縛道を掛けてきた事もあり、後方では呻く蛾の奇声も無く、追って来る物音一つすら無かった。虫沼からだいぶ離れた所で後方に振り返った子猫丸は、迫り来る蛾の姿が無い事に安堵の息を吐いて胸を撫で下ろす。


「…もう追って来ぉへんようですよ」

「少し休憩しよか」


子猫丸に続き、燐と共に先頭を走っていた勝呂が息を切らした声を上げた。ゆっくりと速度を落とす足とリアカー、直に立ち止まったのなら、皆は挙って肩を上下させて息を整える。も滲む汗を服の袖で拭えば、汗ばむシャツの胸元を掴み、中に風を送り込む様にシャツを揺らす。


「俺はお前が頭悪いなんて思っとらへん。でもな、」


未だ勝呂と燐の会話は終っていなかったらしい。勝呂がやけに真剣な表情で燐に顔を向けているのを後ろから眺めれば、は一文字に結んでいた口元を僅かに吊り上げるのだ。


「なんでも一人で解決しようとするな。味方を忘れるな!」


力強く、頼もしい言葉は、燐の心の奥底まで響いた事だろう。例え、其れが皆が燐をサタンの息子で無いと知らずに告げられた言葉でも。


「サタン倒すんやったら、きっと一人じゃ倒されへんよ」

「さすが坊…ええこと言うわ…まあ俺は虫関係は全く役に立たんけど」

「燐、みんないるよ!」


だからこそ、子猫丸や志摩、しえみから向けられる優しい笑顔が、儚く見えてしまうのかもしれない。


「うん…」


心から喜べないのは、もしも彼等が燐の最大の秘密を知ってしまった時、其の笑顔が二度と見られないのかもしれないと思うからだ。其れでもに笑みが溢れてしまうのは、きっと彼等なら時間は掛かるかもしれないが、燐と分かり合える様な気がしたからに違いない。



















其れから暫く拠点までの道程を歩いて戻っていれば、焚き火で辺りを明るく照らす、広い空間が見えた。自然と速くなる足取りに、森を抜けて出てみれば、志摩は涙ながら両手を広げて歓喜する。


「バンザーイ!!無事帰還やー!!」

「おっ、お疲れさん。無事戻ってきたな」


酔いはすっかり覚めたのか、涼しい顔付きで腕を組み、仁王立ちするシュラが戻って来た残りの塾生達を出迎える。訓練前に男子達が熾した焚き火の前には、未だ森の中に入ると思われていた出雲と宝の姿があった。


「なにい!?お前らもうクリアしてたんか!?」

「遅かったわね、使い魔にやらせたわよ。宝の方が早かったけど」

「宝くん何者なんや…」


先にクリアした出雲と宝を目をひん剥いて驚く勝呂に、地面に膝を立てて腰掛ける出雲が淡々と返事をする。使い魔に運ばせた出雲よりも早くクリアしたという宝に更なる謎が深まるが、宝は相変わらず無視で干渉する事は難しそうだ。


「痛」

「?どした?」


リアカーを置いてシュラへと歩み寄れば突如首筋を抑えて声を漏らしたしえみに、一番近くに居た燐が振り返る。其れに同じく気付いたが燐に視線をやれば、やや近付いて尋ねた。


「怪我?」

「いや…わかんねぇ」


と燐がしえみの様子を伺うが、特に目立った外傷は無く、しえみは変わらず首筋を抑えて眉を顰めた。


「あれ?そういえばお前ら全員か?」

「「?」」

「あ!そういえば誰もギブアップしてないのか。さっきのロケット花火は誰が…」

「痛い…」


全員揃っているとなると、あの花火は何だったのか。皆が首を捻れば一段と表情を歪めたしえみが視界の端に移る。


「ひゅーーーーーーーー…」

「!?」


刹那、頭上が降ってくる呑気な声に反射的にと燐は真上を見上げ、迫り来る其れに目を見開く。


「シュタッ」


軽い声で華麗に着地して見せたアマイモンの手には鎖に繋がれた小さな悪魔の姿があり、は素早く燐としえみを背後で守る様に手を翳して制すると、シュラも己の胸元に素早く手を添えるのだ。


