《竜士、触地印を崩すな。その印を崩すと結界も解けてしまうぞ》

「いちいち言われんでも判っとる!!死んでも崩さへんわ!」

「ピリピリすんなよ、姫さま…」

「姫やめぇや!!」


菌塊に侵されていない剥き出しの岩場の上では、右手の人差し指を地面に突き付け結界を張る勝呂と、其の周辺で勝呂を守る様に襲い来る菌塊と対峙する燐とクロの姿があった。印を崩すなと指示を出すのは、結界を張る上で勝呂に力を貸している悪魔、伽樓羅だ。


「今からそれじゃあ後で倒れるぞ!」


目の前で音を立てて巨大化する胞子嚢に恐れる気持ちが無い筈もなく、焦りから苛立ちが起こり、つい口調もキツくなる。そんな勝呂を鞘に収まったままの降魔剣を振るいながら宥める燐だが、剣は変わらず抜ける気配は無く、燐は燐で現状に焦るのだ。


「…ぬ、ぅうおお!!まだ、まだァッ!!」


拡大し、破裂し、また膨れ上がって拡大する胞子。其の飛沫ですら驚異の一つなのだ。飛んで来る飛沫を降魔剣で弾き返すが、当たらず通り過ぎて後方、勝呂の目の前に落ちた飛沫の一部は、みるみるうちに膨れ上がって勝呂の眼前に迫る。


「…うっ、おっ、奥村!!」


結界を張る事に専念する勝呂には、目の前の菌塊に対抗する手段は無い。迫る其れに声を上げて助けを求めれば、目の前が一瞬にして黒に塗り潰されるのである。


「!!?熱っ!!!」


目の前が黒一色になったかと思えば、今度は鼻先を掠めた熱に思わず上擦った声が漏れた。チリチリと飛び散る火花、黒の正体が炎である事に気付き、目を見開く。菌塊を焼き尽くし、消えた炎の向こうでは、呆然と驚愕に目を見開く間抜けな顔をした燐の姿があった。


「頑張ってるじゃない」


一瞬、誰だか認識出来なかったのは、普段とは纏う雰囲気が違ったからかもしれない。漆黒の着物を纏い、抜刀した日本刀を握るが、勝呂には酷く遠く、そして高貴に感じたのだ。


「お前…!」

「此の結界、死んでも解かないでね」

「わ、判っとるわ!」


口角をやや吊り上げて、勝呂の前に立ち斬魄刀を一振りしたを後ろから見ていた勝呂は、の持つ斬魄刀の鈍色の刀身から黒い炎が走っている事に気付く。先程の菌塊を焼き尽くしたのはの能力なのだろう。


「其れが…お前のホンマの姿なんか?」


勝呂の問い掛けに顔だけを振り返らせたは噤んだ口を開く事は無かったが、表情は柔らかい。それは正に無言の肯定で、は正面に向き直ると迫っていた菌塊を斬魄刀を一振りする事で簡単に焼き払うのである。力強く、逞しい背中だった。自分よりも一回り程、小さい筈の背中が今はこんなにも勝呂の心に安心と余裕を与えるのだ。


《まさか竜士が“神”と知り合いだったとはな。珍しい存在を見た》


勝呂の耳元では伽樓羅が姿を現し、の背中を見つめて感嘆の声を漏らす。そして痛感させられるのだ、彼女は自分達とは違うのだと。燐と同じく人の姿をした全くの別物の存在。其れも慣れ親しんだ悪魔では無い。本来ならば目にする事すら出来ない筈の存在。“神”なのだと。けれど、けれど。勝呂にとってはは神なのだと、崇め讃える存在では無いなのだ。彼女もまた、燐と同じ様に。


