窓からは柔らかな日差しが差し込み、耳を擽る様な小鳥の囀りが遠くから聞こえた。ゆっくりと、けれどはっきりと浮上する意識。開いた瞳が先ず映すのは見慣れない木目が見える木の天井。敷布団で寝るのは何時振りだろうか、普段とは違う寝心地、知らない香りの布団を退かせて身を起こせば、畳の上で横になり小さな寝息を立てながら、未だ目覚める気配の無い志摩が居る。
「(…まだ時間はある、し)」
枕元の置時計を見ながらは音を立てずに立ち上がる。寝過ごさない様に就寝前にセットしていた目覚まし時計は起床予定時間よりも早い時刻を示しており、即ち事前にシュラに言われていた旅館の朝食時刻には未だ早いという事だ。アラームは切らずにそのままにしておけば、志摩も時間に寝過ごすこと無く目覚めるだろう。は静かに部屋を後にした。
朝の日差しを浴びる京都の町の散歩は新鮮で心地の良いものだった。其れから虎屋旅館へと戻り、優雅にも朝から温泉を楽しむ。散歩で掻いた汗は湯と共に流れ落ち、身体の芯まで暖めた。実に、有意義な時間。この時間内も任務だというのだから不思議である。最も、こんな贅沢な時間は今だけなのかもしれないが。温泉を出た頃には時刻も良い頃になっていて、はそのまま食堂へと向かう。時間が早いだけあって人は疎らで空いた席は幾らでもあった。が、は其のまま真っ直ぐと一点へと向かって歩を進めるのだ。大きな欠伸を一つ零す、寝癖が凄まじい燐の隣である。
「おはよ、燐」
「ん、おはよー」
眠いのか目を擦る燐の隣に腰掛けて、並べられた朝食に向き相手を揃える。いただきます、小さな声ではあるが確かに呟いて箸を取れば、先ずは汁物から手をつけるのだ。
「昨日の夜の記憶がないんや。…どーも酒飲んで寝てもーたみたいやねん」
不意に聞き覚えのある声が聞こえ、漬物に手をつけながら耳を澄ませば、どうやら燐に気をとられて気付かなかったらしいが、真後ろの席には勝呂と子猫丸が座っていた。
「あの先生、自分の飲み物と間違わはったんやないか?ろくでもないわ…!」
「大丈夫ですか…?」
何やら話しながら朝食を取る勝呂と子猫丸は、決して燐とに声を掛けたり近寄ろうとはしない。燐は兎も角は元々二人と親しかった訳では無かった事もあり何とも思わないが、燐からすれば何かしら思う所はあるだろう。いや、燐なら仕方ないと割り切っているに違いない。暫くして席を立った勝呂の背中を一瞥し、は焼魚へと箸を付けた。良い塩加減の其れは素材の味を存分に活かしていた。
「あ!やっと見つけた!もー、出て行くんやったら起こしてくれたらええのに」
起きたら誰もおらへんしビビったわ!なんて、へらへらと笑った志摩がふらりと現れて歩み寄ってくる。其の様子は先日まで避けていた態度とは一変して、今まで通りだ。
「ちゃん、奥村くんオハヨー。奥村くんは昨日ちゃんと部屋戻れた?」
どっこいせー、なんて老人の様な掛け声と共に自然な流れで自ら進んで燐の正面に座った志摩に、は背後では挙動不審となる子猫丸の気配を察知して込み上げて来る笑いを味噌汁と一緒に流し込んだ。たった一晩でころりと変わった志摩の態度に理解が追いついていない事だろう。
「…覚えてねー」
「あっはっは、やっぱりなー」
「…お前、」
「え?」
酒に酔った所為で記憶が抜けているのだろうか、間抜けな寝癖そのまま燐は同じく間抜けな表情で、咀嚼する口はそのままに正面に座る志摩を凝視するのである。置かれた端を手に取りながら、笑みを絶やさぬ志摩が先を促すかの様に尋ねれば、燐は口の中のものを飲み込んでから、じっと志摩を見据えて言うのである。
「俺とフツーに喋っちゃってヘーキなの?」
「ああ…ははは」
にこにこと、笑う志摩は返答の言葉を紡ごうとするものの、何処からか聞こえてくる己の名前を呼ぶ声に思わず口を閉ざすのだ。忙しい駆け足の音、気合の入った声、其れは遂に食堂へと現れる。
「ぞォオ゛りゃあ!!!!」
「いった」
金色のド派手、僧侶の衣服に身を包む彼は力強く飛び上がり華麗な蹴りを容赦なく志摩の後頭部へ。勢いよく吹っ飛ぶ志摩を尻目には味噌汁の碗を置くと、漬物を掴み、白米を口にした。
「いきなり何すんの金兄!!」
「何て…飛び蹴りやろ、お前アホか?」
「お前がアホやドアホ!!」
「廉造!元気そーで何よりやで」
「おげッ、柔兄も…!」
