「……やっぱり此処は地獄ね…」

「あ?」


小さく呟かれたの声は色黒の男の耳には届かなかったらしい。色黒の男は大股でに近付くと、未だ頬に手を沿え俯き地面い座り込むの腕を引っ掴み無理やり立たせる。途端、は顔を上げて色黒の男に怒鳴った。その表情は怒りと恨みに満ちた酷いものだった。


「この世界の人達はなんでこうも好き勝手なの!?海賊も、あんた達もみんな大嫌い!!売られて奴隷にされるぐらいなら今此処で死んだ方がマシよ!!この人でなし!!」

「この…!」


の啖呵に色黒の男は身体を震わせた。それは恐怖からではなく、怒りからである。先程よりも強く拳を握り、色黒の男は大きく拳を振り上げた。は固く目を瞑り身体を強張らせてその衝撃に備える。しかしの身体に衝撃は何も訪れることはなく、代わりに訪れたのは銃声と男の呻き声だった。そして少しの火薬の臭い。


「…っ、」

「大丈夫?お嬢さん」


うっすらと瞼を上げれば目の前に居た筈の色黒の男は二の腕を押さえて倒れており呻き声を上げている。突然の展開に頭が付いていけず暫し呆然としていただが、背後から掛けられた声に反応して振り返れば茶髪の青年が立っていた。髪は短くカットされており、濃すぎず薄すぎずの小麦色の肌はとても健康的な色だ。大きな瞳はエメナルド色でとても美しく、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。纏う服も此処らでは見ないような綺麗で清潔で丈夫な生地。顔立ちも整っており所謂イケメンというジャンルに分類されるだろう。そんなあどけなさが残る青年は、一目で此処の住民では無い事が明らかだった。


「怪我は無い?」

「て、てめぇええええええええええ!!!」

「おっと…」


まるで何処かの王子でも気取るかのように青年はの目の前で片膝をついて首を少し傾けて問うた。そのさまになっている姿に思わずが見惚れていると突然現れた青年に向って大きく刀を振り回しながら襲ってくる黒髪の男が直ぐ後ろまで迫って来ている。先程エリッサを殴り飛ばした色黒の男の仲間である。振り回されている銀色の大きな凶器には小さく悲鳴を上げて後ずさりすれば、青年は曇り一つ無い晴れやかな笑顔をに向けた。青年は立ち上がり黒髪の男に向き合うと、まるで子供を相手しているかのように簡単に黒髪の男の持つ刀を受け流して叩き落した。そして一瞬の間も空けず黒髪の男の鳩尾に膝蹴りを食らわせたのだ。にはあまりに一瞬過ぎる動きに目が追いつかないでいた。黒髪の男は腹を抱え、口から泡を吹き出し横たわる。一部始終同様に見ていた色黒の男は顔を真っ青にさせ悲鳴を上げながら意識朦朧となっている仲間の黒髪の男を担いで瞬く間に走り去って行った。所謂“尻尾巻いて逃げ出した”状態である。


「やっとこれで静かになった。ね、さっき聞きそびれちゃったんだけど怪我は無い?」

「…ええ。助けてくれて、ありがとう…」

「ううん、お礼なんていいんだ!困っている人を助けるなんて普通のことさ」


にっと歯を見せて笑う青年に心からの笑みを返せなかったのは、つい先程こうして色黒の男の笑みに騙されたからである。はゆっくりと立ち上がるとスカートについた砂や埃を手で払う。その動作をぼんやり見ていた青年は突如大きな声を上げた。


「怪我してるじゃん!!」

「え…?」

「その頬!真っ赤だよ」

「…ああ、さっき殴られたから…」


ずっと頬を手で押さえたままだった所為で青年は腫れた頬に気付かなかったらしい。曝け出された赤く腫れた頬を見れば面白いぐらいに慌て出すのだ。


「何をそんなに慌ててるの」

「だって君、女の子なんだよ?女の子は傷なんか作っちゃ駄目じゃん!」


さも当たり前のように、そう断言した青年にはそっと目を細める。以前の世界ではよく言われた言葉だった。少しの懐かしさが蘇り、同時にこの世界への感情がどんどん黒く渦巻いていくのを感じる。


