は待っていた。正座をし、両手は膝の上に置いて、隣人の部屋に繋がるタオルの前で、じっと静かに待っていた。鍵を開ける音、続いた扉が開く音が隣人の帰宅を知らせる。刹那、は声をタオルに向かった投げ掛けるのだ。


「安室さん安室さん、何であんな不審者の格好してたんですか!」

「後をつけられてたんで一応顔を隠していたんですよ」

「え、ストーカーされてるんですか?」

「ストーカーでは無いですよ」

「あとウインク格好良かったです!凄いですね、あたしウインク出来ないんですよ。なんかぐしゃってなって半目になるんです」

「ありがとう。練習したら多分出来るようになりますよ」

「今日から練習してみます!」


どうもタオルに向かって前のめりになってしまうのは興奮しているからだろうか。芸能人や友人達の写真で度々見かけるウインク。自分もと、ひっそりと鏡の前で挑戦した事があるが両目は連動しているのかどうも目と目の間には力が入って皺が寄るし、ウインクをしていない方は半目になってしまう。歪で全く可愛くないウインクに諦めたのはもう何年も前の事だが、これから毎日練習する事を決めた。何かの役に立つかは分からないが出来るのなら出来る様になりたい。


「あの人、彼女ですか?」

「いや?彼女は僕の依頼人ですよ」

「あ、お仕事中だったんですか」

「そういう事です」


次いで気になって尋ねたのは一緒に歩いていた女性。少々安室は不審者の装いだったが、安室の容姿を知っているからすれば美男美女と二人はとてもお似合いだと思う。恋人なんだろうと思って尋ねてはみたものの、タオルの向こうから帰ってきたのは恋人ではなく依頼人であった事が判明した。彼女は何かに悩み、安室に救いを求めたのだろう、あの強張った表情は其の為か。安室の言う後をつけられていたのは彼女の方かもしれない。美しい人にはストーカーの一人や二人居ても可笑しくないんだろうな、ストーカーなんかされて怖いだろうな、そんな事を考えてはひっそり眉を下げる。過去に一度もストーカーをされた事のないからすれば、ストーカーの恐ろしさは想像出来る範囲のものでしか無いのだ。が問い掛け、安室が答える。そんな会話の最中訪れた一瞬の間。打ち破ったのは安室の方だった。


「そういえば今度僕が短期でアルバイトをするレストランのウェイターが人手が足りないみたいですよ。さんも働きます?」

「働きます!」

「相変わらず返事が早いですね」

「もうほんと働けるなら何処でも良いです!」


明日店長に伝えておきますね、と聞こえてきた声は笑っている様にも聞こえては深々と頭を下げた。バイトにしろ、仕事を貰えるのは兎に角有り難い。にとっての安室の位置付は救世主、そのものだった。


「なんか変な感じですね、タオル越しで話すのは」

「実はあたしもそう思ってました」

「こっちに来ます?」

「お邪魔じゃないなら!」

「ならどうぞ」


安室の承諾を得てからは立ち上がり暖簾を潜るかの様にタオルを捲って隣の部屋へ。昼間に見たフード付きのパーカーを着る安室は丁度エプロンを手に取ってキッチンに立とうとしていた。慣れた様子で冷蔵庫の中から食材を取り出し、夕食の準備を始めた安室をは完璧だと思う。容姿が整い、掃除も行き届き、料理も出来る。もし安室が女性だったのなら良い妻になるだろう。嫁に貰う男も幸せに違いない。となると気になるのは安室の女の影だ。ダイニングテーブルに備え付けられた椅子に腰掛けてはキッチンに立つ安室に問い掛けるのである。


「安室さん、彼女居ないんですか?」

「そうですよ。意外ですか?」

「意外ですよ!イケメンなのに!」

「そういうさんは彼氏居ないんですか?」


まるで若い女の恋話の様な会話に、安室は咄嗟に切り返した言葉を瞬時に後悔した。其れがにとって地雷になりゆる言葉だったからである。浮かべていた笑みを一瞬にして硬直させた後、むくれた様にそっぽ向いたは吐き捨てる様に言った。


「もう恋愛は良いです、懲り懲りです。仕事に生きる事にしました、今は無職ですけど」

「そうですか…」


感情の起伏が激しい彼女だから、また暴れるんじゃ。なんて安室の心配は杞憂に終わる。ちょっとの事じゃ池袋で目の当たりにした様な怒り方はしないらしい。


「お節介だと思いますが」

「?」


だからか、安室は思わず口にするのだ。5年も前に別れた元彼である彼に向ける怒りは、未だに彼を許せずにいる証拠。恋愛はもう要らないという彼女は明らかに彼を引き摺っている。自分よりも年下な彼女が、自分の未来をそんな過去の男の所為で狭めてしまうのは勿体無いと思った。


「前の彼氏さんと、どんな別れ方をしたのか知りませんが、其れで決め付けるのは良くないと思います。其れこそ僕は男の数だけ全部違う恋愛があると思ってるんで」

「そりゃそうですけど…」

「だから今はそう思ってても、いつかまた誰かを好きになってみると良いかもしれませんよ。彼女の居ない僕が言っても説得力はないでしょうけどね」


勿論安室は自身の意見を強要する訳ではない。の人生はあくまでのものであり、どうするのか、どう生きるかは彼女自身が決める事だ。けれど、もしほんの少しでも納得する部分があるのなら頭の片隅にも此の事を記憶しておいて欲しいとも思う。最後には笑って言いたい事は全部言えば安室は手元の肉に視線を落とした。握った包丁をスライスさせて一口サイズに切っていく。