!その格好どうしたんだよ!」

「死神らしいでしょ」

「死神って言えば、やっぱマントに斧だろ!」

だ!!》


襲い掛かる菌塊を相手にしながら、に気付いた燐が声を上げて目を丸くした。此の場にが居る事よりも、其の格好に注意が向くらしい。死神の姿を見せるのは初めてだったなとは笑ってまた斬魄刀を一振りして菌塊を焼き払う。一気に焼き払ってしまいたいところだが、直ぐ近くに燐や勝呂、クロが居るのだ。無差別に全てを焼く黒き炎を全力で放つ訳にもいかず、地道な手段しか取らない事に溜息すら漏れそうになるが、死神の姿に相応しくないと首を振った燐や、嬉しげに鳴くクロに、つい笑みが零れた。しかし、其の笑みは直ぐに引っ込む事になるのである。眼前に見えていた胞子嚢が大きく膨らみ、遂に内部から何かが弾けたようにして破裂したのだ。途端、吹く強烈な突風と瘴気。咄嗟に鼻と口を袖で庇うが酷い異臭に表情が歪む。瘴気の煙の中から見えたのは不浄王の本体と思われる大きく太った悪魔の姿だ。


「ぐわッ、くっせ!!」

「あ…あれが…不浄王の心臓か…!!」


鼻を摘んで異臭に悲鳴を上げる燐の隣で、勝呂が不浄王を見上げて言葉を詰まらせる。其れには成る程、と納得するのだ。


「(菌塊ばかりで本体が見当たらないと思ってたけど…胞子嚢の中に隠れてたとはね)」

「ゲホッ、ゴホッ、ゴホ………!!?ガハッ」

「おい!!大丈夫か…」


瘴気に当てられたのか急に酷く咳き込み嘔吐する勝呂。異変に気付き、燐とが振り返ったのは同時で、燐は勝呂へと駆け寄ろうと地を蹴り、そして其の背後に迫る大きな影に気付くのだ。


「勝呂!!!!」

「伽樓羅!!俺を守れ!!」

《…判った》


燐が勝呂に駆け付けるよりも早く、素早く勝呂は伽樓羅に指示を出し、反対の手の人差し指を地へと突き刺す。刹那、強い炎が勝呂を守る様に垂直に飛び立ち、炎の火柱が立つ。其の火柱に手を焼かれ、悲鳴を上げて後退る不浄王は、炎を嫌って勝呂に近付こうとしなくなった。


《何とか不浄王は退けたが竜士、この二重の構えはかなり体力を消耗する。覚悟しろ》

「勝呂!!大丈夫か!?」

「………!!」


空からは小さな粒の雨が降り出した。ぽつ、ぽつと降る雫は次第に服に染みを作り、肌を濡らす。遅れながら駆け寄った燐は、勝呂を取り囲む火柱に戸惑いを隠しきれずにいて、其の間にも絶えず襲ってくる菌塊は、とクロが追い払うのだ。


「な…何をしたんだ!?」

《…結界を少し切り崩して竜士の守護に使ったまでだ。術者が倒れてしまっては元も子もないからな。不浄王は生者の生気に惹き寄せられるが火の性質に弱い。これで暫くは寄りつかないだろう》

「そうか、じゃあ…」

「その代わり、この結界はあと十五分持つか判らん…」


両手に指を突き立て、二重に結界を維持する勝呂は珍しくも情けない声で、そう言った。あまりにも短いタイムリミットに目を見開いて燐は声を荒げるのである。


「十五分!?な…何でだよ!?」

「俺自身の体がもう限界なんや…正直、十五分も自信ない」


燐の問い掛けに、身体を震わせて勝呂は答える。強張った顔は俯くと、歪な笑みを浮かべ、其の顔が、燐の心を抉るのだ。


「…子猫も志摩も、結局間に合わへんかったな…。みんな無事やとええけどなあ」

「無事に決まってんだろ!!」


諦めたとでもいうように、後ろ向きな勝呂を咎める様に声をあげても、勝呂はもう燐の様に不浄王に対峙する気は無い。全てがもう、“勝てない”のだと勝呂に突き付けるのだ。


《りん!!》

「!」


勝呂と向かい合っていた燐の背後に忍び寄る不浄王。其れを逸早く捉えたのはクロで、クロは身を呈して燐を守ろうと力強く地を蹴り、飛び上がる。


「クロ!!やめろ構うな!!!」

《うわぁああ!!》

「クロォ!!!」


飛び付いた不浄王の手。標的は燐からクロへと移り、不浄王の菌がクロを包み、瞬く間にクロの身体は菌により繁殖した膨大な胞子に埋もれ、地に落ち横たわる。


「くっ…そ…こ…の、やろォおお!!!」


目の前でクロが己の代わりに犠牲となった。怒りに強く降魔剣を握り不浄王と対峙するも、刀身は鞘に収まったままで、ほんの少しですら姿を見せてくれようとはしない。降魔剣が抜けなければ燐の炎も封じられたままで微々たる炎しか出せない。そんな小さな炎では、何も救えないのだ。


