「ほな、ちょいとお邪魔しますわ!」


初めこそ遠慮していた志摩だが、もう其の表情に戸惑いは無い。促されるまま部屋へと入れば、興味津々と鼻の下を伸ばしての泊まる部屋の中を見渡すのである。部屋の片隅に置かれた開かれもしていない荷物。旅館自体は幼い頃から何度も出入りしている故に見慣れた作りの部屋ではあるが、何処か殺風景に見えた。


「荷物まだ出してへんねんなぁ」

「何かとやる事あったから」

「手伝おか?」

「荷物に触ったら斬る」


小ぶりの卓袱台にシュラに貰った地酒を置き、備え付けの湯呑みを二つ手に取る。生憎割るものが無いので必然的にロックで飲むわけだが、むしろロックで飲む方が好きなからすれば何ら問題は無かった。


「座りなよ」

「なんか照れるなぁ」


表情筋をこれでもかと緩ませ、志摩は後頭部を片手で掻きながら適当に卓袱台の前へ腰を下ろすと、目の前に置かれた湯飲みに注がれる地酒を見る。波打つ透明な其れは湯飲みの半分程まで注がれ、は其れを志摩へと差し出すのだ。


「え、割れへんの?」

「割るものないし、割らないほうが好き」

「おお…結構イケる口なんやね…さんて…」


困った様に眉を八の字にして苦笑する志摩は、其れでも何だかんだ湯飲みに手を伸ばせば、持ち上げた事により揺れる地酒を一度見下ろし、を見る。同じく地酒を注ぎ、志摩の正面に腰を下ろしたも同じく湯飲みを手にとっており、しまった、自分で自分の部分を注がせてしまったなと後悔をした。


「ほな、乾杯」


卓袱台の上から湯飲みを突き出してお決まりの言葉を紡ぐ。返事は予想通り返って来なかったが、言葉にはせずとも、確かに湯飲みと湯飲みがぶつかった其の衝撃が、振動が、揺れた地酒の水面が、同じ気持ちである事を物語っている。


「くぅぅぅ…っ!これキツない!?」

「でも美味い」

「えー…俺は微妙やわ、さん大人やなぁ…」

「まあ、アンタ達よりは長生きしてるからね」

「ソウデシタ」


口をつけ、中へと流し込んだ一見透明の水の様な酒は、喉を熱く焦がして流れ込み胃へ。たった一口、一飲みで分かる度数の高い其れに自然と表情がくしゃりと歪む。正直言って、好みではない味。どちらかと言うと梅酒やカクテル等の甘い飲み物の方が好きなのは、未だ自分が子供である証拠だろうか。表情一つ変えずに酒を味わうの姿は、何処か貫禄が見え、見た目は同じ年頃なのに精神年齢はこうも見た目に表れてくるものなのかと苦笑が浮かんだ。


「志摩」


不意に呼ばれた己の名に、思わず心臓が一度飛び跳ねた。


「んっ?」


唯、名前を呼ばれた其れだけの事なのに。自分でも予想外な裏返った声が出た。そういえば、名前を呼ばれたのは初めてな様な気がする。入学してからもう随分と経つのに今、やっと。嗚呼、だからこんなにも驚いたのかと納得し、己の動揺を隠す様に好きでは無い酒に口をつけて誤魔化すのだ。


「ありがとう」


そして盛大に口の中の酒を噴出した。


「…は…?」


噴出した酒は畳に染み込み、手の甲で口元を拭う。畳は染みが出来るだろうか出来たらどうしよう怒られる!頭の中で駆け巡る父や女将の怒り顔を冷や汗が止まらないが、今は其れ以上に起こった衝撃的な言葉に頭の整理がつかなかった。


