赤ワイン三本、白ワイン二本、シャンパン二本を飲み干した所で、は次なるドリンクをメニューを眺めながら選んでいた。初めこそ和かに対応してくれていた笑顔の素敵なウェイターは、完全に引き攣った顔でドン引きしてくれている。が、は気にせず気付かぬふりに徹した。こんな飲み放題を逃すだなんて有り得ないからである。


「すみません」

「はい?」


不意に頭上から低い声が聞こえてきて、は反射的に返事をしながらメニューから顔を上げれば、其処には目深く帽子を被った所為で顔が良く見えない体格の良い男が立っていた。顔が見えないとはいえ、目の前の男に見覚えないは首を傾げるのである。


「…どうかしました?」

「此処、座っても?」

「良いですけど…他にも席いっぱい空いてますよ?」


が食事(といっても殆ど酒)を堪能している間に数少ない客達は食事を終えて退席した為、現在食堂車に客はと男しか居ない。わざわざ相席をする必要は無くが不思議に思っていると、男の目深く被った帽子の下から目付きの悪い悪人面が見え、ぎょっとするのだ。しかも何より目に引くのは左目周辺にある火傷の痣である。


「何か?」

「あ、いえ…ただちょっと目の隈凄いなぁって思ってですね…」

「此れは生まれ付きなんだ」

「そうなんですか」


本当は火傷に驚いたのだが、安易に触れるべきでは無いと判断して隈を指摘すれば、案外喋れば普通な男に安堵すると同時に改めてちゃんと見た顔に今度は息を飲むのだ。確かに悪人面ではあるが良く見ればかなり整った顔立ちの美形だったからである。


「良く飲むんだな」

「お酒には割と強い方なんで」

「そうか。…一人で此の列車に?」

「いえ、知り合いと一緒に」


目の前の男と話すのにメニューを持ったままなのは少し悪い気がしてメニューを置けば、男は口元に笑みを浮かべての目を見て言うのである。


「一緒に乗ったのに別行動なんだな」

「まあ…」


真っ直ぐに見つめられて思わず目を逸らしてしまうのは、真っ向から凝視される事があまりなく気恥ずかしいからである。思わず泳いでしまう目で男を再び見れば、男は未だを見ていてまた直ぐに目を逸らすのだ。凝視される事は経験上良くある事なのだが、大体は目が合うと向こうから目を逸らすのだから、こうして積極的は熱い視線は、ほぼ初めてだと言えた。


「ま、またなんか慌ただしくなってきましたね!何があったんでしょう?」


そんな視線が痛くて、どうにかしたくて、話題を自分以外のものにすり替えたくて、一般車両の方から微かに聞こえる人々の声を話題に上げれば、男は「それなら」と口にするのだ。


「八号車で殺人事件があったそうだ」

「えぇ!?」

「知らなかったのか?」


と問われれば勿論答えはイエスで、驚愕にあんぐりと口を開けて呆然とするは余程可笑しな顔をしていたのか男は小さく笑うと、そっと席を立つのである。


「また会おう」


耳元で囁かれた言葉に背筋が伸びて固まる。何せ男は良い声なのだから、其の囁きは艶っぽさ一億パーセントだ。


「何だったんだろ…」


相席した割に何かを頼む事も無く早々に席を立った色男を不審に思うのは当然で。何と無く囁かれた右耳を手で摩り、決してアルコールの所為じゃない顔に集まった熱が逃げるのを待った。不審な行動は此の際どうだって良くて、意識は完全に此の暑苦しい顔の熱に向いていたのである。喉も無性に乾いて手付けずにいた水を一気に流し込むと、折角の酔いが覚めた様な感覚になるのだ。


「…戻ろ…」


誰に向けてでもなく呟いて席を立てば、やっとかと胸を撫で下ろすウェイターに少しだけ申し訳無く思いながら、人混みの中を分けて来た道を戻る。殺人事件が起きたという事は犯人は終着駅までノンストップの此の列車の中に居るのだろうが、自分も襲われるかもしれないと思うと怖いものである。とはいえ、特異体質の自分は唯の人間の手によって命を落とす事が出来るのかどうか。答えはほぼ100パーセント不可能に等しいのだが。


「おかえりー…って凄いアルコールの匂いね!」

「えへへ。後悔しない様に堪能してきました!」

「楽しんでるわね」


部屋には相変わらず有希子の姿があり、戻ってきたの纏う匂いに思わず笑みを零した。其の笑みの美しさといえば説明するまでもないだろう。沖矢は変わらず席を外している様で、沖矢が腰掛けていた空いたソファーに座ると、今度は有希子が立ち上がる。


「ちょっとトイレに行ってくるわね」

「はーい!」


軽く手を振って部屋を出て行った有希子を見送り、一人になった個室ではスマートフォンを取り出した。待受画面に通知の表示はなく、誰からの連絡も来てない寂しい其れを開いてカメラを起動する。そして移りゆく窓の向こうの景色を写すとシャッターを押すのだ。案外綺麗に撮れた。


「あ、おかえりなさーい」

「…飲みました?」

「ちょっとだけです」


そんなちょっとした撮影会をしているとノックもなく戻ってきた沖矢には窓の外に向けていたスマートフォンを下ろせば、やはりアルコールの匂いがするのか眉を下げて笑う沖矢には照れ笑いする。後ろ手に扉を閉め、の正面に座った沖矢は膝の上に肘をついて両手を組んで尋ねた。其れはまるでこの時を待っていたかの様に。


