現場であった道路の脇、南裏門の隅である人目のつかない段差で燐やクロ、は眼前をゆらゆらと波打つ川を眺めながら、他の祓魔師達に説明に赴いた雪男を待っていた。言わずもがな、沈静化したクロの事や、実際に対応した燐の事についてである。大人しく雪男が来るのを段差に腰掛けながら待つ燐との間には行儀良くクロが座っており、穏やかな時間が流れていた。
「お疲れ」
「おー」
「…懐かれてるね」
話が終わったのか、合流する様に背後から現れた雪男に燐と、クロの目が同時に雪男へと向く。軽い足取りで雪男が燐の隣へと降りて来れば、燐はクロの今後の処遇について問い掛けるのだ。
「こいつ、どうなるんだ?」
「…とりあえず無理矢理理由をつけて兄さんの使い魔になったと説明しておいた。の件は適当にはぐらかしておいたよ。…けど門番には別の使い魔を使うかもね」
雪男が具体的にどう話をつけてきたのかは分からないが、賢い雪男の事だ。無理矢理理由をつけ、はぐらかしたとは言えど祓魔師達をちゃんと納得させてきたのだろう。其の様子に疲れた色が見えないあたり、祓魔師達はあまり賢く無いのか、はたまた雪男を信頼しているからか、話は簡単に纏まった様だ。
「つーか、クロと知り合い?」
「まあね」
「いつの間に…」
「昔ね」
燐に横目で見られれば、あっけらかんとはクロの頭を撫でながら答える。納得いかないとばかりに表情を歪ませる燐を、あえては気付かないふりをしてやり過ごした。気持ち良さそうに目を細め、されるがままのクロだったが、不意に気になる匂いを嗅ぎつけたのか、鼻をクンクンとさせて雪男に近付いて行く。刹那、其の匂いの源である雪男の持つ手榴弾の様な形をしたものに目を付けると、奪う様にして飛び掛かれば、地面に落ちた其れに興奮した様子で燐とに振り返るのである。
「あっ!!それは毒…」
《これ、しろうのおみやげのにおいがする》
「?…親父のおみやげの?匂いするってよ」
「………え?」
聖水とラベルの貼られた其れを足で指しながらクロは開けろと尻尾を振り回す。慌てる雪男に燐がクロの言葉を通訳すれば、雪男は明らかに戸惑いを見せ、は膝に肘をついて頬杖をつきながら半眼で雪男を見た。
「獅郎が毒なんて雪男に渡す訳無いと思うけど」
「…まさか」
の最もな意見に雪男は地面に転がる手榴弾の様な入れ物を拾い、慎重に蓋を開けて顔を近付ける。毒ならば、独特な臭いがする筈なのだが、幾ら匂えど香りは其の手のものでは無い事を告げるのだ。
「………マ…マタタビ酒だ…」
《またたび!しろうのまたたびしゅ!》
「そういえばクロは獅郎のマタタビ酒が好きだったね」
《うん!おれ、しろうのまたたびしゅすき!》
香る匂いから中の液体をげっそりとしながら言い当てる雪男に、クロは興奮気味にマタタビ酒の入った入れ物を見つめながら、待ちきれんとばかりにクロは尻尾を振って雪男から差し出されるのを待つ。すると、突如雪男は勢い良く噴出すのだ。
「…思ってみれば、神父さんがこの使い魔を殺そうとするはずなかった」
「そりゃそうでしょ。獅郎だし」
難しく考える必要は無い。ただ、冷静に藤本獅郎という人間を思えば簡単に辿り着く答え。中身がクロへと宛てたものならば、クロへと差し出すのが当然なのだ。雪男は一度来た道を引き返すと、何処からか平たい器を取って来て、マタタビ酒を注ぐ。注がれ、差し出された大好物にクロは嬉しそうに舌を伸ばすと、幸せそうに尻尾を振りながらまた一舐め、一舐めとマタタビ酒を口にした。
「何だこの味…!」
「兄さん!飲んじゃダメだよ。“形”だけなんだから」
お猪口の様な小さな器にも其々マタタビ酒が注がれ、燐、雪男、へと配られる。早速口を付けた燐は、其の人の口には合わぬお世辞でも美味いとは言い難い味に顔を顰めれば、直ぐさま雪男の指摘が飛ぶのだ。
「カンパイ!」
「…乾杯」
すっかり酔いが回ったのか、腹を上にして酔い潰れるクロを他所に、燐が高らかに杯を掲げ、雪男もつられる様に僅かに杯を上げる。に至っては普通に手に持つだけで、燐の乾杯に言葉を繋げる事すらしなかった。
