脂汗が浮かび、青褪める燐はシュラの言葉が正しいと肯定しているようなもので、実際反論しないのだから事実なのだろう。其れでも無駄とも言える抵抗を燐が続けるのは、降魔剣をもう二度と手放したくなかったからだ。
「ちょ…ちょっと待ってくれ。そんな事で剣が抜けなくなったりすんのか」
「兄さん…いいから剣を返すんだ」
「う…」
「やれやれ」
雪男が降魔剣に向けて手を差し出すが、燐は言葉を詰まらせながら降魔剣を手放そうとはしなかった。そんな押し問答に突入しそうになった頃、此の場には居なかった第三者の声が響いたのだ。其れも、あろう事か燐の隣の檻からである。
「ヨイショ。四人共今晩和」
「フェレス卿!!」
檻の下部、食事の出し入れ口から出て来たのは真っ白な小型犬。人語を話す其の犬は白い煙を上げたと思えば、其の姿をメフィストのものへと変えた。突然のメフィストの登場に警戒するシュラは身構え、雪男は動揺し、は何も言わなかったが目だけは鋭くメフィストに向けられていた。
「メフィストお前何の用だ!」
「何の用とは随分な言い草ですね。私だって久々の登場がブタ箱なんてガッカリです。全く、貴方達の尻拭いに来たというのに」
「え!?」
「アインス、ツヴァイ、ドライ。一番防御力が高い牢屋」
メフィストが呪文と共に傘を振るえば、燐が収監された檻の前に現れる鉄を繋ぎ合わせたかの様な風貌の扉。其の扉の向こう側、燐側の方からは機械仕掛けの手の様なものが飛び出し、燐の身体を拘束すると、燐の手からは降魔剣が離れて代わりにメフィストの手の中へと収まった。
「先程ヴァチカン本部から連絡がありましてね。禁固呪が唱えられた件でグレゴリ以下査問委員会賛成多数により奥村燐の処刑が決定しました」
「ちょ、ま…待ってく…」
メフィストから告げられる処刑の決定に、慌ててシュラが声を荒げたのも虚しく、燐を引き込み大きな音を立てて勢い良く閉まる鉄の扉。静まり返る牢の中には、もう燐の姿は無い。
「ず…随分早いな。本当かよ!」
「この状況で嘘を吐きにくるほど私は暇じゃありません。さて、さん。その物騒な手を下ろして貰えますかな?」
シュラがメフィストへと問い詰めれば、其れに答えながらメフィストは傘を白い煙の中へと消す。手に残ったのは降魔剣だけで、メフィストは視線はシュラへと向けたまま、背後からひしひしと伝わって来る殺気に口角を吊り上げた。
「燐を出せ」
「私が手を下さずとも出てきますよ」
メフィストの心臓を狙う指先は、今は静かに背中を指しているだけではあるが、から放たれる禍々しい殺気が冗談などでは無い事を、そして返答次第では行動を実行に移す事を物語る。しかしメフィストは怯える様子は無く、普段と変わらぬ調子で告げた言葉は、燐を閉じ込めたものの、まるで後で出て来るかのようでは眉間に皺を寄せるのである。
「そんな事より、今は不浄王討伐の方が最優先です。ブェアークション!あ、スミマセン剣を持ってくれます」
「お前?なんで知ってる!?そこまで情報通なら手伝えよ!」
「私ですか?無理です、私不潔なモノは苦手で…アレルギーあるんでもうすでに鼻が…」
「は!?」
突然とてつもないくしゃみをしたメフィストは、燐から奪った降魔剣をあっさりとシュラへと預け、何処からか現れたティッシュで盛大に鼻をかむ。シュラの言い分は最もなのだが、其れを訳の分からない理屈で拒否をしたメフィストは、ほんの少し赤くなった鼻から鼻水を垂らして恐ろしい言葉を口にするのだ。
「不浄王が復活すると瞬く間に成長し…そして熟しきった時…京都は死の都と化す」
普段メフィストは信用出来ない人間ではあるが、今回ばかりは其の言葉に嘘偽りは無いのだろう。メフィストが視線を背後で未だ指を突き付けるへと向ける。其の忌々しい顔を強く睨むにメフィストはウィンクをした。まるで何かの合図の様な。そして先程の意味深げな言葉。メフィストの思惑を察したは漸く殺気を収めて手を下すのである。