「…もう汚れちゃったから、今更傷も怪我も気にしないわ」

「………。」


自虐するように吐き捨てた言葉は思っていた以上に低く重たいトーンだった。青年は口を閉じてを観察する。身なりこそ此の島に相応しい程に汚れてはいるが、確かに其処にははこの島の住人ではないことを示す証が紛れていた。衣服はだいぶ汚れてしまってはいるものの、その生地が丈夫だった。此の島の住民は使い古された薄っぺらい布を着用している。他所の島の住民が使い古し捨てた物が、此の島にやってくるからだ。たがそれも極一部で運よく洋服が手に入る事の方が珍しく、大抵の人々は只の布切れを身体に巻きつけるような洋服とは言い難い格好をしているのだ。しかしはというと一見シンプルなシャツとスカートに見えるがボタンも欠けることなく襟もしっかりとしたシャツ、だいぶよれてはいるが未だ型の残ってるプリーツスカート。黒の両方揃った靴下に、茶色の革靴。珍しい事に此の島にしては全身ちゃんと服が揃っているのだ。それも何もかもが良質な生地の服である。そして決め手はの身体だった。元々華奢な為、細見ではあるものの栄養失調を感じさせるほどの身体は痩せ細っていなかった。此処の住民は大抵が骨が浮き出るほどに痩せており、頬もこけて血の気の悪い肌の色をしている。今は少し青いが、ちゃんとした食生活にさえ戻れば直ぐにの肌の色は健康的なものに戻るだろう。髪も絡まってはいるが、しっかりと見れば確かに艶があった。それは欠かさず手入れをしていた証拠であり、この貧困な島のように食料もままならぬ島では身なりに気を遣う等、誰も絶対にしない事だった。青年は眉を下げる。この島の状態を知らないわけではなかった。何を捨てても許されるこの島では頻繁に物や人が捨てられる。ゴミで埋め尽くされた街にまともな食べ物があるはずもなく、飢えた人間が餓死することが多いことも知っていた。最近では此の島に碇泊している無名の海賊達が、捨てられてきたばかりの若い女を強姦しているという噂も聞く。捨てられてきた人間の中から人間オークションにかけられる人も少なくないことも聞いたことがあった。何となくではあるもののが此の島で体験してきた事を悟ると青年は「ねぇ、」と先程とは打って変わり落ち着いた声色でに言う。


「その頬の手当てだけさせてくれないかな。それだけさせてくれたら、その後は君の好きにしていい。何処か行きたい場所があるなら連れて行くし、ちゃんと自由にするから」

「信じられないわ」


青年が頼むと頭を下げるがは即答で青年の申し出を拒む。そしてすっと一歩後退りすればは静かに言葉を繋いだ。


「助けてくれたのには感謝してる。でももう誰も信じられない…。これ以上、貴方とも一緒に居たくない」

「それは怖いから?」

「………。」


は青年に対しても恐怖を感じていた。危険な所を救われたのは事実ではあるが、それはエリッサに対しても同じことが言えた。エリッサも飢えたを拾い食事を与え救ってくれたのだ。その行動の裏に潜んでいたのは大金を得る為の道具として売れるその時まで死なせまいとしたものだったが。が目の前の青年を警戒してしまうのも仕方の無いことなのである。
自身を売るために自身に優しく世話を焼いた老婆。自身をオークションに掛けるため優しく接して誘導した色黒の男。そして一番最初に言葉を交わし、身体に触れてきた海賊。今となっては世界の人々が皆、自身の敵のようにすらには見えていたのだ。


