日本の現代社会は問題だらけだ。少子高齢化、貧困格差、虐め、ブラック企業等々。アレもコレもと言い出すとキリが無い。兎に角全てに言えるのはとてもシビアな問題ばかりと言う事だ。誰もが一つは何かの問題に直面している事だろう。そして、社会人2年目に突入したも紛うことなき其の1人であった。


「ホント鬱陶しいんですよぉ、あのババア…」


白のブラウスに灰色のジャケットを羽織り、黒のスカートを履く明らかにOLの格好をした女はウイスキーを飲みながら若いバーテンダーに愚痴を零す。ロックグラスの中の大きな氷の塊がカラリと音を立てた。


「大体ねぇ、入金無いからって、なーーーんであたしがグチグチ文句言われなきゃなんないんですかあ?分かってんですよ、つまりあたしに先方に電話して確認取れって言ってきてるの。でもそれってさ、経理の仕事じゃないですかぁ?ババアの仕事じゃないですかぁ!唯の事務員のあたしがする仕事じゃないですよね、だってあたし経理じゃないですもん。なのに、そんな事しなきゃいけないわけ?ペチャクチャ喋ってる暇あるならお前自分でしろっつーの!」


グラスの中のウイスキーを一気飲み干してしまえば、ガンッと音を立ててグラスをテーブルの上に叩き付ける。途端、パリンッと音を立てて割れるグラスに中に入っていた拳サイズの氷がコロリと転がった。


「今日も荒れてますね、さん。愚痴るのは全然構わないんスけど出したグラスを片っ端から割るのやめて下さいよ。お店のグラス無くなっちゃいますって」

「割ろうとして割れてるんじゃ無いです!此のグラスが脆いんです、不良品です!!」

「いやそんな事無いと思う」


真っ赤な顔をして自分は悪く無いと言い張る彼女にバーテンダーは遠い目をした。酒豪の分類に入るであろう彼女は、開店時間の18時から入店し、22時の現在に至るまでの4時間、休む間も無く其れこそ浴びる様に酒を飲み続けている。其れも強い酒をロックで。そして毎回出した酒を飲み干すと全て一つ残らず割るのだ。先程の様にテーブルにグラスを置く衝撃でや、信じ難いがグラスを握り潰して等、其の破壊方法は多岐にわたる。


「相変わらずちゃんは馬鹿力ね」

「マスターも聞いてくださいよぉ!ババアだけじゃないんです、あの糞次男坊に今日はケツ触られてぇ!!」

「レディはケツなんて言っちゃダメだよ」


店の奥に控えていた中年のマスター(所謂オネエ)が微笑みを携えて現れたなら、は前のめりになって声を荒げる。どうやら未だ未だ愚痴は出て来るらしい。とてもじゃないが女性が口にする言葉では無い其れらをマスターは優しく咎めるが、は聞いていないのか全く気にせず続きを話すのである。


「言ったんですよぉ、セクハラですよって。そしたら何て言ったと思います?“たまたま当たっただけだよ、言われるまで気付かなかった”って鼻の下伸ばしてデレデレしながら言うんですよ。アイツ本気でマジで真剣にブン殴って良いですか?」

「うーん、ちゃんが殴ったら死んじゃうんじゃないかしら」


ケラケラと可笑しそうに笑うマスターの隣でバーテンダーは口元を引攣らせた。飲み過ぎで完全に酔っているは目が据わっており、本当に今、目の前に“糞次男坊”が現れたのならブン殴りそうな勢いだ。グラスを悉く割り続ける彼女の本気の拳等、どう考えたって一撃貰えば其れだけで致命傷に成り得る。全く洒落にならない。


「そんな会社、辞めちゃえば良いのに」

「此のご時世ですよぉ、再就職出来る自信なんか無いですぅ!!生まれてくる時代を間違えました」

「大丈夫よ、ちゃんなら直ぐに次の仕事見つけられるわ」

「むーりーでーすぅー!」


酔いの所為で少々呂律が回っていないは、そう言って打ちひしがれる様にテーブルに突っ伏した。無理無理無理、と頭を左右に振りながら、椅子に腰掛け宙に浮く足をブンブンと上下に振る。其の際に脱げて飛んだパンプスは、バーテンダーがしっかりと拾っての足に履かせるのである。其れに気付いたが顔を上げて「ありがとぉ」なんて言って、へにゃりと笑うとバーテンダーは困った様に笑った。勿体無いな、と思って。


