良い匂いがした。香ばしい匂いに、油の跳ねる音も聞こえる。落ちていた意識がゆっくりと浮上しては目覚めた。目を開けるとラグとローテーブルの足、テレビボードが見えて、いつの間にか寝てしまったんだなと悟った。目を擦りながら起き上がればずれ落ちるブランケット。


「おはようございます」

「…おはようございます…」


掛け時計に目をやれば時刻は朝の8時。最後に時計を見た時は5時だったので、睡眠時間は3時間程だろう。キッチンに立つ安室が朝に相応しい爽やかな笑顔で、は掠れた声で軽く頭を下げた。


「安室さん、朝からスッキリした顔ですね…」

「寝起きは良い方なので」

「そうですか…。あ、ブランケットありがとうございます」

「いえ。ベッドに運ぼうかと思ったんですが起こしてしまうのも、女性の部屋に勝手に入るのもどうかと思いまして」

「大丈夫です、雑魚寝慣れてるんで」


役目を終えたブランケットを丁寧に畳み、ソファーに置けばは両腕を天井に向けて背筋を伸ばす。その後で軽く手櫛で髪を整えると、ふとローテーブルに視線をやった。相当飲み荒らした筈なのに使用したグラスや空になったボトルは勿論、未開封の酒やつまみ、コップを置いた跡すら残っていない綺麗に片付けられたテーブル。床に散らばっていたであろうDVDすらも片付けられていて、レンタル時にDVDが入っていた袋は部屋の片隅にあり、其処に未開封のつまみが置かれていた。部屋にお邪魔し飲みに付き合わせた挙句、片付けまで一人でさせた事に最早罪悪感など湧かず、安室に唯々感動するのだ。出来た人間過ぎて何も言葉が無い。


「丁度朝食が出来たんですが食べれますか?」

「頂いて良いんですか?」

「ええ、勿論」

「なんて素敵なサービス…頂きます」


しかも朝食付きの展開に、は素早く立ち上がり、今まで抱いていた僅かながらあった女としてのプライドを捨てた。安室には徹底的に甘える事を今この瞬間決意したのだ。テーブルの上に並んだこんがり焼けたトーストに、半熟の目玉焼きにベーコン。添えられたパリッと音を立てそうなレタスとトマト。なんて絵に描いた様な朝食なんだと感動しながらトーストを手に取って齧り付く。サクッと音を立てたトーストは、普段自分が食べてるものより遥かに美味しく感じた。


「…おいし」

「良かったです」

「安室さん、あたしのお嫁さんになって下さい」

「それはちょっと…」

「残念です」


苦笑いする安室に見向きもせずに並べられた朝食を夢中で食べた。安室はもう先に食べたのかエプロンを外し、食器はシンクに置いてて下さいと告げれば、身支度を始めるのだ。


「僕はもう出ますね」

「はい。頑張って下さい!あたしも食べ終わったら部屋に戻ります」


にこりと笑ってスマートフォンや財布といった貴重品をズボンのポケットにいれたのなら、玄関へ向かった安室に、いってらっしゃいと手を振れば、いってきますと返って来る笑み。


「折角早起きしたんだし、散歩がてらDVD返しに行こっかなー」


部屋の主人が出て行った扉が閉じるのを見守って、香ばしいベーコンを齧りながら一人呟く。フォークで半分に目玉焼きを破れば、とろりと黄身が溢れ出した。其れを掬って全て綺麗に平らげたなら、食器をシンクへと運び、水で軽く洗い流しておく。部屋の片隅に置かれたDVDの入った袋とつまみを抱えて自分の部屋に戻ったなら、つまみをテーブルに置いてシャワーへと向かった。一先ず先に風呂である。



















『―――♪♪――♪♪♪♪』


スマートフォンに挿したイヤホンから流れる音楽は、少し前に好きなアーティストが出した新曲だ。アップテンポの其れに合わせて足取りは軽く、今にも鼻歌を歌いそうになる。DVDの入った袋と鞄をぶら下げ見慣れた道を歩いていた時だった。


