高校受験も無事に終わって2年、現在在校中の高校生活も残り僅かで。少し早いと思いつつも準備は早いに越した事は無かったから早めにと思い、この頃から大学受験の勉強をしていた。勉強は別に苦痛ではなかったし何かなりたいものとか夢なんて持ち合わせて居なかったから、とりあえず無難にそこそこの大学へ進学するのは決めていた。高卒で就職するつもりはなかったので大学へ進学する道は最初から決っていたようなものだった。帰り道、近所の本屋に寄り道して参考書を吟味。所持金から見て今日買えるのは精々2冊程度。あれにしようか、これにしようか、中身もぺらぺら捲って吟味して漸く決めた参考書2冊をレジへ持って行く。茶色い紙袋に入った参考書と引替にお金を丁度の金額を渡して店の外へ出た時だ。突然の突風に思わず目を瞑る。そして鼻に付くカビと埃の臭い。


「…くさっ」



思わず声が漏れてしまう程、臭いは酷いものだった。カビと埃が交じった独特の臭いに、じめっとした湿気た空気。秋から冬に移るシーズンの今、先程までは気持ちのいい冷たい風だったのに。そしてゆっくりと瞼を開ければ広がった景色に思わず絶句した。


「………何処ここ…」


とても汚く淀んだ空気の流れる場所だった。路地だろうか、家と家の細い道にあたしは立っていた。お店の前に停めていた愛車の赤い自転車は勿論なく、先程までは青空が広がった昼間だったというのに上を見上げれば群青と朱色が交じった薄暗い空が広がっている。


「…冗談きついって…」


買ったばかりの参考書をぎゅっと抱きしめて、あたしは周りを見渡した。何もなかった。厳密には無造作に捨てられたゴミが散らばっていてコバエが集っている。思わず鼻を摘んでしまう程の異臭だ。じっと此処に居るのは耐えられず右も左も分からないまま、ゆっくりと歩き出した。行く当てなど無いけれど、もしもこれが夢だったのだとしたら、いつかこの意味の分からない夢が覚めてくれる事を祈りながら。暫く歩き続けると目の前に少し広めの道が見える。人が行き交うのも見えた。高ぶる胸を押えきれず足は早足になり、小走りになり、最後には走っていた。人が居る、それだけで凄く安心出来たのだ。一人ではなかったのだと、そしてこれで家に帰れるかもしれないなんて期待が湧いたのだ。例え、先程見えた行き交った人達が、妙に小汚く薄汚れた格好をしていたとしても―――。


「…っ」


今度こそ何も言えなくなった。此処は、何処なのか。大通りに出て目にしたのは先程見た光景とは比較にならない程のものだった。そこら中に散らばったゴミ、ゴミ、ゴミ。集るハエや鼠。そして、路上に倒れている人間。行き交う人々は小汚い薄汚れた衣服を纏い、路上にあるゴミにも、倒れた人にも目もくれず通り過ぎていく。思わず口を手で覆う。此処は、何処?建物もよく見れば日本にあるようなものではなく、どちらかといえば外国にあるような其れに近い。実際この目で見たことは無いが、此処はまるで外国にあるスラム街のようだった。思わず来た道に引き返し足早にその場から逃げるように去った。頭で考えた行動ではなく、咄嗟に足が動いたのだ。


「夢なら覚めてよ覚めて覚めて覚めて覚めて覚めて…」


祈るように何度も何度も繰り返す。心臓がドクドクと五月蝿い。力一杯抱きしめていた紙袋はくしゃくしゃになっていた。早歩きに、逃げるようにあの大通りから離れていく。下を見ながら周りを見ないようにして歩いていたのがいけなかったらしい。突然制服のスカートの裾を引っ張られる感覚にゾッとした。驚いて勢いよく振り返れば其処に居たのは小さな子供だった。小汚く色白で、食事もまともに取れていないのだろう。骨が浮き出ている程に痩せ細っていた。子供かと安堵したのも束の間で、この子供の淀んだ瞳と目が合った瞬間身体を恐怖が支配する。一回り近く歳の離れた子供に、こんなにも恐怖を覚えた。


「…なに?」


何とか搾り出した声は、震えて上擦った情けない小さな声だった。子供は一言も話さず、じっとあたしを見つめる。まるで品定めでもするかのような瞳は酷く居心地の悪さを感じた。そして刹那、子供は勢いよく襲い掛かってくるのだ。反射的に後ずさったものの、子供は掴んだあたしの鞄を強く引っ掴み放さない。子供は鬼の形相だった。必死に何度も何度もあたしの鞄を引っ張る。其れが怖くて、恐ろしくて、子供を力一杯振り払って逃げ出した。子供相手に容赦ない、なんて考えられない程にあたしは恐怖していた。こんなにも全力で必死に走ったのは久々で足が縺れそうになりながら、知らぬ道を只々走って逃げた。時に右折左折と曲がって、あの子供が追いかけてこないように。追いつかれないように―――。暫く走り続け、後ろを振り返り誰も居ない事を確認するとゆっくりとペースを落として、あたしは漸く立ち止まる。上がった息、大きく酸素を取り込もうと呼吸をするが何せこの淀んだ空気である。気分が悪くなるだけだった。