「ゴー!ベヒモス!」


アマイモンから鎖で繋がれた首輪を外され、唾液を垂らし舌を出しながらベヒモスと呼ばれた悪魔が一直線に襲い掛かって来る。戸惑う塾生達は突然の事に呆然と立ち尽くし、シュラは胸から現れる魔剣を振るった。


「ボヤッとするな!」


此の場に居る皆に向けられた言葉に、シュラが素早く横一文字に振るった刀は、其の衝撃を確かにベヒモスに与えて、ベヒモスは呻き声を上げてひっくり返る。


「待ちくたびれたよ…!」


シュラが刀を構えながら口笛を吹けば、出雲や勝呂、志摩の丁度中央から地面から顔を覗かせた一匹の蛇が姿を現す。身体に文字が刻まれた蛇を中心に、円形に広がる紋様。其の一帯に広がり浮かび上がる巨大な魔法円は眩い光を放ったのなら、まるで弾く様にアマイモンとベヒモスを魔法円の外へと吹き飛ばされて森の中へと消えて行く。


「魔法円を描いた時に中にいた者は守られ…それ以外を一切弾く絶対牆壁だ。まあしばらくは安全だろ」

「ちょ…」

「絶対牆壁…!?」

「そんな事よりさっきのは何なんですか!?」

「これも訓練なんですか?いくらなんでもハードすぎじゃ…」


戸惑いを隠せない塾生達に向き直り、一先ず安全である事を告げれば、シュラは己の長い髪が邪魔にならない様、団子型に結び直し、神妙な面持ちで塾生達に背を向けて持参したケースへと歩み寄る。


「訓練は終了だ。今からアマイモンの襲撃に備えるぞ」

「…は?アマ…!?」

「CCC濃度の聖水で重防御するから皆こっちに集まれ」


聖水の入ったウォータータンクを携え、集合を掛けるシュラに塾生達は戸惑いながらもシュラの元へと向かう。


「アマイモン…??」

「アマイモンって八候王の一人の…“地の王”ですか。さっきのが!?」

「そうだよ。祓魔師程度じゃ到底敵わない超大物だ。だから防御するってんだろう」

「なっ」

「ホラ並べ!」


納得のいかない塾生達を急かし並ばせれば、シュラは構わず塾生達に向かって順番に聖水を頭から被せていく。一瞬にしてずぶ濡れになった塾生達も、シュラの行動に事態の深刻性を僅かながら察すれば、後はもうされるがままだった。


「おっと。アブねッ。お前にかけたら大変なところだった」

「………。」

「………!?」


しかし、次に燐に聖水を掛けようとした所でシュラは咄嗟に思い留まりウォータータンクを下ろすと、思わず閉口する燐に、勝呂が燐とシュラを唖然と見つめる。続いてシュラがに聖水を掛けようとウォータータンクを持ち上がるが、は手で其れを制するとシュラは直ぐに動きを止めるのだ。


「必要ない」

「そ?」

「………!!?」


あっさりとウォータータンクを下ろして引いたシュラにますます勝呂の疑いの目が強くなる。シュラは地面にウォータータンクを放り捨てると、手を十字に切り、呪文を唱えれば、満足そうに腰に手を当てて息を吐いた。


「よし。まあこれでいざ何かあっても体が乾ききるまでダメージを軽減するだろ」

「…!?奥村とさんには何もせえへんのですか?」

「あー…コイツなんつーか聖水アレルギーでさー」

「聖水アレルギー!?さんもそうや言うんですか!」


シュラにすかさず問い詰める勝呂に、言い訳になっていない適当な事を言うシュラに非難の声を上げる勝呂。勝呂の疑問は当然のもので、燐もシュラと勝呂の間に挟まれては落ち着きの無い様子ではあったが、其の矢先がへと向かうと、は平然ともっとも且つくだらない言い訳を口にするのだ。


「いや。濡れたくないから」

「そんな理由かい!!」


ただでさえ暑い夏に、濡れてジメジメとした衣服を好むような趣向をは持ち合わせていない。実際問題、そんな事を言っている場合じゃないのだが、其れでも嫌なものは嫌で、不要なものは不要なのだ。