ちゃんて本当に勿体無いわよね、すっごく可愛いのに酒癖悪いし、口も悪いし、男顔負けの馬鹿力だし」

「マスター。あたし褒められてます?其れとも貶されてます?」

「でもこんなに呑んでるのに意識だけは何時もちゃんとあるんだから吃驚だわ。普通泥酔するわよ、むしろ昏睡しても可笑しくないんじゃないかしら」

「こんなんじゃ泥酔なんてしませんよぅ」

「なんか本当にさんって色々異常っスね」

「何だとぉー!!」

「!!!?」

「あら大丈夫?救急車呼ぶ?」


笑いながら繰り出されたの張り手は聞いた事も無い様なとんでもない音を上げてバーテンダーの背中を直撃し、バーテンダーは声を上げる事すら出来ずに崩れ落ちて動かなくなった。そんな彼をマスターはカウンター越しに覗きながら笑っていると、は「マスター、おかわりくださあい」とテーブルの上に散乱する硝子の破片を手で端の方に寄せて酒をオーダーする。「危ないから破片は素手で触らないの」と注意をしながらマスターは手早く新しいロックグラスを手に取ると氷を入れ、注文通りウイスキーを注いだのなら「もう割らないでね」とに手渡すのである。


ちゃん。何時でも愚痴は聞くけど、あんまり無理しちゃ駄目よ。こんなに毎日お酒飲むくらい職場が辛いなら、もう辞めちゃいなさい。身体壊しちゃうわよ、アル中なんかじゃ収まらないかも」

「…其れはね、あたしも分かってんですよぉ。給料全部飲み代で消えちゃうんですもん…。仕事のストレスをお酒で解消してるのに、もうお酒を飲む為にストレスを貰いに仕事行ってるみたい」

「可笑しな話ね」

「あたしももう意味分かんないです」


マスターからロックグラスを受け取って、其れを僅かに傾けたならカラリとグラスの中の氷が音を立てた。ジャズの音楽が流れるバーの中で、やけに其の音がの耳に残る。グラスに口を付けて一気飲み干してしまえば喉がカッと熱くなった。静かに氷だけとなったロックグラスをテーブルに置けば、無傷の其れにマスターは満足気に微笑む。


「今日はこれで帰ります」

「これでって言うけれど何時間此処で呑んでたと思ってるの?」

「えへへ。多分また明日来ます」

「来ない事を祈るわ」


来ない事を祈るだなんて客に言うことじゃないが、其れはの身体を心配してから出てきた言葉と分かっている。隣の椅子に置いていた鞄を手に取り、財布から少し多めに御札を取り出しテーブルに置いた。酒代と割ってしまったグラスの弁償代だ。


「…ふー、きもちー」


バーを出て外に出ると冷たい夜風が吹いて其の気持ち良さに目を瞑る。足取りは少し覚束無いが全然歩ける程度のもので、明日も平日な事から人の少ない夜道をは歩いた。大学を卒業後、就職を機に地元である池袋を離れたのは1年前の事。友人や親戚と離れた事は寂しいが、其れでも自ら望んで就職先を池袋の外に選び、こうして出て来たのは池袋に居たくなかったからに他ならない。


「―――、ふ、」


視界が歪み、静かに頬を伝う生暖かい雫。込み上げて来る声を何とか抑え込んだ。池袋には色んな思い出がある。良い思い出も、悪い思い出も。は乱暴に涙を手の甲で拭った。化粧が崩れるなんて、どうだって良かった。何せ後は家に帰るだけなのだから。けれど、どうしても激しく湧き起こる感情を抑えきる事が出来なくて道の小脇にあった誰かが捨てていった空き缶を手に取った。


「くそったれーーーーー!!!」


そして大きく振りかぶり、投げた。豪速球で跳ぶ其れは瞬く間に闇の中へと消えて行き、何かに激突した音を響かせた。其の音は決して可愛らしいものでは無い。まるで速度を出した車と車が正面衝突でもしたかの様な、激しい音だった。


「…明日仕事行きたくないなぁ」


ポツリ、呟いた独り言は想像以上に情け無いものだった。あんなパワハラとセクハラ、もう我慢したくない。働きたくない。家でゆっくり静かに過ごしたい。けれど働かなければ生活出来ず、生活の為、結局あの職場に働きに行かなければならないのだ。仮に退職したとしても直ぐに仕事が見つかるかなんて分からない。面接に行く時に持参する履歴書の職歴には勤続年数1年という良い印象が持てない数字を書かなければならない。そもそも良い大学を出ても就職先が決まらずにアルバイトをしている同級生も居たのだから、正社員として雇用して貰えた此の環境は幸せなのかもしれない。全く幸せとは思えないけれど。むしろ不幸とですら思える。


「はー…明日なんか来なければ良いのに…」


重い重い溜息が溢れ、明日になるのが嫌で完全に気分は落ち込む。あんなに呑んだ筈なのに、すっかり酔いは覚めていた。









君は情のヘラ









「う…う゛ぅ゛…」


帰路を歩いていたは、其の道の先で呻き声を上げながら倒れている人影を見つけた。何事かと様子を窺いながら近寄れば、サラリーマンと思わしき中年の男は後頭部を強打したのか、其の部位を抑えて苦しそうな声を上げている。其の近くに転がる空き缶がやけに見覚えがあって、むしろありすぎて。は慌てて「大丈夫ですか!?」と男に駆け寄るのだ。









NEXT
inserted by FC2 system