「え、え、え…?今、なんて!?」


思わずを凝視して、混乱のままに言葉を繋ぎ、再確認。そんな志摩を他所には普段通り落ち着いた様子で、優雅にも窓から見える夜空の月を眺めながら湯飲みをまた傾けていた。


「理由はどうあれ、燐と普通に接してくれた。感謝する」


思わず釘付けになる様な横顔は、志摩の胸の内に熱い何かを灯らせる。白い肌に掛かる艶やかな髪。ほんのりと色付いた頬に、長い睫が生む目元に掛かった影。思わず触れて、抱き締めたくなる様な衝動に駆られる。けれど其の窓の向こうを見つめていた双眼が自分へと向けば、其の美しさを直視したも同然で、そんな衝動すら引っ込んでしまうのだ。


「そんなん、お礼言われるような事ちゃうわ。やめてぇや、なんかむず痒いやろ」


動揺が声に出ない様に慎重に言葉を紡ぎながら、照れ臭く笑い、明日は雪でも降るんかいな、なんて面白くも無い冗談を口にする。触れたい、けれど触れてはいけないような気がして。触れれば全てが駄目になってしまいそうで。こうも不思議な気持ちになったのは初めてだった。同時に、ほんの少しの嫉妬。


「ほんまさんて奥村くんのこと大事なんやなぁ」


いつもの傍に居り、大切に、大切に護られている彼。独占してずるい!なんて感情は無いが、其れでも不思議に思ったりはするものだ。異常な程に、彼は構われているのだから。燐自身は何とも思っていない様だが、自身は燐の事をどう思っているのかは分からない。もしかして燐の事が、なんてそんな可能性すら過ぎるのである。


「大事というか…」

「ん?」

「いや、…うん。大事だよ」

「そ、そうなんや…」

「託された子供だからね」

「託された?」


ほんの少し口篭りつつも、結局は志摩の問いには肯定したは、注いだ酒を一気に喉へと流し込む。良い飲みっぷりだが、到底真似しようと思えないのは、同じ事をすれば自分は確実に吐くと志摩は確信していたからである。


「まあ、そんな事どうだって良いじゃない」


そう言って、空になった湯飲みに再び酒を注ごうとするに素早く志摩は手で制す。不審そうに目を細めて志摩を見るだったが、地酒の瓶を手に取りの隣へと移動した志摩に、其の行動の意味に気付いたのなら、素直に受け取って湯飲みを傾けるのだ。


さんて何かと直ぐそうやってはぐらかすから、気になって気になってしゃーないわ」

「そりゃ大変だね」


丁重な手付きで志摩が酒を注げば、波打つ水面が照明の光に反射してキラキラと光る。口は未だ付けず、は卓袱台に置き去りにされた志摩の湯飲みを手に取れば、瓶と交換だとばかりに差し出す。其の際に添えられた不敵な笑みには思わず志摩の口元も引き攣るのだ。どうやら離脱も休憩も無しらしい。瓶を渋々卓袱台へと置いて、の手から湯飲みを受け取る。未だ注がれた内の半分しか飲んでいない酒は、の手によって当初よりも多めに新たに注がれるのだ。


さん、酔うてるん?」


飲め飲めと、煽る様に注ぐの姿が何だか何時も通りじゃないような気がして、志摩は思わず問いかけた。頬はほんのりと赤いものの、言葉も焦点もしっかりしているは、まだまだ酔ってはいなさそうではあるが。


「何で?」

「いや、なんか…」


何時になく会話が続くのは、は返事をしてくれ、コミュニケーションが取れているからだ。表情も何処か柔らかくて、普段が悪い訳では無いが、今の方が親しみを感じ易く、話し易い。其れは酒の所為なのか、自分の勘違いでは無いのは確実で、志摩は首をほんの少しだけ傾げて、へらりと笑うのだ。


「今日は機嫌良さそうやなって思って」


そう思った事に嘘は無い。強いて言うならば、今日では無く、今であるが。しかしそんな小さな事を気にするでは無いのだ。特に、今は。


「アンタのお蔭じゃない?」


ふわりと華が咲く様な笑みだと、志摩は思った。仏頂面ばかり目にしてきた此の顔に、こんな魅力的な笑みが浮かばれる事があるとは想像もしなかった。同時に酔っているからでは無い、激しく脈打つ心臓の所為から、胸を熱くする此の熱の所為で集中する熱が頬や耳に感じるのだ。赤面する自分の顔を見られたくなくて、志摩は一気に酒を飲み干す。喉が、熱い。不快感が喉を逆流してきたが、其れは気合で押し込んだ。