「何や、“おげッ”て!」
一気に騒がしくなる食堂、其の原因は志摩の兄にあたる金造と柔造の登場に依る。朝から勤めでもあったのだろうか、仕事着である僧侶の服装に身を包む二人は朝からとても元気だ。床に叩きつけられ転んだ志摩は傷む後頭部に顔を顰めつつも、兄弟仲は悪くないのか言葉を交わすのである。
「つか柔兄達、もう体大丈夫なんや?」
「もともと軽度やったからな、今日から現場復帰や。おっ」
怪我など一切見当たらない兄二人を見やり、志摩は再び燐の正面へと腰掛ける。問題無いとばかりに答える柔造も朝食を取ろうと空いた席を見下ろして、燐との其の向こうに一人で朝食を取る子猫丸の姿に気付くのだ。
「子猫、お前そんな所で何してん」
「!!」
「こっち来て一緒に朝飯食おうや」
「あ…僕…もう終わるんで…!!」
明らかに可笑しな態度を過敏に取る子猫丸は、優しい表情で手招きをする柔造の申し出を顔を逸らして断るのだ。其れを反抗期かと勘違いする柔造は手招く手をそっと下ろし、金造はというと食事を取る燐とを見下ろしながら不躾な視線を向けていた。
「誰やコイツ等」
「あー!」
金造の問いは尤もで、初対面な子供が目の前に居れば疑問にも思う事だろう。此処には今、任務に就く祓魔師しか居ないのだから。志摩は忘れてたとでも言わんばかりに声を上げれば、さっと燐に向けて手を向け、燐は漸く箸を止めて柔造と金造を見上げるのだ。
「コチラお友達の奥村くん!ほんでコチラはちゃん」
「おおー、そーかそーか!俺は柔造、廉造の兄貴や」
「ど、どーも!」
「そっちは四男の金造でドアホや。廉造は男兄弟の末っ子でドスケベやけど宜しく遊んでやってくれな」
愛想の良い柔造はとても気さくで接しやすい。にかりと笑った表情はまるで晴れの日の太陽の様だ。慌てて挨拶する燐の隣で、は軽く会釈をする。柔造は次いで既に志摩の隣に座り、物凄い勢いで白米を流し込む金造を紹介しながら、しっかりと志摩の兄として振る舞い、の隣へと座るのである。
「女将さんが料理がえらい上手い黒髪の別嬪さんがおるって言うてはったんやけど、君の事やんな?」
ちゃん、やったっけ?と、柔造がの顔を覗く様に首を僅かに傾げて問い掛ける。自分の知らない間に噂されていた事に少々驚きつつも、顔には出さずに肯定も否定もせずに居れば、の口からでは無く、燐の正面に座る志摩から柔造に向けて言葉が飛んだ。
「黒髪ゆーたら出雲ちゃんもやんか」
「昨日、この嬢ちゃんが厨房おるとこ昨日見たんや」
だから出雲ではなく、の事だと確信して聞いてきたのかと納得し、は箸を下ろして漸く柔造に返事をするのである。
「噂される程の腕は無いですよ」
「謙遜しいなや」
たった其れだけで会話は終わったが、柔造は器も大きい人間なのか、口数少なく愛想の悪いを何とも思っていないのか始終笑顔である。食事を再開し、はだし巻き卵を突く。隣の柔造は先ずは味噌汁からで、正面に座る金造は米粒を撒き散らしながら白米だけをひたすらに掻き込んでいた。一瞬、其々が食事に夢中になり訪れた無言。だが其れは直さま志摩によって破られるのである。
「せやせや、奥村くん。これからプール行かへん!?」
「はぁ?」
「俺ら今日一日お休みらしいんよ。暑いしィ、女子誘ってプールええやろ?」
「じょ、女子誘ってプール…?」
「勿論ちゃんも行くやんな!?」
突拍子も無い提案に初めは眉を顰めた燐だが、次第に其の内容を想像しては満更でもない緩い表情を浮かべるのである。話の矛先がへと移り変わり、輝く瞳を向けられるが、はフル無視した。
「………いや、俺はエンリョしとく…」
「まま、そー言わず。役割分担しよーや」
何を思ったのか表情を暗くし、肩を落として誘いを断る燐を、行儀悪くも志摩は箸をパチパチと音を鳴らして明るい声だ。燐を手招きし、耳を寄せるように促せば、机の上に身を乗り出した燐に志摩が小声で話しかける。
「俺、出雲ちゃんとちゃん担当してハーレムするから。奥村くんはホラ、杜山さん誘わはったら?仲良くなるええチャンスやん!」
「!!」
小声なものの、燐の隣に座るには彼等の話は筒抜けである。明らかに下心丸出しの志摩と、妙に乗り気になり始める燐を、呆れ顔では沢庵を咀嚼する。カリ、コリ、と噛む度に音が鳴る沢庵は味が染み込んでいて白米に良く合う。