「つっ…つーか!雪男は?」

「あ。そういえば…!」

「んー。アイツはちょっと邪魔だからどっか行ってもらったよ」

「は!?」


話題をすり替える様に燐が姿の見えない雪男の居場所を問えば、志摩も今気付いたのか周囲を見渡す。シュラは頭の後ろで腕を組むと何処吹く風でそっぽ向けば、一同からは呆れと疑惑の目が向けられるがシュラは気にせずケースに寄り掛かる様にして地面に座り込む。其の手には変わらず魔剣が握られたままではあったが。


「シュラ」

「んー?」

「どうする気」


シュラの前に立ち、見下ろしては問い掛ける。シュラは地面に突き刺した魔剣を握ったまま、を見上げた。予め魔法円を印して準備を整えていたのだ、アマイモンの奇襲はシュラも予測の範囲だったのだろう。


「どうしたも、こうしたもないな。成る様に成るさ」


しかし、これといった策は無いらしい。元々期待もしていなかったは、シュラの言葉を咎める事も無く、息を吐くと、シュラはやけに真剣な目付きでを呼んだ。





真っ直ぐと見据えるシュラの目に応える様に、もまた、シュラを見据える。シュラは口元に僅かな笑みを浮かばせると、落ち着きの無い様子で此方を見ている燐を一瞥し、に言うのだ。


「次にアマイモンが仕掛けてきたらアイツを連れて此処から離れろ」


其れは間違いなく、アマイモンの狙いが燐であるからだ。メッフィーランドの時と同じく。


「死ぬなよ」


無いとは思うが念の為に。シュラに一言だけ投げ掛けて返事も聞かずにはシュラから離れる。其れを見ていた燐が今度はシュラに駆け寄るのを尻目には辺りを見渡した。アマイモンの霊圧は未だ此処からは遠く、頭上には変わらずメフィストの霊圧が感じられる。


「緊急連絡先にも先生方にも連絡つかないわ」

「あの…アマイモンは一体何が目的なんです」

「さあ。何でかにゃあ?」

「………。」


片っ端から電話を掛ける出雲に、勝呂がシュラに問い掛けるが、シュラは其れを軽くあしらう。徐々にアマイモンの霊圧が近付いて来るのを逸早くは察知すると、目だけは其の方向へと向けた。


「杜山さん!?」


誰かがしえみの名を叫び、視界の端に移るしえみの姿には息を飲む。魔方円の外へと向かって歩き出すしえみを引き留める事はせずに、何事かと目を凝らせば、其の首筋には皮膚を盛り上げて蠢く寄生虫の姿があった。


「おいおいおいおい!!止めろ!!!」


アマイモンの仕業だと気付き、は慌てて駆け出す。同時にシュラも気付いて咄嗟に立ち上がり、しえみの元へと駆けた。其の手には何時の間にか燐から取り上げていたはずの降魔剣があるのは、燐に返そうとしていたのだろう。皆が呆然と戸惑い立ち尽くす中、の手がしえみに届く寸前、空を切った手には慌てて立ち止まった。間に合わずしえみが魔法円の外へと出ると、木々間を縫ってアマイモンが姿を見せるのだ。


「その娘に何をした!?」


反射的に飛び出そうとした燐を、シュラは刀で制しながらアマイモンに吠える。もアマイモンから距離を取るように一歩後ろへ後退すれば、アマイモンは一度を見てからシュラへと視線を向け、しえみを招き寄せる。


「虫豸の雌蛾に卵を生み付けてもらいました。孵化から神経に寄生するまで随分時間がかかりましたが、これで晴れてこの女は僕の言いなりだ」


しえみの頭を抱き、己に寄せるアマイモンに燐は苦々しく歯を食いしばった。しえみが魔法円から出ようと出なかろうと関係無いと、放置してた少し前の自分には舌打ちを零す。


「しえみ…!!」

「さあ、おいで」


アマイモンは丁重にしえみを抱き上げ、強く地面を蹴って高く飛躍する。遠ざかっていくアマイモンとしえみの姿に後を追うか決め兼ねていると、の真横を燐が駆け抜けた。


「ま…まてこのトンガリ!!」

「コラ!!お前が待て!」


しえみを拉致したアマイモンを追いかけ、魔法円の外へと出る燐。シュラが制止を掛けるが全てが遅かった。燐の目の前に現われたベヒモスが、行く手を阻むように立ちはだかり、唾液を垂らして威嚇するベヒモスが燐へと襲い掛かる。そんなベヒモスを燐に次いで魔法円の外へと出たシュラが一振りで返り討ちにすると、片手に持っていた降魔剣を燐へと投げつけるのだ。