「こっ…」

「こ?」

「これが所謂、あの、デレ、ちゅーやつですか!!?」

「………。」

「遂にさんのデレを見れる日が来るとは…いや、むしろデレがあった事が俺にとって一番の収穫ですわ!」


誤魔化すように舌はぺらぺらと言葉を吐き出し、突然興奮した様に捲くし立てる志摩には引いた様に半眼となるのだ。志摩が口を閉ざせば完全に沈黙となる客室、居た堪れない空気、では無い。妙に自然な沈黙だったと志摩は思う。


「なぁ、さん」


何だか異様に眠たい。重くなる瞼に、ぼんやりとしだす思考回路。何だかぼやけて見える視界、やけに横になりたい様な倦怠感。もしかしたら酔っているのかも、一気に飲んだのがいけなかったのか。はっきりしない意識の中で、無意識に本能的に志摩はに呼びかければ、相変わらず平気そうな少しだけ顔色の良いの視線が志摩へと向く。


「俺の思い込みかもしらんけど、前よりは仲良くなれた気がするねん」


へらあ、とこれでもかと表情が緩み、志摩は我慢ならなくなって卓袱台へと上半身を滑らせた。ひんやりとした木が気持ち良く、更に眠気を誘う。


「せやから、ちゃんって呼んでもええ?」


以前、断られた事は今でもはっきり覚えている。あの時は鋭い睨み付きの無言の拒絶だった。懲りてないと言えば懲りていないのだが、何となくもう一度言ってみたかったのだ。例え玉砕でも。


「好きにすれば」


目を瞑っていた為にの表情は分からなかったが、上から降ってきた声色は優しげで、きっと柔らかい表情をしていたに違いない。曖昧な返事ではあるが、指す意味は了承されたも同然で、志摩の表情も自然と柔らかくなる。


「おおきに」


穏やかな声が出た。そして一瞬時が止まった様な錯覚に陥る。急速に回転し出す脳内に、勢い良く、飛び上がる様に志摩は卓袱台に寝そべっていた上半身を起き上がらせて見開いた瞳でを見るのだ。突然起き上がった志摩に驚いているのか、目を丸くして硬直するを、不躾にも志摩は凝視するのである。絶対に確実に以前同様断れると思っていたのに、今の返事は、過去とは違って、了承だった。


「…何?」

「え、い、いやあ!」


眉を顰めるを笑って誤魔化して空笑い。脳内では鈍っていた思考が漸く元の速度、否、其れ以上の開店を見せる。そしてふつふつと沸き起こってくるのか嬉しさから来る興奮だ。


「せや!俺の事も志摩やのーて、廉造って呼んでくれてええんやで!此処やと志摩て呼んだら、うちの身内全員が振り向くし」

「気が向いたらね」


先程までの眠気は何処かへと吹っ飛んで、饒舌な舌が一気に捲くし立てる。必死にも見える、其の姿が可笑しくては鼻で笑いながら湯飲みに口をつける。やはり、今回の返事も拒絶では無かった。


「なんなん、その返事」


思わず零れた声は自分でも嬉々としているのが良く分かった。まさか夢だったなんてオチではない事を祈るばかりである。


「ちょっと期待してまうやん」

「勝手に期待しときなよ」

「冷たいなぁ。もっぺんデレ見せてくれてもええ思うねんけど」

「デレたつもりは、さらさら無かったけどね」

「うーん、通常運転やな!」


けれど最後の最後はやはり普段通りので、現実なんだと再確認するのだ。一気に飲んだ湯飲みには、の手で再び酒が注がれ、志摩は結局深夜遅くまでに付き合わされる羽目になる。泥酔し、歩く事はおろか座る事すらままならない志摩を見下ろし、飲ませ過ぎたと少しだけ反省する。寝息を立てて眠る志摩に掛け布団を掛けてやるの横顔は、稀に見る優しいものだった。










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