「かなりの人手が必要でしょう。簡易的なモノですが装備品などプレゼントしましょう。此れが何かの助けになれば良いのですが」
「!?」
「では健闘をお祈りいたします」
「お、おい…待て!!」
シュラの手に幾つかの衣服の様な物を押し付けて、にした様にウィンクをシュラへと向けた後、メフィストはさっさと煙の中へと姿を消した。シュラが慌てて引き止めるも既にメフィストの姿は無く、残ったのはメフィストが出現させた鉄の檻と、押し付けられた衣服だけだ。
「あんにゃろう…」
「とりあえず僕達は出来る事をしましょう」
「お前…?」
「不浄王討伐に僕達も駆り出される筈ですから」
燐の処刑を聞いてから、やけに冷静で静かな雪男は、さっさと踵を返して歩いて行く。出張所で待機している他の祓魔師達と合流するつもりなのだろう。雪男とは一旦別れ、は一先ず候補生と合流するというシュラへ着いて行くことにした。これから対不浄王戦となるならば、が何か指示を受け、従うのはシュラだからだ。次いでに言うとシュラが受け取った衣服は候補生人数分ある点と、此の状況で候補生達に用があると言ったシュラが単純に気になったのもある。まるでシュラは、其の手のなかの衣服が何を意味するものなのか理解している様に見えたのだ。
早足に出張所へと向かえば何やら騒がしく人の数も多く、何かあったのだろうかと人と人を掻き分けて奥へと進む。すると其の先には藤堂と共に逃亡した筈の蝮と、柔造の姿があったのだから驚愕である。蝮に関しては潰れた右目から血を垂れ流し、顔だけではなく身体中から瘴気の影響か幾つもの吹き出物が出ていた。呼吸も荒く重症其のものの蝮を抱えるのは柔造で、彼が此処まで蝮を連れ帰って来たのだろう。
「宝生蝮!?其の目は…」
「もう聞いてる思いますが裏切り者は蝮です。…先程、藤堂が奪った右目と左目を用いて不浄王が復活しました」
「何だって!?」
驚きを露わに蝮を見下ろすシュラに、柔造は簡潔に事態を報告する。内容は先程出張所に戻って来たシュラとには初耳の事で、状況は限りになく悪い事を認識させられるのだ。
「今は和尚が一人残られて戦っておられる…。祓魔は全隊、不浄王討伐に向かってる所です。俺もコイツ医務室まで運んだら一番隊に合流します」
「わかった。アタシも直ぐ向かう」
「お願いします」
シュラに軽く会釈をし、素早く身を翻して去って行く柔造の背中を見送れば、シュラは再び歩き出し、其の一歩後ろをが続く。
「」
「何」
「手、貸してくれるよな?」
視線は正面に向けたまま、シュラは落ち着いた声色でに問うた。勿論答えは決まっており、は迷わず答えるのである。
「燐の為ならば」
の答えに満足気に口角を吊り上げたのを、は見逃さなかった。シュラから手を貸してくれと頼まれる日が来るとは思いもよらなかったが、状況が状況なのだ、藁にも縋る思いだったのだろう。暫く出張所の中を進んでいれば、騒ぎを聞きつけて旅館から此方に来ていたらしい、候補生達の姿を見つけてシュラは先程までとは打って変わって明るい声で彼等に声を掛けるのだ。
「おっ、いたいたお前ら!ちょっとこっちに来い!」
「霧隠先生…」
「さっき炎を出した件で燐の処刑が決まった」
シュラの声に全員が振り向き、シュラを囲む様にして候補生達が集まって来る。其の中でも僅かにとは皆距離を取るのだから、つくづく恐れられてしまったなと痛感する。最も、そんな事はにとって重要な事では無いので構わないのだが。不安の色を浮かべながら、シュラに声を掛けたしえみにシュラはさらりと此処には居ない燐の処遇を告げる。一瞬にして変わる空気、動揺が広がり其々が其々の反応を示す中、時間が惜しいシュラは手早く用件を話すのだ。
「ヴァチカンの決定だ。覆る事は先ず無い。そこでだ、勝呂くん。コレを君に預ける!」
「倶利伽羅…!」