「(…鞄…。お金、取ろうとしたんだ)」


必死の顔で鞄を引っ張る子供のあの顔が忘れられない。この街の様子を見る限り、とても裕福な人間が居るとは思えなかった。それも標準にも遠く及ばぬような、まさに極貧層が居住する過密化した地区に窺い知れる。迂闊に人のいる場所に出るのは自殺行為のようにも思えてきた。確かに皆が皆、あの子供のように金銭目的で襲ってくるという確証はないものの、もしも万が一、次に襲ってきたのが大人だったから、男だったら。どうしてもそう考えてしまう。女でも力負けしそうだというのに、相手が男になるとされるがまま、取られるがままは確実だった。


「…なんで夢なのに慎重にこんな考えて行動しなきゃいけないのよ…」


ぽろりと零れた愚痴。しかし、そんな不満はどうだって良かった。只ひたすら願うのは早くこの悪夢から覚めること。此処は、とても怖い。とても怖い所だった。まるで祈るように両手を顔の前で組み、ずるずるとその場にしゃがみこむ。顔を伏せ、神にひたすら祈った。目を覚ませて下さい、と。確かに無神論者で神なんてものは信じてはいなかったが、こうなってしまえば最早神頼みしかない。都合良過ぎるかもしれないが、誰だってこういう窮地に追い込まれたら同じ行動を取るに違いない。神に必死に祈りを捧げた。一生の御願い、と何度も繰り返しながら。


「どうした?嬢ちゃん」


突然降ってきた言葉に勢いよく顔を上げる。いつの間にか目の前には強面の体つきのいい男が三人立っていたのだ。祈ることに必死すぎて全然周りに気を回せていなかったらしい。男達は一度あたしの顔を見ると互いの顔を見合わせて笑みを浮かべる。嫌な予感が頭を過る。そんな馬鹿なこと、なんて頭の中で否定もするが背中に確かに嫌な汗が流れた。


「こんな所で何祈ってんだ?」

「そんなに叶えて欲しい事でもあるんなら、俺達が叶えてやるよ」

「そりゃあいい!」


下品に笑う男達に本能が警報を鳴らす。不味い不味い不味い。頭の中に過ぎっていた嫌な予感が、まさに事実となりそうだったのだ。咄嗟に立ち上がり男達の間を抜けて逃げ出した。逃げなくては。捕まったら終わりだと、頭の中でサイレンが止まない。


「っ!」

「まあ逃げるなって!」

「イヤ!放して!!」


横をすり抜けれたものの直ぐに腕を掴まれる。大きな手は分厚く硬く、今まで見てきた男達の中で誰よりも強さを感じる手だった。まるでアスリートのような鍛えられたような手。握られた腕から感じるのは篭められた逃がさないと言わんばかりの痛い程の強い力。それでも構わず腕を振って逃げようと奮闘する。此処で挫けるわけには到底いかなかった。腕を拘束され、後ろから羽交い絞めにされ、目の前に男が迫っていても諦めきれなかった。嗚呼、神様―――。そんな祈りすらも虚しく、目の前の男は卑しい笑みを浮かべるのだ。


「綺麗な女は久々だ。此処らは汚ねぇ女しか居ねぇし、ヤる前から萎えちまう」

「久々にいいモン見つけたな!」

「次はいつお目にかかれるか分かんねぇからな、味わわねぇと…」


絶叫を上げた。喉が痛くなるぐらい、今まで出した事が無いぐらいの悲鳴。

助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて
御願い許して許して止めて御願い許して止めて御願い御願い御願い

汚い地面に押し倒され、持っていたスクール鞄と参考書の入った紙袋が近くに転がる。左右に男達が付いて腕を押さえつけられても必死に足と顔を振り乱して抵抗した。上に男が跨り。足を押えつけられた時、今までの高ぶった必死の感情は一気に冷めてサッと引いた。あたしに残った感情は只一つ、絶望だった。頭上では男達が卑しい笑みを浮かべながら次は誰がするかなんて順番の話をしている。そんな会話も徐々に遠く聞こえなくなってきて、最後には何も聞こえなくなった。服の下から触れる汚い手に吐き気を覚える。叫ぶ気力もなくなり、只呆然と薄暗い空を見上げた。とてもとても其処から見える空は汚く見えた。瞳から大粒の涙が溢れて零れ落ちる。誰も助けてくれない。何処かも分からない知らぬ場所で、誰かも分からぬ人達。抵抗しても無意味で、只されるがまま。自分の身にされることを只見届けることしか出来なかった。全てが終わった頃、あたしは大通りで見た人間のように乱れた服で横たわっていた。血と砂と埃とゴミに汚れながら。とてもじゃないが動く気になれず、其処に捨てられたままだった。涙も枯れて、もう声も涙も何も出なくなっていた。そしてあたしは悟ったのだ。これが夢なはずがないと。じゃあ此処は一体全体何処なのか―――此処は地獄だ。そう信じて疑わなかった。










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