「パン拾ってきました」

「少ないねぇ…」

「すみません…」


あれから一週間が経つ。今でもは老婆の下で世話になっていた。それも、とても迷惑をかける形でだ。この不衛生な環境で長い間生活をしていた住民達とは違い、あくまでは衛生管理の行き届いた清潔な環境の中で暮らしてきたのだ。それに慣れてしまっている身体がこの街の環境に突然順応出来るはずも無く、あの水とパンを与えられた翌日から昨夜まで見事に発熱や下痢、そして酷い腹痛に襲われていたのだ。漸く体調も言う事を聞く様になり、早速は老婆に礼を返さねばと街に出たのだ。老婆に食料の落ちている場所等、食べれるものと食べられないものの特徴を聞いて。結局半日外で食料探しをしただったが、その結果は手の平サイズのカビの生えたパン一切れだけに終わった。


「其処にお座り…。小娘、名前は?」

「あ…、っていいます」

…ね」


老婆は「あたしゃ、エリッサさ…」と呟くように名乗り、まるで寒がるように両手を摺り合わせた。エリッサはベッドの上に座っており、は指差された絨毯紛いのものが敷かれている隅っこの方に座る。おずおずとがエリッサにパンを差し出せば、パンをじっとりと観察し目を細め「食べれないこたぁ…ないね」なんて呟きパンを半分に千切ればへとその一欠けらを放り投げる。どうやら分けてくれるらしい。


「此処に住んでもう60年位経つけどねぇ…。アンタ見ない顔だね」

「………。」

「別に答えろなんて言わないさ。察することくらい出来る。此処はそういう島…。皆同じようなもんさね」

「エリッサさん…、此処は何処なんですか…?」


ずっと聞きたかった事だったが、其の答えを聞きたくなかったのもの本心である。白黒はっきりさせててしまうのが怖かったからだ。この怪奇現象を謎のままにしている方が、ずっと気持ちは楽だっただろう。真実を受け入れるには未だ心の準備が出来ていなかったが、聞かずにはいられなかった。何とか搾り出して問うた声は掠れ震えていた。エリッサは只でさえ細い目を更に細めて言うのだ。


「此の島に名前は無いよ。偉大なる航路、グランドラインにある小さな小さな島さ。強いて言うなら皆、ゴミ捨て島と言うけれどねぇ…。いらなくなった人間やゴミを皆が皆、勝手に捨てていく島さ」


に衝撃が走る。何でも捨てられる島、そんな存在が認められるわけがなかった。誰もが理解出来るはずなのだ、道徳的に反すと。あの窃盗未遂の子供も、目の前のエリッサも、此処に捨てられてきたのか。とんでもない場所へ来てしまったと自覚すればする程に心臓の音が五月蝿い。嫌な汗が吹き出る。そして当たり前の様にエリッサから言われた聞き覚えの無いワードが更に胸を騒がせるのだ。落ち着かせる様に胸元のシャツをぎゅっと握り、はエリッサに問う。


「グランドライン…って、なんですか…?」

「何って…アンタ知らないのかい?とんだ箱入り娘か、只の世間知らずか…」


エリッサは目玉が飛び出さんばかりに大きく目を見開く。は口腔内に溜まった唾を喉を鳴らして飲み干した。やはり“グランドライン”というものは此処では誰もが知っているモノではあるのは間違いないらしい。


「世界を一周する航路さ。まさか本当に知らないのかい?」

「……ええ…。」

「………。…季節・天候・海流・風向き…全てがデタラメな海さ。そんじゃそこらの航海士じゃ航海は出来ないよ。大海賊時代が到来してからは、奴の遺したひとつなぎの大秘宝、ワンピースを求めて世界中の海賊達がうじゃうじゃと集まって来てるってんだから、たまったもんじゃない」


エリッサは吐き捨てる様に最後に「クソッタレ」なんて呟けば、すっと立ち上がり出入口の方へと向っていく。布を捲り、外を窺えば先程まで晴れていたというのに今ではどんよりとした黒い雲が頭上は覆っている。


「…その調子じゃ、アンタ何も本当に知らないみたいだねぇ…」

「……此処は…、地獄じゃないですか…?」

「地獄だと思う程、此処は苦しいかい?此処でずっと暮らしてきた人間目の前にしてよくもそんな無礼極まりないことが言えるね!」


叱る様に声を荒げたエリッサだが付け足す様に「確かに良い環境とは言えないけどね…」と呟く。は堅く口を閉じ、指先が白くなるまで強く手を握っていた。そんなを横目に見て、エリッサはテーブルの方へと向うとゴミ山の中を漁ると其処からボロボロの所々破けた紙と羽が殆ど残っていない折れた羽ペンを引っ張り出した。