「それと親父さんが燐に託した手紙だ。不浄王を倒すには燐の力が必要だと書いてある」
シュラは降魔剣を勝呂に手渡し、続いて達磨が燐へと宛てた手紙を一緒に差し出す。受け取った勝呂が、其の内容を読めるかどうかは分からないが、其処は親子、寺の息子、博識な秀才ということで読める事に期待しておこう。
「アイツは協力する気だった。お前達、燐を助け出してくれないか?もう燐が処刑を免れるには手柄を立てるしかない。この迷彩貫頭衣を持ってけ。カモフラージュ効果があったはず。見張りに気付かれず独居房に近付けるだろ」
シュラはメフィストに渡され、ずっと抱えていた衣服、其の名も迷彩貫頭衣をという道具を床へと落とせば、其の衣服の効果を告げ、燐を檻の中から解放出来るであろう可能性を告げた。
「霧隠隊長!!早く!」
「ふぁーーーい」
既に出張所に居た祓魔師達は不浄王に備えて各自散り散りとなって動いている。其の祓魔師の中でも隊長という任を負ったシュラは、姿が見えない事から末端の祓魔師に催促をされ、気の抜けた返事をするのである。慌ただしい出張所、外では復活した不浄王に向けて武装した祓魔師達が集まり、現場へと向かい出しているだろう。
「此の通りアタシも所詮騎士團の犬だ。表立って動けない。頼むぞ!全てはお前達の判断に任せる!」
最後にシュラは候補生達に全てを託し、素早く踵を返した。其の際、行くぞ!とを呼ぶ事は忘れない。手を貸すと言った以上、拒む理由は無くはシュラへと続こうとするが、其れは誰かに腕を掴まれて拒まれた。
「ちょお待ち!」
慌てた様子での腕を掴んだのは志摩だった。最も、候補生の中で自らに関わろうとする人物など、志摩くらいのものなので大して驚きは無い。振り返れば困惑した様子の志摩が真っ直ぐとを見ていた。
「ちゃん、何処行くつもりなん?」
其の問いは、此処にいる皆が同様に抱いた疑問だっただろう。皆が燐の救出をシュラに頼まれた中、だけがシュラに呼ばれて別行動をとろうとしている。其れも、別行動は恐らく不浄王討伐側だ。志摩の問いに口を噤むに熱い視線が集まる。の返答を待っているかの様で、は素っ気なく答えた。
「前衛に」
たった一言、其れだけなのに其れは大きな衝撃を志摩や、他の候補生に与えた。言葉が出ないと言わんばかりに口をあんぐりとさせる志摩に、見かねたシュラが口を挟む。
「は前の懲戒尋問で三賢者相手に燐と雪男に手を出すなって威嚇してんだ。つまりヴァチカンの連中からすれば危険度で言えば燐とは同等扱い。燐が処刑を免れるには手柄を立てるしかない様に、が此処で手助けすれば燐にもプラスに働く。相手は不浄王だ、死神の手だって借りるさ」
ほら、さっさと行くぞ!と催促するシュラだが、未だの腕は志摩に拘束されたままだ。放せ、と言葉にはせずに目では志摩に訴えるが、だからと言ってすんなりと放す志摩では無い。
「なんで?危ないやん。止めといた方がええよ」
其れはまるで行くなと言っているかのようで。身を案じる様な口振りの志摩はの腕を掴む手の力を強めた。
「死ぬん、怖いゆーてたやん」
そんな死にに行くような事を態々する必要は無いではないか。其れが、志摩の言い分なのだろう。其の通りだ、死ぬのは怖い、前衛なんて最も危険な場所であり、死神とはいえ祓魔師でも無い唯の候補生が行かなくてはならない理由なんて無いのだ。けれど、は喜んで己を戦場へと投じる。燐の命がかかっているのだから。
「死は恐ろしい。かといって逃げ続けれは逃れられるものでもない」
同時に、今は逃げるべき時では無い。志摩の手の力はこの時既に緩んでおり、軽く振れば簡単に外れる拘束。離れた手が虚しく降ろされるのを見届ける事無くは背を向けたなら、シュラへと続き、二人は出張所を後にした。
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