「ところでさん、良いんですか?行かなくても」

「何処にですか?」

「彼の所ですよ」


唐突に切り出された話題に間抜けな顔になってしまったのは致し方無いだろう、何せ全くもって此の時、には意味が分からなかったからである。そんなを薄っすらと開いた瞳で真っ直ぐ射抜いて来る沖矢に食堂車で会った火傷の美男と重なった。


「分かりませんか?それとも…シラを切るつもりで?」

「まさか!本当になんの事か分からなくてですね…!」

「彼ですよ。先程さんも見た」


まるで悪い事でもしている様な気分で慌てて悪気は無いのだと両手を勢い良く振るに、案外あっさりと沖矢は“彼”に関する情報を口にする。新たに与えられたヒントを元に漸くの頭の中で一人の人間が弾き出された。其れはの顔にしっかりと出ていたらしく、沖矢は満足気に口元に笑みを浮かべるのだ。


「彼って安室さんの事ですか?」

「はい」

「それなら名前で言って下さいよー!でもどうしてですか?」


安室なら沖矢も名前を知っているんじゃ?なんて思ったのは何時ぞやの事件で同じ現場に居たからである。


「彼とは親しいんでしょう?」

「仲が悪いって事はないと思います!」

「折角一緒の列車に乗ってるんですから会いに行こうとは思わないんですか?」

「えっ…考えもしませんでした」


沖矢の率直な意見に、これまたは率直な反応を示した。本当に少しも、欠片も、安室を会う為に外へ探しに行こうと考えもしなかったからである。そして何故そう考えもしなかったのかを考えてみて、思った事を素直に口にするのだ。


「安室さんも誰かと来てるのかもですし。ほら、彼女かも。安室さん、すっごい格好良いじゃないですか!邪魔なんかしようもんなら…あたし刺し殺されるかもですし…唯でさえ既に邪魔してる様なものですから…」

「邪魔を?」

「はい。それにこれと言って用無いですから。用があったら家に帰ってからにします!」


だって折角あの有希子さんと一緒なんですからね!とは笑った。安室は前に彼女は居ないと言ってはいたが、あくまでそれは前であって、其の時は、なのだから今現在其れが当て嵌まるかは分からない。もしも安室に彼女が居るのだとしたら、現時点ではかなりの迷惑を掛けている事になる。言わずもがな、あの壁に空いた大穴である。あれがある限り安室は彼女を家に連れ込むにも連れ込めないだろう。其れに彼女も嫌がる筈だ。が逆の立場なら絶対に嫌であるし、断固拒否である。


「そう言えば八号車で殺人事件があったらしいですよ」

「どうしてそれを?」

「食堂車で会った人が教えてくれたんです」


ふと先程、火傷の美男と沖矢の瞳を重ねた際に思い出した事柄を口にすれば、沖矢は知っていたのか冷静なだけなのか大した反応も見せずに尋ねてくる。もう少し驚くなりしてくれたらいいのに、なんて残念に思いながらは食堂車で会った彼の事を前のめりになりながら沖矢に熱く語るのだ。


「左目の所に火傷の痣のあって、目の隈と目付きの悪さがちょっと目立つ男の人なんですけどね、すっごいイケメンでした!」


体格も良くて、背も高くて!超優良物件ですよ!と目を輝かせてうっとりとしながら力説するに沖矢が表情を一変させるのだ。そして自然と其の声色が緊張感を持った張り詰めたものになる。


「他に何か話しましたか?」

「大した話は…ただ、また会おうって言われました!口説き文句みたいですよね!」


緩い表情で笑いながら言うには沖矢はいよいよ口を噤む。そして何か思考に耽る様に視線を僅かに斜め下へと落とすと、漸くは沖矢の異変に気付くのだ。突然黙り込んでしまった彼に掛ける言葉を悩んでいると沖矢は視線をへと戻し口を開くのである。


「単刀直入に言いますが隣人の彼とはもう関わらない方が良い」


唐突に、突然に、予期せぬ言葉にの思考は一瞬にしてフリーズした。何故、と沖矢を凝視する瞳が僅かに揺れた瞬間、は酷く情け無い声を漏らすのだ。


「もしかして…」


其れは震えていたと言っても過言では無く、は口元を手で覆った。困惑が隠し切れない瞳は沖矢だけを映し、沖矢は眼鏡越しにを見つめ返す。の唇が小さく動いた。


「もしかして沖矢さん安室さんの事が好きなんですか!?」

「違います」


即答だった。


「兎に角、何があっても此の部屋から出ないで下さいね。外は危険なので」

「危険なんですか!?」


徐に立ち上がった沖矢がドアノブに手を掛けながらに促せば、ソファーに腰掛けたままが尋ねた。確かに殺人事件が起きた以上、安全とは言い難いのかもしれないが、危険というほどでも無いのでは、というのがの本音なのだが、詳細を語る気が無いのか、其れとも先程のの勘違いが気に入らなかったのか、にこりと笑って沖矢はさっさと部屋を出て行ってしまったのだから一人残されたは最早解答を得る手段を失ったも同然なのである。


「今時同性愛ってそんなに珍しく無いと思ったんだけど…怒っちゃったかな…?」


の独り言は虚しく空気中に散った。









BACK | NEXT
inserted by FC2 system