「此処です」 「えっ、でっか!!」 「どうぞ」 眺めていた金持ちの家の隣にある、これまた大きな金持ちの家を指さす沖矢に思わずは大きな声を上げた。慣れた手付きで門を開ける沖矢に、金持ちだったんだ、なんて思いながら後を続こうとするのだが、偶々目に付いた表札に首を傾げるのである。 「表札、工藤ってなってますけど…」 「此処に住ませて貰ってるんです」 「成る程、そういう事ですか」 つまり工藤宅に沖矢は居候しているらしく、沖矢自身は此の家の持ち主では無いらしい。門を通り、促されるまま玄関へと入れば、内装は気品溢れる作りで、豪邸の様な家に足を踏み入れるのに少しの抵抗が生まれる。そして何より、を絶句させたのは外観から予想はついていたものの、想像以上の広さの室内だった。 「掃除大変そう…」 「掛けて待っていて下さい。珈琲と紅茶、どちらにしますか?」 「じゃあ珈琲でお願いします」 「分かりました。少し待っていて下さい」 沖矢に案内されて行き着いたリビングで、はソファーに腰掛けながらキッチンで飲み物を用意する沖矢の背中を眺める。程なくして珈琲を2つ持ってテーブルに置いた沖矢は紙袋の中から箱を取り出すと、蓋を開けて中をに見せる様にテーブルの中央へと寄せたなら、は其の中を覗き込んで小さな悲鳴をあげるのである。夢にまで見たケーキは想像以上の美しい見た目をしており、どれもこれも美味しそうで涎が出た。がケーキを見つめている間に食器棚から小さな皿とフォークを2つずつ持って戻って来た沖矢は、の正面のソファーに座るのだ。 「どれにしますか?」 「えええ…悩む………じゃあこれで!」 一番端の苺のフロマージュを指差せば、其れを小皿に取り分けてフォークを添えて手渡される。其れを深々と頭を下げて受け取れば、沖矢はレアチーズケーキを小皿へと移し、二人は同時にフォークを使い一口サイズに切ったケーキを口の中へ。口腔内に広がる甘味と酸味に自然との表情は緩み、背筋をピンと伸ばしたのなら震える手でフォークを握り締めながら仰け反るのだ。 「美味あああ…」 「美味しいですね」 「幸せです」 食べるのが勿体無いです!なんて言いながらフォークを突き刺してまた口の中へ。悶絶の勢いで歓喜するを微笑ましく見つめていた沖矢は、一旦フォークを置いて珈琲に口を付けた。 「さんは隣人の彼と親しいんですか?」 「安室さんのことですか?」 「ええ」 「んー…あたしは仲良いと思ってますよ」 友達だと思ってるのはあたしだけかもですけど。と付け足しながら、も珈琲に口を付ける。口の中で広がる苦味は、甘いケーキには最上級の相性で、甘い物には珈琲に限るなぁ、なんて思いながら、またフォークをケーキに突き刺すのだ。 「バーボン」 「え?」 不意に沖矢が口にした言葉にはケーキから視線を上げた。交差する視線。沖矢は僅かに口角を吊り上げると静かにテーブルの上へ珈琲を置くのだ。 「お好きですか?バーボン」 「好きですよ!むしろお酒全般大好きです」 「昨日も結構飲んでいた様でしたね」 「人生で一番飲みました」 店を潰す勢いで、其れこそ浴びるように酒を呑んだ昨日。あの後も安室の部屋で飲み明かしたなんて言えば、いつも笑みを崩さない沖矢はどんな顔をするのだろう、なんて考えた。何となく彼なら、本当に好きなんですね、と言って笑うのだろう。 「良いバーボンがあるんです、お土産に如何ですか?」 「良いんですか!?」 「ええ、勿論」 「なんか貰ってばかりですみません」 「いえ、お礼の様なものですから」 宜しければ隣人の彼と一緒にどうぞ、と添えられた言葉に気が利く人だな、なんて思いながら笑顔で礼を述べた。話の合間合間にケーキを絶えず口に運んでいれば、知らぬ間に空になった皿。美味しさに幸せな気持ちになりながら、同時に虚しくなるのは次はいつ此のケーキを食べれる日が来るか分からないからである。 「そう言えばさんはベルツリー急行はご存じですか?」 「はい。ニュースで見ましたよ、なんかキッドが狙ってるとかなんとか言ってたような…」 空になったら皿をぼんやりと眺めていると、唐突に振られた話題は以前夕方のニュースで取り上げられていたものでは珈琲を手に取って頷くのだ。ベルツリー急行とは、かの有名な鈴木財閥が誇る最新鋭の豪華列車の事である。 「僕も乗るんですが、さんに一緒に来て頂きたいんです」 「あー…あたしお金ないんで、今…」 「費用は僕が負担しますから」 「そういう事なら行きます!」 