「…怖いんです」

「怖い?」

「はい。怖いんです」


徐に零したの言葉を拾って、安室は肉から再び視線をへ。其の表情は何処か寂しげにも見えた。


「昨日池袋に居た黒いコートを着た人、覚えてますか?」

「ええ。折原臨也さん、でしたよね?」

「はい。臨也は中学から一緒で、中2の7月…夏休みに入る前にあたしから告白して付き合ったんです。初めて告白なんてしたし、凄い緊張したんですけど、付き合える事になって凄く嬉しかったです」


池袋で見かけた眉目秀麗という言葉を具現化したような痩身の男の顔が安室の脳裏に過る。今まで見てきた中で恐らく最も整った顔立ちをしている彼。過去の記憶を語るの頭の中にも、きっと彼の顔が浮かんでいるのだろう。


「其れからずっと付き合ってました、特別恋人らしい事なんて殆どしてなかったですけど。其れでもあたし、臨也が好きだったから一緒に居られるだけで良かったんです。なのに高校の卒業式の日にね、いきなりフラれたんですよ。理由を聞いたら“飽きたし用済みだから”って…」


寂しげな表情が、更に曇って歪になる。嗚呼、これは。安室は素早く危険を察知した。


「静雄も高校一緒だったんですけど入学してから直ぐ臨也と静雄は仲が悪くて何時も喧嘩してました。あたしと静雄が従兄妹で仲良いのを知ってたから臨也は静雄に嫌がらせする為だけに、ずっとあたしと別れないで付き合ってたんです。だから卒業したら会う事なくなるから付き合っとく必要ないって…そんな、そんな事ってありますか!?」


其の瞳には怒りに満ち、テーブルの上で強く握られた拳が行き場を探している様に見える。今度こそ地雷だった。


「ふとした時に思い出すんです、ニヤニヤ笑いながら、もう要らないって言った臨也の顔が!!」

さん、少し落ち着きましょう」


震える拳を僅かに持ち上げ、声を荒げたを止める様に安室は素早く、けれど穏やかに言う。彼女の手にかかれば木製のテーブルなど簡単に真っ二つに出来るに違いない。彼女も安室の言葉に己の状態に気付いたのなら、はっと我に返っては握ってきた拳を開き、瞳から怒りの色を消して俯くのだ。


「すみません…取り乱しました…」

「何も壊れてないんで大丈夫ですよ」


カットした肉に下味を付けてから手を洗い、安室は冷蔵庫の中は一口サイズのチョコレートを取り出す。こういう時は甘いもの食べて幸せな気持ちになりましょう、そんな言葉を掛けながらの目の前にチョコレートを置けば、は目を丸くしつつも僅かに笑みを浮かべてチョコレートを手に取った。


「安室さん、本当に良い人ですね」

「そんな事ありませんよ」

「そんな事ありますよ!壁に穴開けた時も怒らなかったですし、バイト紹介してくれましたし、今もチョコくれました」


壁に穴を開けた時は怒鳴られる覚悟はしていたのに結局愚痴まで聞いてくれ、池袋についていくバイトは何だかんだ夕食まで御馳走になり、昔の事を思い出して腹を立ててたらそっとチョコをくれて気分転換させてくれた。優しくて親切で気が利いて、こんな良い人はきっと他に居ない。


「安室さんみたいな優しい人なら好きになっても良いです」

「え?」


口に入れたチョコレートを舌の上で転がすと直ぐに溶け出して甘さが広がり幸せな気持ちになる。チョコレートに夢中になっていたは、目を丸くして驚く安室には気付かなかった。チョコレートが溶けて無くなった頃には安室も元の表情に戻っていて、は両手を合わせて「ご馳走様でした」と笑うのだ。


「そういえば安室さん、何歳なんですか?」

「29ですよ」

「大人!若く見えますね、6つも年上に見えない…。若さの秘訣って何ですか?」

「何でしょう…?強いて言うなら規則正しい生活と栄養バランスを考えた食生活でしょうか?」

「やっぱ野菜大事ですか」

「そうですね。嫌いなんですか?野菜」

「嫌いじゃないんですけど野菜よりお肉が好きです!」

「それは気付いてました」

「気付かれてましたか!」


想像以上に年上だった安室の実年齢に驚きつつ、は直ぐに身を乗り出して安室に若さの秘訣を問う。年々、肌荒れは気になるし、顔も老けてきた様に感じる今日この頃。何時迄も若々しくいたいのは世の女性なら皆等しく思っている筈だ。悩んだ末に答えた安室の回答は、当たり前とも言える様な内容だったが、そんな些細な気遣いがやはり後に大きな影響を与えるのだなとは納得するのである。素直な反応を見せるに安室はにこりと微笑んだ。


さん、夕食はもう食べましたか?」

「未だです。ていうか、節約とダイエット兼ねて晩御飯は食べない事にしました」

「駄目ですよ、ちゃんと食べないと。有り合わせで良いなら食べますか?」

「頂きます!」


何気なく、他意はなく、安室は気紛れでを夕食を終えた後か尋ねれば、返って来たのは何となく想像していた通りのもの。何せ今は未だ夕方の6時なのだから。夕食は未だな上、そもそも食べないというに呆れて笑ってしまったのは、今し方、規則正しい生活と栄養バランスを考えた食事と言ったばかりだったから。一人分ぐらいな大したことは無いと思い誘えば、満面の笑みで元気よく返事をした彼女に安室はキッチンに戻るのだ。


「この恩は必ず…!」

「気長に待ってます」


まるで神を崇める様に手を合わせて頭を下げてくるが可笑しくて、安室は先程カットした肉を火をつけたフライパンの上に乗せながら笑った。









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