「何でだ!!」


燐の悲鳴にも近い心の声が響き渡る。虚しく、其れは決して綺麗とは言い難い菌に侵され膨れ上がった胞子の中へと消えていく。酷い異臭は変わらず健在で、むしろ徐々に強まり、目の前には五体満足の不浄王。手の施しようが、無い。そんな現実に勝呂はそっと瞳を閉じた。


「もう終いやな」


呼吸の荒い勝呂の呟きにも似た言葉は、やけに騒がしい筈の戦場に良く響いて聞こえた様に感じられる。無言で、顔を振り返り勝呂を凝視する燐の顔に、表情は無い。


「俺の結界が持ってるうち…お前等は逃げや!!逃げて今から少しでも人を避難さすんや…!早よ…行きぃ、一分一秒も惜しいわ」


勝呂が諭す。現状で一番の手を選べと。自分を置き去りにし、此処から離れ、少しでも多くの命を守れと勝呂は燐に訴えた。燐は何も言えずに下唇を噛み締める。其れもそうだ、何も言えなくて当然なのだ。燐は今、炎が出せないのだから。何の役にも立てない。ただ悪魔が故に丈夫で少々の菌に侵されても身体には何の別状も無いだけで、ただ“此処にいる”だけなのだ。


「行け!!」


強く、勝呂は叫んだ。炎が出せず、出せない自分に苛立ち立ち尽くす燐の背中を後押しする様に、残った僅かな体力で腹の底からの声を上げたのだ。けれど、燐の足は変わらず其処から動こうとはしなくて、強く噛んでいた唇は薄く開かれ、乾いた音を漏らす。


「………あー…、あれ!何だっけ…。ああ、そうだ!!京都タワーだ!」


口籠った末に出て来た言葉は京都に建設されている観光スポット。突然の事に唖然とする勝呂は力無く燐を見上げ、燐は構わず両手を広げ、身体を菌塊に侵されながら、やけに明るく燐は言うのだ。


「俺、京都タワー登りてーんだ!明日、お前案内してくれ!!地元だし詳しいだろ?タワーなのに風呂あるらしーじゃん!スゲー気になる!皆も誘ったら来るかな!?」


無理に浮かべた笑顔は強張っており、其れでも燐は笑顔を維持し、勝呂に言う。此の状況で一体何を、そんな勝呂の思いが痛い程に伝わって来るから、何だか可笑しくては口元に笑みを零す。


「なので京都は無事じゃねーと正直困る」


だから燐は逃げない。


「皆が無事じゃねーと俺は困る」


勝呂を置いて此処から離れない。


「勝って帰るんだ」


不浄王に屈しない。どれだけ戦況が絶望的でも、心が折れる事は無いのだ。其れは未来だけを見つめ、強く強く願う故。


「な…んで……よりによって京都タワーやねん!!!!いっぺんも登った事ないわ!!ちぃーと恥ずかし思てるくらいや!京都、他に名所ぎょーさんあるやろ!!」

「俺、寺とかあんまし判んねーし、むしろオシャレスポットかと…」


今迄絶句していた勝呂は、途端声を荒げて燐の行きたいと言う場所に目をひん剥く。京都在住でなくても、京都に来たならば有名な寺を観光したいと言うだろうに、あえて其れらの寺を一切無視して京都タワーを選択する燐が、地元民である勝呂には理解を遥かに上回ったのだろう。教室や、学校で度々あったような光景のやり取り。しどろもどろになる燐に、張り上げた声を収めて勝呂は眼を細めた。勝呂の中で、全てが良くなった瞬間だった。


「あっはっはっは!!」

「!?すっ、勝呂サン…ど、どったの…?」

「あー…」


力無く声を漏らして空を仰ぎ見るが、結界越しに見える空は雨空で澱んでいて、決して綺麗とは言い難い。しかも鼻に付くのは木々の香りなんかでは無く、腐った酷い臭いだ。伽樓羅の炎に守られながら、小さな雨粒を全身に受けながら、勝呂は今迄で最も優しく柔らかい表情を見せるのである。


