「その、制服…」


何とか言葉にした、その声はとてもか細いものだった。ウィルは聞き取れなかったようで首を傾げ、ガープに背を向けての方へと戻ってくる。ガープもとウィルの姿に気付いたようで、後方に控える青年二人を引き連れながら歩いてきた。


「…海軍だったの?」


先程よりも聞き取りやすく、しっかりとした声だったが、何時もよりも低いトーンの声は震えていた。漸くの様子に異変を感じ、ウィルは困惑したように眉を下げるとへと手を伸ばすが、それはに触れることなくその場でピタリと動きを止めた。


「海軍だったの!!?」


今度はとても大きな声が出た。擦れ違う人々が思わず振り返るほどに、その声は周囲の空気を振るわせたのだ。ウィルはの様子に戸惑い、その場で呆然と立つ。ガープはとウィルの異変を察知したのだろう、早足で青年達と共に向ってくれば、は足を擦りながら後退った。顔を青くさせ、僅かに身体を震わせるの姿は何か目の前の恐怖から逃れようとしているようにも見える。ウィルの元まで来たガープは目の前のを再度見れば、ウィルへと詰め寄った。


「おい、ウィル!どうなっとるんじゃ」

「わ、分かんねぇ…。なんか、いきなり海軍って言い出して…」


刹那、ウィルの目が大きく見開かれる。脳裏を駆けた記憶は、初めてと出会った時まで遡った。薄汚れた格好をしていたを殴りかかろうとしていた男。あの男が纏っていた服は海軍の制服だった。海軍という正義を掲げた組織とは言え、その中には正義と反する悪を働く者も時には居る。この海の先、新世界では海賊達よりも激しく暴れ回るような海兵も居るのだ。様々な海兵が居ることは、この海に生きる人々なら知っていて当然だと思っていた。海軍がどんな目的を持ち、役目がある組織であるかは流石のでも知っているだろう。中には正義に相応しくない人間が居ることも。故に理由は分からないがに手を挙げようとしていた海兵も、海軍ではなく、その海兵に問題があったのだと理解してくれているものだと、ウィルはずっと思っていた。


「もしかして…、」


目の前で怯え、後退るに対して、何かに気付いたように目を見開いて独り言の様に声を漏らすウィル。ウィルの口から、ぽつりと零れる言葉をガープが聞き逃すはずがなかった。片眉を吊り上げ、状況を全く理解出来ないガープは困ったように表情を歪ませてウィルを横目に見る。


「どうしたんじゃ?」

の事だ…、有り得ないことは無い」


自分の職業は正義のヒーローだと語った。一度たりとも“海兵”である事は口にしていなかった。それが今、ガープの部下が纏う海兵の制服を見たはウィルやガープが海軍の兵であることを悟っただろう。自分に暴力を振るおうとした男と同じ仕事をする“海兵”であると。は妙に無知な少女だった。誰もが常識的に知っていることを、彼女は知らなかったことは多かった。最初こそ聞かれる事も多く、受け答えはよくしていたが、何時だったか、何時の間にか質問もされることが無くなり、最初こそ抱いていた疑問もすっかり消え去っていた。あの頃抱いていた疑問を思い出し、考える。もしかすれば、は海兵の制服が、この白と青を基調としたデザインの服であることを知らなかったのではないだろうか。知らなかったとすれば。あまりにも普通じゃ有り得ない理論だが、のあの無知さなら有り得なくも無いように思えた。その理論が、そうだという答えとして仮定すれば、今がどんな心情で、あんな瞳で此方を見ているのか嫌でも理解出来てしまう。


「恐怖の対象…敵…、なんだろうな…」


恐怖と憎悪が入り混じった酷く醜く濁った瞳。は強くなった。銃の腕前もそうだが、ガープとの修行の成果もあって精神的にも肉体的にも出会った頃よりも成長していた。以前には無かった強い気迫がひしひしと伝わってくる。その気迫が、どんな思いで自分達を見ているのか、嫌になる程に伝わってきて苦しい程に辛くなった。


!違うんだ、これは…」


この事態を招いた己の説明不足を恨む。何故なら理解しているだなんて思い込んでしまったのだろうか。言わなければ分からない事も沢山あるというのに。無知なになら尚更必要な事だっただろう。一歩踏み出し、と距離を詰めればがまた一歩後退する。そして次の瞬間、が大きく目を見開き、己の後方を見ているのに気付く。つられるように振り替えれば自分の目も見開いていくのを感じた。


「やっぱりねェ…」


そう言いながら、ウィルの後方に立つ男はウィルを追い抜きへと近付く。は口を固く噤み、男が詰め寄った分だけ後方に下がり距離を取った。


「やっぱりって何なんスか…」


ウィルの口から零れる言葉。投げかけられた問いに男は首を傾げる。風に正義を掲げた白いコートを靡かせ、ストライプのスーツを着用した男は武装した多くの兵を後ろに携えている。ウィルは強く男を睨みつけて吠えた。


