で、下手に傷口を見られて怪しまれたく無い燐はしえみに断りを入れるのだが、しえみは強く其れを却下すると、其の場に膝を付いて座る。


「ハイ!!ここに寝て!無理しちゃダメ…!」

「………え」

「ニーちゃん!またサンチョさん出せる?」

「ニー!」


しえみの傍らには使い魔の緑男の幼生がいる。朴の時の様にアロエを出せば、しえみは燐が自身の目の前に寝転ぶのを待った。結局、断るに断りきれなくなった燐は傷口を晒して其の場に横になると、しえみは傷付いた燐の患部にアロエをそっと宛がう。


「…ハハ、ありがとな…もう大丈夫になってきたかな…」


しえみの心遣いは純粋に嬉しいものだ。燐は自然と綻ぶ表情で、笑みを浮かべて礼を述べれば、燐はしえみの表情を見て大きく目を見開く。眉間に皺を寄せ、大粒の涙を浮かべるしえみが、心底、心配気そうに燐を見下ろしていたのだ。


「燐、私決めた…!」

「は?」

「決めたの…!」

「なにを…?」


柔らかな夜風が吹き、髪は風に流され靡く。は黙って燐としえみを見下ろす雪男の背を見た。哀愁漂う其の背中は、とても虚しく見えた。


「…やっぱり兄さんには敵わないな…」


親指の平で眼鏡を押し上げて雪男が零す。そんな雪男に静かに近寄ると、は雪男の頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。ふと、雪男の脳裏に獅郎が過る。未だ力も無く泣いてばかりだった自分を、いつもこうして獅郎が慰めてくれていたっけ。しかし頭に乗る手は獅郎の様に大きくなく、皺も無くて細い指先だ。雪男は視線をへと向けると、は何も言わず手を下ろす。


「…母さんみたいだ」

「こんな息子いらない」

「酷いなぁ…」


冷たく言い放ち、そっぽ向くに雪男は苦笑を漏らす。獅郎はもう居ない。けれど、未だ、獅郎と共に自身を、兄を見守ってくれていたが居る。雪男は静かに息を吐いた。見上げた空は沢山の星が輝く。










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