「もうええわ…どうでもええわ!お前のそのカラ元気に乗っかったるわ」


勝呂の目は死なない。先程まで浮かんでいた諦めの色も無い。其の瞳の奥に見えるのは強い芯。力強い視線と言葉は、真っ直ぐと燐に向けられて、燐の心を確実に射抜く。


「友達やしな」


何気無い言葉は、今迄友達らしい友達すらおらず一人で孤独で、更にサタンの息子である事に少なからず負い目を感じる燐に強く響いたに違いない。話はもう付いた様なもので、は斬魄刀を静かに持ち直すのだ。


「話は纏まった?」


一振りすれば、容赦無く焼き払われる菌塊。そして焼き焦げた臭い。黒き炎に包まれ、灰も残さず消える。全てを消し去る力を持った炎。の問い掛けに燐や勝呂の目がの背中に突き刺さる。其れを感じ取ったは、斬魄刀をゆるりと肩に担ぎ、振り返るのだ。


「忘れてるようだから言うけど」


振り返った拍子に、柔らかなの束ねた髪が、ふわりと舞う。絶望的戦況下、美しくない醜い景色を背景に佇む全身黒一色の姿は、異質で不釣り合いながら、絶対的存在感を放つ。


「今、此処に“誰”が刀を抜いて立ってると思ってるの」


不敵な其の微笑みが、やけに心強く感じるのは何故だろう。否、何故、なんて愚問なのだ。何故なら、彼女は。


「死神様をなめんじゃないよ」


神なのだから。


「奥村、


勝呂の覚悟が強固に決まる。地に突き刺した左手を解けば、眩い光を放って勝呂を囲んでいた火の結界が破かれた。


「お前らを信じる」


守護の結界を解き、此の辺り一帯の結界の持続に専念する勝呂は、不浄王からは丸腰の隙だらけの様なもので狙い易い。己の身を案じず、結果に集中する其の姿は、勝呂が燐やを信頼し、全てを託した事を示す。此の信頼を、期待を、裏切る訳にはいかないのだ。勝呂を守る結界が消えた事で襲いかかる不浄王に向かっては地を蹴り斬魄刀を構える。迫る腕を肩の接続部分から容赦無く切り落とせば、醜い悲鳴を上げて後退る不浄王を尻目には燐を見た。降魔剣を何としても鞘から抜こうと力任せに引く姿。刹那、鞘から姿を見せた鈍色の刀身。燐の身体から溢れる青い炎。に続き飛び出した燐は其のサタンの炎を纏った剣を力強く握り、不浄王の胴体に向かって横一直線に振るう。真っ二つに両断され、悲鳴を上げながら青い炎に焼かれる不浄王。しかし炎に焼かれながらも倒れる気配の無い不浄王は、まだまだ倒す決定打としては炎の火力が足りない事を示している。


「オン、シュリマリ、ママリ、マリシュシュリ、ソワカ!」

「シュラ!!」


勝呂に迫る菌塊を、突如現れたシュラが詠唱をもって焼き払う。シュラの姿を視界に捉え、燐が名を呼べば、魔剣を片手にシュラが勝呂の前に立ち、燐に向かって叫ぶのだ。


「勝呂はアタシに任せろ!もうあの化け物は素の人間に倒せる代物じゃない…お前に頼るしかないんだ。アタシと約束したろ」


霊子を固めた足場の上、宙に佇むはシュラや燐、勝呂を見下ろし、見守る。燐の炎の中で?く不浄王を尻目に追撃の為にと構えていた斬魄刀を下ろすと、は音も無くシュラの傍へと降り立った。


「獅郎がお前を生かした事が正しかったと証明してみせるって…証明してみせろ!!」

「………ああ!」


シュラに強く頷いて、燐は降魔剣を強く握る。シュラの背後には顔色が悪く呼吸の荒い勝呂がおり、勝呂もまた、シュラの様に燐を見ていた。


「頼むで」


小さく頷き、燐は再び不浄王へと向き直り、地を蹴る。離れた燐の背中を見届けながら、シュラは魔剣を地面に突き刺し、事の行く末を見守るに徹すると、誰に言う訳でも無く独り言を零すのだ。


「燐、あとお前に足りないのは自信だけだ。自分の居場所を自分で勝ち取れ…!」










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