「黄猿さん!何でそんな…兵を引き連れてんスか…」

「また逃げられちゃ困るからねェ」


片手で頭を掻きながら、当然とばかりにそう言ってのければ、黄猿は未だに己を強く睨みつけるウィルの存在に小さく溜息を吐いた。


「ウィル〜〜。そんな目でわっしを見んでくれんかねェ〜〜」

「…誤魔化さないで説明して下さい」

「………。」


強気な姿勢のウィルに、今度は大きく息を吐いた。そして視線をウィルから目の前のへと向ければ黄猿は胡散臭い笑みを浮かべて語りだす。


「初めて会った日にねェ〜〜…ちょォっと妙な違和感を感じちゃったねェ…悪いとは思いつつ素性を調べさせて貰ったよォ…。そして行き着いた島があってねェ…其処は名の無い島…。其処でェ…エリッサと名乗る老婆に会ってねェ、色々と聞かせてくれたよォ」


どくり、の胸が強く鳴った。鼓動が早くなり、抑える様に手で強く胸の当りの服を握り締める。の反応を見て確信したのか、黄猿は更に笑みを深めた。



「おめー…、違う世界から来たんだねェ…」



黄猿の話を聞いていた皆が生唾を飲み込み、言葉を失くした。一瞬静寂に包まれる場。その中心に居るは強く歯を噛み締めていた。蘇るあの日の記憶と、怒りが湧き上がってくるのだ。


「なんで…。海軍は世界政府直属の海上治安維持組織なんでしょ?悪党から民衆を守るのが使命なんでしょ!?なんで…、なんでよ!!」


一度言葉を発すると駄目だった。声量が感情に比例するように徐々に大きくなっていき、最後には怒鳴るような形になる。ふと、ウィルはあの時倒した海兵を思い出した。あの海兵は何が理由でに暴力を振るおうとしていたのだろうか。


「仕方ないでしょうにィ…噂を聞いた天竜人が欲しがってるんだよォ…」

「人身売買は禁止なはずでしょ!?なんで海軍が…」


と黄猿の会話にウィルは強烈な頭痛を覚えた。“天竜人”“人身売買”そのワードだけでも容易に導かれる一つの答えがある。そしてそれを証拠付けるかのように先程出てきた“違う世界から来た”という情報。そうすれば全ての辻褄が合うのだ。常識すらも知らない無知さは、住んでいた世界が違うから。あの日海兵に暴力を振るわれそうになっていたのはヒューマンショップに連れて行かれそうになった所を抵抗したからなのではないだろうか。“違う世界から来た”を売れるだろうと判断し、老婆が高値でヒューマンショップに売りつけ、天竜人に買わせるつもりだったのだろう。何故、今迄考えようとしなかったのだろうか。不自然な点は沢山あったのだ、気付いても可笑しく無かったはずなのだ。何故。ウィルは今更になって悔いる。


「…まさか」


大きなの瞳が見開かれ、その瞳の奥が揺れている。非常に戸惑っており、まるで信じられないとでも言うかのように、顔を横に振るような動作を見せた。震える拳を強く握り、は黄猿に言う。


「黙認してるの…?政府も海軍も…知ってて知らないふりしてるの!?」


其れは誰もが知っている事だった。海軍は勿論、一般人すらも。言わずとも知っている、暗黙の了解だった。しかしは知らない、知るはずも無い。思いもしなかっただろう。正義を掲げる組織が、人身販売を黙認しているだなんて。此の世界で天竜人という存在がどれだけ大きな存在であるかすら、は知らないのだろう。


「…ヒューマンショップはァ…職業安定所だよォ…」


故に黄猿が静かに告げた、その言葉は、重くには圧し掛かっただろう。は顔を歪め、また一歩、一歩と後退する。そして黄猿から周囲に視線をやると、黄猿の後ろに呆然と立ち尽くすウィルを見て、ゆっくりと口を開く。


「あたしを売る為に近付いたの…?」


その声は酷く震えていて、とてもじゃないがウィルはを直視出来ないでいた。その顔は歪みに歪んでいたからだ。


「だからあの日助けたの?だから…優しくしてくれたの…?」


問いかけられてもウィルには返す言葉がなかった。何も言えなかった。そんなつもりで助けたんじゃない、そんな事情があったことも知らなかったんだ。否定の言葉は頭の中を駆け巡るというのに、それが声にならない。どの言葉もには響くこともなく、只の言い訳にしか聞こえないだろうから。


「答えてよ!!!」


が怒鳴る。悲痛な声だった。しかしそれでもウィルは何も言わない。言えなかった。は絶望したような表情を見せると、ゆっくりと顔を俯かせる。そして震えを抑えるように強く握っていた拳を力を抜いて掌を開けば、は顔を上げてウィルを睨み付けた。憎悪、嫌悪、その様な感情で淀み汚れた瞳にウィルの姿が映る。


「騙したのね…」


の言葉が深くウィルの胸に突き刺さる。


「全部嘘だったのね!!」


刹那、の身体から眩い光が飛び放たれる。青白く歪に不気味に光るそれは、とても美しいものに一瞬見えたが、の心情がこの光に表現されているかのようにも見え、とても恐ろしくも映った。










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