ベルツリー急行には興味は無い。あるのは豪華列車、というフレーズだけだ。豪華列車、豪華客船、一度で良いから乗ってみたいものだが、絶賛求職中の身としては未だ未だ先の話で。沖矢の申し入れに、良い歳して金欠と言うのは恥ずかしいもので、濁して断りを入れるのだが、返答は諦めでは無く食い付くには十分なワードで間髪入れずに頷いたのなら、沖矢はにこりと微笑むのだ。 「でも何であたしを誘ってくれるんですか?」 「興味があるんです、貴女に」 「あたしに?」 「ええ」 眼鏡の奥の瞳が薄っすらと開かれ、見えた眼球に釘付けになったのは、とても綺麗な色をしていたからだ。普段の様子からは想像のつかない様な、鋭さを持った其の瞳が何処か沖矢には似合わない様に思えた。 「僕も仲良くなりたいんですよ、さんと」 にこり、なんて次に微笑んだ頃には其の鋭い瞳はまた隠れてしまっていて、見間違いだったのかなと錯覚してしまう。 「あたしもです!」 けれど、其れ以上に仲良くなりたいと言われた事がは素直に嬉しかった。体質故に友は少なく、特に米花町に引っ越してきてからは友人と呼べる様な人はバーのマスターや、隣人の安室くらいなものなのだ。友人が居なくても生きてはいけるが、寂しいのもまた事実である。 「沖矢さん、下の名前なんて言うんですか?」 「昴です。さんは?」 「です!」 「さん、ですね」 「じゃあ、昴さん」 お互いにお互いの名を呼び合って笑い合う。何これちょっと照れ臭い。誤魔化す様に珈琲を飲み干せば遠くから聞こえて来る扉が開閉する音。玄関からだろうか、そう思ってが廊下に繋がる扉を見やれば、沖矢は静かに立ち上がるのだ。 「おや、帰ってきたみたいですね」 「帰ってきた?」 廊下に繋がる扉へと歩いて行き、ドアノブを引いたのなら其処に立っていたのは美女。正に、美女という言葉を具現化したかの様な、彼女の為に美女という言葉が作られたかの様な、そんな美しい女が大きな瞳を沖矢からへと移して、にこりと微笑む。其の美女をは知っていた。直接的対面したのは初めてだが、は知っていたのだ。 「なあに、可愛らしいお客さんね」 「ふ、藤峰有希子!?」 「あら、私のこと知ってくれてるの?嬉しいわ」 テレビの画面の中に居た女優が目の前におり、そして嬉しそうにクスクスと笑う。最早楽しく談笑しながらケーキ(既に完食済みではあるが)や珈琲を堪能している場合では無い。反射的に立ち上がったは完全に動揺しており、カップの中に残った珈琲が激しく波打った。 「伝説の女優がなんで此処に…表札の工藤って、まさか工藤優作の工藤!?」 「ええ、そうですよ」 「待って待って昴さん何者なの。あ、すみませんサイン下さい!!」 此処はあの工藤優作の家か!?そりゃ豪邸だわ!なんて一人捲し立てながらカップを荒々しくテーブルに戻し、は鞄の中をひっくり返して見つけた手帳とペンを勢い良く有希子に突き出せば、彼女は全く嫌な顔をせずに、むしろ笑いながら「いいわよ」なんて言って受け取って手帳の表表紙にサインをしてくれた。夢の様な現実に震える手で手帳もペンを受け取ったのなら、手帳に記されたサインと有希子を交互に見て、は手帳を人生で初めて強く抱き締めるのだ。 「やっばい美人…好きです大好きです会えて嬉しいです寧ろもう死んで良いです悔いないです…」 「なんて素直な良い子なの!」 いやーん!と、嬉々としながら有希子に抱き締められ、思わず鼻血が出そうになったのは言うまでも無い。うわあ、良い匂いがする。胸大きいな…等と変態の様な思考がぐるぐると頭の中を巡る中、沖矢は更なる追い討ちをかけるのだ。 「有希子さん、彼女はさん。さんもベルツリー急行に一緒に乗ります」 「そうなの!今から楽しみね!」 「え…」 信じ難い言葉を口にした沖矢に、鼻歌でも歌い出しそうな勢いの有希子。そして絶句する。思考回路が見事に停止した後、急速に動き出した思考にはキスを難なく出来そうな程に近距離にある有希子に勢い良く振り返り、其の大きな瞳を凝視するのだ。 「有希子さんもベルツリー急行に!?」 「ええ、そうよ」 「我が生涯に一片の悔い無し…!!」 「うふふ、面白いわね!ちゃんって」 最早失神しそうな勢いのの瞳から感動の涙が一筋流れれば、可笑しそうに笑う有希子がの頬に頬擦りするのだから腰が抜けてしまいそうになる。其の一部始終を見守っていた沖矢は、“池袋最強の女”と言われた人物に唯一敵う相手は、此の家の主人の妻なのでは無いかと確信にも似た推理をした。 |