「―――!!」

「―――――!!!」


前から走ってくる男と、其の後ろを必死に追い掛ける老婆。擦れ違う人々が戸惑いながら見送っており、其れなりの音量で音楽を聴いているにも関わらず聞こえる人の声。気になって何気なくイヤホンを外したなら、聞き取れずにいた声が、はっきりと聞こえた。


「ひったくりよ!!誰か止めて!!!」


老婆が掠れた声で叫ぶ。走る男の手には男には似付かわしくない小さな鞄があり、どうやら男はひったくりをして逃走の最中らしい。誰も男を止めようとしないのは、急な事に対応出来ないからなのかもしれないが、其れでも誰も動こうとしない現実に呆れてしまう。男がの真横を通る瞬間、さり気無く足を出して意図的に男の足を引っ掛けたなら、全速力で走っていた男は勢い良く顔面から路上にキスをする。地面を転がる鞄を拾えば、男は顔を抑えて呻きながら鞄を諦めて路地へと入り逃走するのだ。


「ありがとう…!助かったわ…!」

「いえいえ、大丈夫ですか?」

「ええ…!貴女のおかげだわ。本当にありがとう」


息を切らして駆けて来た老婆に微笑んで鞄を渡せば、大事そうに両腕で抱える老婆は何度も頭を下げて去って行く。良い事をした後は何だか気持ちが良いもので、自然と表情は和らいだ。先を進む足取りが軽いのはきっと気の所為では無いに違いない。


さん」

「あ、沖矢さん。こんにちは」

「こんにちは」


不意に正面から歩いてくる人物に見覚えがあり、は笑みを浮かべて軽く手を振る。にこやかに挨拶を返してくれた彼は昨夜の事故の時にも居た沖矢だった。


「お出掛けですか?」

「はい。って言っても借りてたDVDを返しに行くだけですけど」

「そうだったんですか」


レンタルショップの袋を一瞥すれば、納得した様に沖矢は微笑む。そして、そうだ、なんて手持ちの紙袋を掲げると、見覚えのある袋に書かれたロゴには、あ!と声を上げるのだ。


「丁度美味しいと評判のケーキを買って来たところなんですが、一緒に如何です?」

「それ!ミミのケーキですか!?」

「はい。ご存知でしたか」

「勿論!ミミっていつも開店から大行列なのに!」

「今日は空いてましたよ」


少し前に米花町にオープンしたばかりのケーキ屋は、オープンした日から訪れる客が多く、日に日に客を増やしていき、今では大行列が出来るのは当たり前の超人気店だ。勿論もオープン前から気になってはいたのだが、其の人気っぷりから閉店前にケーキが全て完売してしまう事も有り、仕事帰りに寄っても売り切れ、仕事を辞めてからは金欠でそもそも買えずに今日この日まで来ていたのである。


「ほ、ほんとに食べていいんですか?」

「ええ。つい買い過ぎてしまって。一人じゃ食べきれないので困っていたんですよ」

「なら是非!」


目の前にある紙袋から目が離せず、頬に熱が集まった。今日程、興奮が収まらなかった事は無い。近くに沖矢の住まいがあるとの事で、お邪魔してケーキを食べる事になり、沖矢の隣に並んでは締りの無い笑みを浮かべて歩く。


「ミミのケーキ、いつか食べたいとは思ってたんです!まさか今日食べれるなんて…!」

「甘い物が好きなんですね」

「大体の女子は好きですよ!」


早く食べたい!後もう少し辛抱して下さい。そんなやり取りをしながら暫く歩いて入れば住宅地へと入り、自然と周囲は静かになった。平日の真昼間は子供は学校、大人は仕事で殆どの人間が自宅を離れているからだ。そんな静かな道を歩いて入れば視界に大きな家が入り、金持ちいいなぁ、なんて呑気にが思っていた時である。









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