「…志摩、お前って…むちゃくちゃいい奴だな!!」
「あ、よーやっと気付いたんやー。俺はいい奴で有名ないい男やで」
年頃と言えば年頃の、どうしようもない男達の盛り上がりを傍観を決め込んで箸を進めていれば、は不意に隣に座る柔造の視線が変な方向へ向いている事に気付くのだ。
「………。」
「………。」
柔造の視線は目の前の朝食には向いておらず、こそこそと小声で話す志摩と燐でも、金造でも無く、真横に向いていたのだ。其の視線はを通り越し、其の向こう、燐へと向いている。厳密に言えば、燐のズボンから出た黒い尾に、だ。先端がくるりと丸まった尻尾は燐の興奮を表すように軽い音を立てて畳を何度も叩いている。幸いな事に金造は白米に夢中で気付いていないが、柔造は無言で燐の尻尾を凝視しており、は内心焦りながら箸を止めて柔造を見上げるのだ。
「柔造さん」
「…ん、なんや?」
「其の衣装、朝からお勤め御苦労様です」
不意に声を掛けたからか、柔造は少し遅れて反応し、視線を尻尾からへと移す。兎に角意識を此方に向ける事に成功をしたは、これからどう誤魔化そうか考えながら、当たり障りのない労いの言葉を掛けるのだ。
「ああ。おおきに。今日からまたバリバリ働くえ」
「無理はなさらないでくださいね」
ふんわりと微笑む柔造は、本当に愛想の良い人当たりの良い笑顔だ。人の良さが滲む笑顔は、彼が人に好かれる人間である事を物語る。次いで言葉を紡ごうと口を開くと同時に、は立ち上がろうとした燐の背後に迫る影を見て、そっと口を閉ざすのだ。
「よし、じゃあ早速…」
「それってアタシもお誘いあるのかにゃー」
立ち上がると同時にシュラが燐の首根っこを掴めば、突如締まる首に燐を喉を詰まらせ、反射的に己の背後に視線をやる。聞き覚えのありすぎる声に直ぐに誰かは分かっていたものの、燐はシュラを捉えると、顔色をさっと変えるのだ。
「わわわわッ、シュラ」
「燐、お前“修行”は?昨日はやったのか?」
自然と金造を除く皆の視線はシュラと燐に移り、は一先ず安堵する。柔造の意識は完全に尻尾から離れ、現れたシュラへと向いているからだ。自然と皆は口を噤み、唯々シュラと燐のやり取りを見守る姿勢を取るのである。
「いや…昨日は途中から記憶が…」
「お主たるんどるぞ!」
「いや、多分記憶ないの先生が飲みもん酒と間違えた所為ですよ」
「………。」
が、燐に助け舟を寄越す様に指摘した志摩に、今度はシュラが言葉を失い、さっと顔色を変えるのだ。
「た…ったくそれもこれも修行が足りん所為だぞ!今日はみっちり鍛えてやる!!!」
「うわ、強引!」
「え…俺プール…」
「お前ってプールで遊んでる場合なの?」
「………場合じゃない…」
結局、志摩との約束を優先したがっていた燐だが、シュラの問い掛けに現実を見て燐は眉を下げるのである。どう考えてもプールよりも先ず優先されるのは修行、炎のコントロールなのは燐も正しく認識していたのだ。
「悪りィ、志摩!ダメだった。今度また絶対な…」
「ええよー」
丁度燐は食事を終えていた事もあり、連れられる様にシュラと共に食堂を後にする。去り際に申し訳無さそうに謝罪を口にする燐をにこやかに見送る志摩。結局尻尾は出したまま食堂を出て行った燐を見送れば、残ったテーブルには先ず笑い声が響くのである。
「ははは!色々面白い子やな」
「面白いやろー、色々ー」
「修行ね…。…よし、廉造!久々に兄ちゃんと手合わせするか!」
「エンリョします」
にこやかに笑う柔造と志摩の表情は兄弟なだけあって兎に角瓜二つだ。と、同時にサタンの子だと知らぬ柔造が、尻尾が生えた燐を見ても深く追求せず、ただ面白い子だと言って笑い飛ばすのだから大物だ。穏やかな空気が流れる朝の食卓、シュラと燐に触発され、柔造は其れとなく志摩を修行に誘うが其れはきっぱりあっさりと断られる。金造は白米を平らげ、次いでおかずを口に駆け込んでいた。何をそんなに急いでいるのかは始終謎である。
「ほなちゃん、二人でプールに…」
「行かない」
「ですよねー!」
即答で誘いを断られた志摩はより一層大きな声で笑い、は箸を置いて両手を合わせて、ご馳走様でした、と呟く。
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