「行け!!あたしも後を追う」

「!!」


燐は降魔剣を受け取り、一目散にアマイモンが消えて行った森の向こうへと後を追い掛ける。ベヒモスと対峙するシュラは魔剣で飛び掛るベヒモスを再度弾き返すと、魔法円の中から勝呂が駆けて行く燐に声を荒げて呼んだ。


「奥村!!」

「お前らは死んでもその牆壁から出るなよ!!」


魔剣を薙ぎ払い、飛ぶベヒモスに意識を集中させて応戦するシュラは、今にも魔法円の外へと飛び出しそうな勝呂に向け、序に皆へと忠告を促す。すっかり森の中へと姿を消した燐に焦燥する勝呂の隣で、は足を踏み出そうとすれば、其れを見逃さなかったシュラがすかさず叫ぶ。


!!お前も牆壁からは出るな!!!」


の足がピクリと制止し、は強くシュラを睨む。刹那、前方に見える木々がいきなり激しく吹き飛び、耳を劈く様な爆音が響いた。根から吹き飛ぶ木々と共に、受身もままならず燐の身体が宙を飛ぶ。其の正面にはしえみを抱えたアマイモンの姿が有り、皆は目を引ん剥いて目の前の光景を凝視し、悲鳴を上げた。


「うわあああ!!」


アマイモンは燐に蹴りの追撃を掛け、抉れた地面と岩と共に燐の身体は地面に叩き付けられる。吹き飛んだ木々や岩が落下し、砂埃が引き始めた頃、塾生達の眼前には、意識が無いのか岩の上に倒れて動かない燐の姿が映るのだ。


「クソが!!!」

「ちょっと!!待ちなさいよ!!何考えて…絶対外に出るなって言われたのよ!!」


燐の姿に勝呂が駆け出せば、慌てて引き止める出雲。勝呂を引き止める為に慌てて志摩が勝呂の後追って駆け出し、其の肩を引っ掴むのだ。


「坊!!あかんよ!!」

「坊!冷静になって!ネッ?」


子猫丸が勝呂を咎め、志摩が宥める様に声を掛ける。強引に足を止められた勝呂はゆっくりと鬼の形相で威圧感のある睨みを効かして志摩へと振り返れば、志摩は其の形相に顔を真っ青にさせた。


「…俺は今猛烈に腹立っとるんや!!冷静なんぞ犬にでも喰わせろや!!」

「坊!!」


志摩の腕を振り切り燐に向かって駆け出す勝呂。駄目だと声を荒げても、勝呂の足は止まるどころか早まるばかりで、志摩は頭を抱えて叫ぶと自暴自棄となって駆け出すのだ。


「だー!!もうなんて人や!!」

「志摩さん!!」


勝呂に次いで志摩まで魔法円の外へと飛び出していけば、子猫丸は暫し悩んだ末に意を決して同じく魔法円の外へと駆け出す。まさか子猫丸までシュラの言付けを破った事に戸惑う出雲は呆然と倒れた燐へと向かって行く三人の背中を眺めた。


「!?は?嘘でしょ!?殺されるわよ!!やめてよ!」


必死に三人を呼び止めるも、出雲の言葉は誰の耳にも届かず虚しく消える。くしゃりと苦しげに表情を歪めて立ち尽くす出雲を尻目に、は立ち止まっていた足を前へと踏み出せば、出雲はに振り返って震えた声で問い掛けた。


「アンタも行くの…?」


出雲が信じられないとばかりにを向ける。まるで行くなとでも言うような其の瞳を一瞥し、は静かに足を進ませた。は出雲に応えない。今、此の場での最優先は出雲では無く、ましては勝呂や志摩、子猫丸でもシュラでも無い。燐、只一人だ。










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