「怖いなら強くなればいい」

「…簡単に言わないでよ」

「だって簡単だからね。俺が君の武器になるよ」

「…は?」


青年は再び笑顔を見せる。真っ白な歯をこれでもかと見せて笑った。突然の青年が放った言葉が理解出来ずは思わず呆けた声を上げる。青年はが後退った一歩を詰めるように大股で一歩進み己の胸に手を当てて、まるで幼き子を言い聞かすように優しい声でに言った。


「恐れるものがあるなら、恐れるものに負けないように自分を強くすればいい。君が武器が欲しいというのなら、俺が君の武器になって君を強くする」


その言葉はすっとの中に落ちてきて、少しだけ緊張が解れていく様な感覚がした。それでもは警戒は怠らない。こうして気を許させて油断させるのが目的なのかもしれないからだ。緩みかけた意識や警戒を強め、は背筋を伸ばす。此処に来ては随分と慎重な性格になっていた。


「守ってあげる、とは言わないのね」

「それも一つの手だけど、君はそれを望まないと思って。違った?」


そう言ってはにかむ青年には本当に下心や何かを企んでいる様には見えなかった。これが演技だとしたら彼はハリウッドスターにでもなれるだろう。それ程に輝いた純粋な笑みを彼は浮かべる。青年はジャケットの胸ポケットに手を入れると「だから、これを持ってて」と言葉を添えてにソレを差し出した。は無意識に生唾を喉を鳴らして飲む。鈍く黒光りする凶器、拳銃だった。小振りではあるものの青年の掌に納まるそれは今まで見たことのある玩具等にはまるで違い、見た目だけでも十分それなりの重さがあると窺える。これで人を殺せるのだ。は青年の差し出した銃に釘付けだった。


「俺を信用しなくてもいい。だからこそ、これ持ってて欲しいんだ。もしも俺が君にとって不快なことをしたとしたら銃を武器にして俺から逃げればいい。何も持たずに付いて行くのが怖いのなら、こうして武器を持ってたら少しは安心出来る?」



だから付いて来て欲しいんだ、怪我の治療だけでもいい。させて欲しい。そう肩を落として「頼むよ、」と困った顔で言う青年に暫くは考え込むと素早く青年の手から銃を奪って後退る。一瞬きょとん、とした青年だったが状況を理解すると其れは其れは嬉しいそうに笑みを浮かべた。「でも本当は女の子はこんなの持たないで、格好いい男に守ってもらうのが一番なんだけどね!」なんて何処かの御伽噺のような夢を言いながら青年はに近付く。


「はじめまして、お嬢さん。俺はウィル!これから暫くの間よろしくな」

「…お嬢さんなんて歳じゃないと思うんだけど…」


彼はウィルと名乗り、笑顔で右手を差し出す。は何も言わないではいたが先程からお嬢さん等、年下のように扱われるのが気になっていた。あまり歳が離れていないだろう青年に、此処まで子供扱いされると流石にショックなものがある。そんなに自分は子供っぽく見えてしまうのだろうか。差し出された右手が握手を求めている事は分かっていたが、差し出された右手には応える事はなかった。


「あたしは、


この世界では皆名前が横文字だった。、それは今まで慣れ親しんできた自分の大切な名前だ。、ただ表現を変えただけだというのにまるで違う誰かの名前のように感じてしまう。しかしそれでいいと思った。はもう此処には居ないから。あの日、初めてこの島にやってきたあの日。海賊に絡まれたあの日に既に“”は死んだのだ。そして生まれたのが“”なのである。同じ人間であるが、世界を跨いだあの日を境に確かに持っていたモノを失い、持っていなかったモノを得た。この短期間で自分の中では沢山のものが変わってしまったのだ。何となくではあったが前の世界へ簡単には戻れないと悟っていたは、これからはと名乗って生きることを決意する。それはまた異世界人と知られ狙われることを避ける為でもあった。郷に入れば郷に従え、誰もが知っている諺にならい名横文字にして名乗る。己の口から出た“”は何だか自分ではないような気がしてむず痒かったが、それも時期に慣れることだろう。は手の中の銃を強く握り締める。いつかあの世界に戻れたらと淡い希望を胸に抱いて―――。










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