紙を捲る音、マウスのボタンを押す音、キーボードを叩く音。静かな事務所でそんな無機質な音が彼方此方で聞こえる中、は今日も小言を頂いていた。


さん、何度言ったら分かるの」

「すみません」

「すみませんじゃないわよ、謝ったら済むとでも思ってるの?」


米花町に事務所を構える御堂建設株式会社。社名の通り建設業を営む地域密着型の中小企業の事務員としては正社員として雇用されていた。社長である御堂慶一郎が今から40年前に立ち上げた会社であり、経理は全て彼の妻である晶子が任されている。御堂夫妻の間には三人の息子が居り、息子達も此の会社の社員で三人共部長という役職持ちだった。所謂家族経営の会社である。


「大体、さんヤル気あるの?一昨日頼んだ大平邸の請求書控え未だ出してくれてないわよね。昨日言ってた楠原邸改修工事の入金確認してくれた?どうせ未だなんでしょう」

「大平邸の請求書控えがどうしても見つからなくて…。楠原さんは電話に出られなくて未だ話せてません」

「言い訳する暇あるなら他の事務の子に聞くなり、電話かけ直すなり、何なりしなさいよ」


晶子は強くを睨みつけながら盛大に嫌味ったらしく溜息を吐いた。何なりしなさいと言う晶子だが、からすればストレス発散の捌け口にを選び、今も拘束しているのは誰なんだと言いたい。晶子は所謂短気な人間で、良く社長で夫である慶一郎に苛立っている様だった。其れが仕事絡みなのか、家庭絡みなのかまでは分からないが、兎に角二人は良く些細な事から口喧嘩をし、事務所内を嫌な空気にするのだ。


「ホント使えないわね!」


あっちいけと言わんばかりに手を振って舌打ちまでする晶子には拳を強く握って「失礼します」と頭を下げて自分のデスクに戻る。今日が偶々、が晶子の犠牲者になった訳では無い。ここ最近、晶子は八つ当たりをする相手をに絞っていた。ほんの少しの些細なミスを大袈裟に且つ事務所に居る皆に聞こえる様な大声で非難し、逆に大した事をしていない他の事務員をの目の前で過剰な程に褒めて褒めて褒めちぎる。パワハラでしかない晶子の言動は着実ににストレスを溜め込ませていた。


「まあまあ母さん、あんまりさんを悪く言わないであげてくれよ」

「浩二には関係ないでしょ」

「関係無くは無いだろ?同じ会社で働いてるんだからさ。其れに彼女は良くやってくれてるよ、なぁ?」

「………。」


デスクに戻り、仕事に意識を切り替えて何とか自身の怒りを抑えるに救世主が現れた。訳では無い。浩二と呼ばれた晶子の次男にあたる息子が下心丸出しの顔での背後に現れ肩に触れた。卑しい手付きでの肩を撫でる浩二にますます晶子は苛立った様子で眉を吊り上げる。自分の息子が気に入らない娘の肩を持つのが気に食わないらしい。要らぬ事をしやがって。は人知れず奥歯を噛み締めた。奥歯がミシリと軋む。


「…調子に乗るんじゃ無いわよ」


パワハラに続き次男坊に依るセクハラ。其れだけでもう十分過ぎる程だったのに、小さな声で吐き捨てる様に聞こえてきた晶子の敵意思った言葉に最後の砦が崩落する。調子に乗るな、お前が。


「………い」

「はぁ?」


ゆらり、音も無く立ち上がったの顔は俯いていて見えない。其の際、何かを言った様だが、其の声は誰の耳にも届かず、晶子は明らかに苛立った声で言うのだ。一触即発の空気に様子を窺う事しか出来ずにいた事務所に居る面々が不味いと息を静かに飲む。そして身構えるのだ、此れから爆発するであろう晶子の罵声に。


「言いたい事があるなら言ってみなさ」


晶子の頬を掠めて飛んで行き、目にも留まらぬ速さで窓を突き破り、激突音。其の激突地点に通行人でも居たのか女性の悲鳴や、男性の騒ぐ声が微かに聞こえる。誰が小さく漏らした「嘘…」と動揺した言葉。晶子は信じ難い今し方目にした光景に己の背後をゆっくりと振り返り目視した。大きな窓が其処には変わらずあるのに、硝子は殆ど残っておらず大穴が空いている。そして再び視線は正面へ。先ず目に入ったのは困惑と動揺と恐怖に怯えた浩二が腰を抜かして尻餅を着いている姿。其の現状を作り、社員達全ての視線の先に居るのがである。の足元には書類やパソコン、電話機等、デスクの上にあった筈の物が無残にも散らばっていた。そう、は“デスクを投げ飛ばした”のだ。其れも信じ難い事に片腕で軽々と。