形だけの乾杯を終え、晴れて燐の使い魔となったクロは深い眠りについており時折幸せそうな寝言を零す。杯を片付け、はクロを両手で抱き抱えると、三人は揃って寮に引き返していた。
「俺、気になってたんだけど」
其の道中、燐が足を止めて突如切り出せば、雪男とも立ち止まり燐に振り返る。の腕の中にいるクロはゴロゴロと喉を鳴らし、柔らかく小さな肉球での顔を擦った。
「は…その…さ、」
言葉を濁し、視線を彷徨わせる燐は、まるで其の問い掛けをする事に緊張している様にも見えた。雪男とが顔わ合わせる。
「なんで、クロの言葉が分かるんだよ」
の隣に佇む雪男が、はっと息を呑んでを見た。クロは悪魔だ。クロの言葉は同じく悪魔である燐にしか分からない筈なのに、まるで分かるかの様にクロと言葉を交わしていた。人間ならば、雪男の様にクロの言葉は届かない筈なのだ。にやりと、ほんの少しだけは口元を吊り上げる。抱いたクロの背を優しく撫でれば、クロは擦り寄る様にの胸に顔を擦りつけた。
「秘密」
「はぁ!?」
不満気に声を荒げる燐を尻目に、は寮へと向かって再び歩き出すと、雪男はを目で追って後へと続き歩き出す。は悪魔では無い。が、人間でも無い。其の正体は死を司る神“死神”だ。がクロの言葉を理解する事が出来るのは、死神だからという線が一番濃厚だろう。
「雪男は!?雪男は知ってんのか?が何でクロの言葉が分かんのか!」
「まぁ…」
「俺だけかよ!」
悔しそうに仲間外れだといきり立つ燐に雪男は曖昧に笑って誤魔化した。実際、に理由を聞いた訳ではないが、死神だからこそという可能性が何より高い。悪魔でもない、人間でもない、死神。だから人間の言葉も悪魔の言葉も聞く事が出来る。雪男はそう自分に結論付けたのだ。
「まさか雪男と同じでもスゲー祓魔師ってオチ!?だから分かるとか!?」
「それは無い」
「兄さん…。祓魔師だからって分かるってものじゃないよ。実際神父さんも言葉は分からなかったしね」
ばっさりと燐の推測を斬り捨て、雪男が止めを刺す。速やかな二人の否定に燐は頬を膨らませると、歩き出す二人との距離を詰める為に大股に歩きながら眠るクロへの配慮も忘れて大声を上げるのだ。
「なー何でだよ!教えろよ俺にも!」
「いずれ分かる。あと五月蝿い」
「いつだよそれ!」
冷たく突き放すに燐はへこたれない。其れは長年、共に生活をして過ごしてきた故の耐性であり、培った“慣れ”だ。騒がしい燐は声量を一切落とさず、の背後について焦燥感漂う緊迫した声で詰め寄る。雪男が宥めようと燐に口を開いた刹那、は顔ごと燐へと振り返れば、燐は其の鋭い眼差しに射抜かれ息を詰らせた。
「来るべき時が来れば、その時に」
其れは、来るべき時が来なければ一生謎のままだという事。
「最善は、そんな時が来ない事」
感情の無い無機質な瞳は燐の中の其の向こう、其の先を見ているかのようで、氷の様な冷たい瞳に一種の恐怖の様なものを感じた。燐が言葉を失っている事を良い事に、は口を閉ざすと其れ以上言葉を吐く事無く寮へと去って行く。取り残された燐と雪男は呆然と遠ざかっていくの後姿を眺め、燐は静かに雪男に問い掛ける。
「…の奴、なに言ってんだ?」
雪男は答えない。否、答える事が出来なかった。の思いが、雪男には確かに分かったからだ。何も無く平和に時が流れるのならば、は表立って行動するつもりは無い。しかし、ネイガウスの時の様に燐に向かう敵が現われた時、も覚悟を決めるという事だ。率直な話、悪魔でもなく人間でもないの存在は、唯々“不可思議”且つ“恐怖”の対象であり、限りなく“未知数”である。死神だと周囲に知られれば、どんな態度や処遇が言い渡されるか判らない。祓魔師として死神を退治すべく、と対立する可能性も捨てきれないのだ。
「(本気なんだ)」
垣間見たの覚悟に雪男は静かに生唾を飲み込んだ。は覚悟しているのだ、断固たる決意のもと、揺ぎ無い信念を持って。燐に向かう敵が現われるというのなら、例え世界中の悪魔や祓魔師、人々を敵に回しても、逃げも隠れもせずに戦う道を選ぶ事を。全ては燐を、護る為に。
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