「…何処から来たんだい」

「…日本です」

「知らないね。少なくても、そんな島はこの世界には無いよ」

「………。」

「悪いとは思ったんだけどね、アンタが外に出てる間に中身をちょっと見させて貰ったよ」


エリッサは羽ペンの先で部屋の隅に置かれているの鞄を指した。特に見られて困るようなものは無かった為、は別段驚くことはなかったが、緊張はしていた。何となく自身が感じている事を今から目の前のエリッサが言葉にしてしまうのではないかと思っていたからだ。この自身の馬鹿げた予想が外れていることを信じていたかったのだ。エリッサは懐に仕舞っていたのだろう、見慣れたソレを取り出した。


「これは一体なんだい?此処らじゃ見ない代物のようだけどねぇ」

「…電話です」

「…これがかい?」


ソレはとても見慣れた自身のスマートフォンだった。エリッサは片眉を吊り上げ、訝しむようにあらゆる視線からスマートフォンを観察する。暫くして興味が無くなったのか、まるで捨てるようにに向って放り投げる。これ一台で数万円はするというのに何と雑な扱いであろうか。咄嗟に思いを言葉にしようと口を開きかけるも、既にこのスマートフォンが常に圏外のマークを表示しており使い物にならないことは数日までに確認済みである。何となく、此処にいる限り役立たないと感じていたは結局エリッサに何も言えないまま口を閉じた。


「此処に来る前は何してたんだい」

「学校に行ってました。授業が午前だけだったので、それから本屋に寄り道して店を出たら…此処に」

「…あたしゃね、アンタは違う世界から来たんじゃないかと思ってるんだよ」

「そんなこと…あるわけないです」


言葉では確かに否定はしたがにはそれを絶対にないと証明するものは何もなかった。地下にいるわけでもないのにずっと圏外のままのスマートフォン。明らかに日本語を話しているのに日本人のような名でも風貌でもない目の前の老婆。本屋から出た瞬間、見知らぬ土地に只一人。貧困な国もあるだろうが、此処まで酷い環境の国をは知らない。非現実であることも、非常識であることも、考えがぶっ飛んでいるのも承知の上だが、エリッサの言うように異なる世界から来たと言うのなら全て説明がついてしまうのだ。世界が違うなら向こうの世界の電波がキャッチ出来るはずがない。世界が違うのだから風貌と名がちぐはぐでも可笑しな事は無い。人間すら捨てても構わない島があっても変ではない。は頭痛を覚え片手で頭を押さえた。そんなを見てエリッサは再びテーブルに向き直ると、異常な程に前のめりになって何やら紙にペンを走らせる。ガリガリ、静かな空間に微かにペンが紙に文字を刻む音が響く。しかしエリッサは震えていた。震える手で懸命に力強く紙に文字を刻んでいる。


「…此処はグランドライン。ありえないなんてことはない。此処はそういう海なのさ」


エリッサはそう呟けば文字を書き終えたのだろう、羽ペンを置いてまるで隠すように紙をぐちゃぐちゃに丸めて握り締める。そして立ち上がり足早に入口の方へと向うと布を捲り外を見る。雨が降ってきたらしい、ぽつぽつと降り始めた雨は瞬く間に強くなり地面を濡らす。同時に天井の隙間から雨漏りが始まり、は濡れぬように隅へと小さく縮こまった。エリッサはキョロキョロと不審な動きで外の様子を窺えば手に丸めて握っていた紙を外へと投げ捨てる。そしてくるりと振り返ればに駆け寄り、これでもかと顔を近付けるのだ。その表情はまるで焦っているような余裕のない表情だった。はエリッサの剣幕に圧倒され息を呑む。


「異世界から来たなんて知れたらどうなるか分かったもんじゃない!暫く此処から出るんじゃないよ、分かったかい!?」

「…あ、」

「分かったのかい!?分かってないのかい!?」

「わ、わかりました…」


エリッサは身を引き、目をあちらこちらと泳がせながら両手を胸の前で擦る。「本当に分かってんのかい…」なんて小声で呟きながらうろうろと部屋の中を歩いていた。不審な行動ではなるがは身の心配をされているのだろうと思うと自然と自分の顔が綻ぶのを感じる。少し項垂れ、そんな緩んだ顔を隠すようにして小さく礼を述べればエリッサは小言を言うのをピタリと止めて足も止めた。不思議そうにはエリッサを眺めるがエリッサはに見向きもしない。再び入口へと向い布を捲り上げれば外をじっと眺めていた。は気にしない事に決めた。確かにエリッサは変わっているとは思っていたが、こうして食事を分けてくれ、汚いとはいえど寝床を与えてくれ、身の心配をして保護してくれたのだ。これ以上不満を零すのも何かを求めるものでもないと考え、は口を閉ざす。今まで何でもエリッサに頼ってばかりだった。何か恩返しをしなくては。何が良いだろうか。そんなことを考えているを他所にエリッサは感情の読み取れない無の表情で土砂降りの雨の中にぽつりと一羽、路上にとまるカラスを見ていた。雨に身体を濡らしたカラスは一度首を横に傾けると路上に転がるグシャグシャに丸められた紙をその嘴に加えてすぐさま飛び立っていく。エリッサはそのカラスが見えなくなるまで、じっと見つめて見送った。










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