「うざい」

「ひっ…!」

「うざいうざいうざいうざいうざい、ババアも糞次男坊も。全部うざい!!」

「うわあああ!!!」


湧き起こる感情を抑えられず、ずっと溜め込んでいた感情を怒りのままに吐き出した。叫ぶ様に吐露すれば、一番の近くに居た浩二が悲鳴を上げて逃げ出す。其れを引き金に事務員達は一斉に悲鳴を上げて立ち上がり逃げ出せば事務所内は一瞬にしてパニック状態に陥るのだ。


「…あ」


其の惨劇とも言える光景に我に帰っただったが全てがもう遅い。身体を震えさせて青褪める晶子が力強くデスクを叩いて立ち上がれば、唾を飛ばしながら叫ぶのだ。


「今日付けでさん!貴女を解雇します!!出て行きなさい!!」


其れは所謂終止符。は床に落ちて居た鞄を手に取ると黙って事務所を後にする。何でもない筈の水曜日、午前10時48分の事だった。





















米花町にある高層マンション、其処には住んで居た。高層マンションの上階、辺りを一望出来る景色の良い所に住むのが夢だったからだ。米花町で就職が決まってから始まった賃貸物件選び、某有名不動産屋に訪れ、予め伝えていた条件の合う物件の資料を出してくれたが、一切其れには目もくれず、壁に貼られていた物件に目を奪われた。条件は悪い所か良い、ただ家賃が希望額より高いだけ。割と新築の高層マンション、大きな窓が特徴的で広いバルコニー。広々とした間取りはファミリー向けとも言える。一目惚れだった。此処に住みたいと強く思い、此処にすると告げた時は店員に驚かれたものだ。家賃の高さを心配され、本当に良いのかと何度も確認されたが、は揺らぐ事なく契約書に判を押したのだ。


「無職…ふふ…無職………ニートかぁ…あたしが…」


込み上げてくる笑いを抑えもせず、は広い部屋の中、笑い続け項垂れた。此の部屋をとても気に入っていた。好みの家具を少しずつ買い揃え、やっと半年前に完成した我が家。貯金をする余裕が無いのは家賃の負担は当然の事、此処最近は会社のストレスを発散すべく通っていたバーでの飲み代の所為。此の家に住み続ける為にパワハラやセクハラにも耐え続けていたのに、今日遂に全てが駄目になってしまった。


「仕事探さなきゃなぁ…仕事…就職出来るのかなぁ…えへへ、出来る気しないわー」


ぐびっと一升瓶を口に付けて煽り飲む。追い出される様に解雇されて家に帰ってきたが最初に取った行動は次の就職先を探す事では無く、真昼間から自棄酒を始める事だった。床には空になった一升瓶が二本転がっている。完全に出来上がったはつまみのスルメイカを頬張りながら、また笑うのだ。


「あはは、笑えるー。23歳無職、独身、彼氏無し。人生どん底じゃない?もうあたしヤバくない?…そもそもあのババアと糞次男坊が悪いんだって…アイツらが居なきゃさああああ」


ガンッと一升瓶を握っていない方の手に拳を作り、テーブルの上に叩き付ける。完全に表情から笑みが消え、ゆらりと立ち上がる。覚束ない足取りでふらふらとリビングを歩く様は、外なら「大丈夫ですか?」と声を掛けられても可笑しくは無い。


「うざいうざいうざいうざいうざいうざい…あ゛ぁ゛ーーー!!!」


一升瓶を煽り、勢いのままに拳を突き出す。刹那、ドゴッと強烈な破壊音と共に崩れ落ちる壁。しまった、とが気付いた頃には壁には力士一人は余裕で通れる位の大穴が開いており、隣人と思わしきやけに整った顔立ちの男性が目を見開いて此方を見ていた。


「…こ、こんにちは…」

「…こんにちは」


え、えへ、なんて笑みを浮かべているか確実に引き攣っているのをは自覚していた。突然破壊された壁、其の向こうに見える顔を真っ赤にして酒を煽る女に隣人はどう思っただろう。丁度昼食中だったのかダイニングテーブルで食事をしていた男性は何とか絞り出したの挨拶に辛うじて答えたが、完全に止まってしまっている箸は、焼き魚に伸ばされているが掴む事は無い。何だかんだ隣人と顔合わせた事の無かった両者にとって、此れが初めての顔合わせである。









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