悲しむ暇は無かった。逃げることに無我夢中だったからだ。




シャボンディ諸島で黄猿を前にし逃走を図った時、決して逃げ切れる自信は無かったが、それでも逃げずにはいられなくて全速力で駆けた。何気なく後方を振り返ると追ってくる様子はなく、追っ手が迫る気配もない。困惑しながらも幸いだと思った。危険は百も承知でウィルの船へと向い、武器の銃と弾丸の詰まった袋を引っ掴んで、船に緊急用に乗せていた小型の船を出した。




航海術はウィルに少し教わったり、本で読んだ程度の知識しか無かった為、とても苦戦する日々だ。天候が悪く荒れた波の時は、心臓が破裂するのではないかという程に恐れた。船が万が一、引っくり返るようなことがあれば、能力者になった自分はそのまま溺死してしまうからだ。




しかし問題は航海術だけではなかった。毎日何かしらの追っ手が襲ってくるので逃げ回る日々が続いていた。時には海の上で。時には立ち寄った島で。何時何処で誰に見つかり襲われるか分からない。不安で眠れない日々が何日も続き、嵐の夜に一人で物陰にひっそりと隠れて野宿する日もあった。たまたま通った島の路地に貼られていた、真新しい手配書を見て酷く驚いた事は未だ記憶に新しい。自分の手配書が発行されているだなんて露程にも思わなかったからだ。そして自分を見かけた人間が、賞金目当てで海軍に通報している為、直ぐに見付かるのだと気付いた。それからは目深くフードや帽子を被る様になり、顔や容姿を隠すようになると以前程直ぐに見付かる事は無くなった。




何も追い回されるのは海軍だけではなかった。腕に自信のある男達からも突然奇襲を受けることも多かった。彼らの大半は賞金稼ぎという枠組みの人間で、自分に掛けられた賞金を目当てに襲ってきていた。そして稀に只の腕試しだとか、目に留まったからとか、そんなチンピラのような理由で襲ってくる人も居た。手配書には生きたまま捕えよとALIVEの文字があるにも係わらず、時には刃物を振り上げ殺そうとしてくる人も居た。でも未だ死にたくなかったし、誰も助けてくれる人は居なかったから自力で死に物狂いで逃げた。




ゴロゴロの実を手に入れ、実体の無い身体になったとは言っても、銃を向けられれば怖いし、刃物が迫ってくれば目を瞑りたくもなる。実際、能力を上手く使いこなせず、頻繁に体中に静電気を発生させている事が多く、コントロールに試行錯誤する日々が続いていたので、本当に実戦で毎回実体の無い身体として機能するのか不安が拭えなかった。だから毎回反撃は最低限だけして、後は迷わず逃げ出した。




逃げた。



逃げ回った。



逃げ続けた。



逃げる事しか出来なかった。



だって怖かったから。



自分を狙う人達の瞳が。



自分を見る人達の瞳が。




人に会うと皆が敵に見えてしまい、とてもじゃないが落ち着けなかった。人に会う事が怖くなった。人と話す事が億劫になった。人の目を見る事が出来なくなっていた。だから幾つかの島を過ぎ、辿り着いた人の居ない無人島に辿り着いた時、ほっとしたのだ。緑が生い茂り、とても人が住めるような環境じゃないジャングルで漸く肩に入りっ放しだった力が抜けて、張り詰めていた糸が切れた。




悲しむ暇は確かに無かった。逃げることに無我夢中だったからだ。




だから、逃げる必要のないこの森の中では悲しむ暇が有った。




凄く凄く怖かった。一気に身体が震え出した。何時までも大声を上げて泣き続けた。どうして違う世界から来たというだけでこんな目に遭うのか理解出来なかった。誰を信じたら良いのか分からなくなった。誰も信じられなくなった。世界が堪らないくらい怖かった。世界が抑えられないくらい恨めしかった。自分だけが味方だった。自分以外が全て敵だった。自分を裏切らないのも自分だけだと気付いた。




そして全部ぶっ飛んだのだ。悲壮も、憤怒も、怨念も。島に来てから彼是数日が経つ。その間、泣いて、喚いて、暴れ、発狂し、気が狂ったかのような行動を何度も繰り返していた。力任せに木を殴ったり、すり抜けるのを理解しながらも地面に頭を叩き付けたり木の枝を腕に刺したりもした。只のヒステリーな女だ。けれど、ある日全てが消えたのだ。ぶっ飛んだ。悲しみや怒りが埋め尽くされた頭の中が、一瞬にして消え去ったのだ。きっかけは大した事じゃなかった。只、自分の感情を整理してみただけだった。




元の世界に帰りたい。



死にたくない。




それが願い。それが望み。だから世界に帰る事にした。死なない事にした。世界に帰る方法は分からないから探す事にした。死なない様に強くなることにした。単純な考えだ、それが何より難しい事は理解している。そして非常に抽象的で曖昧なものであることも自覚していた。帰る方法を探すといってもどうやって?強くなる為に何をする?疑問は絶えない。しかし敢えて考えないようにした。もうこれ以上何も考えたくなかったからだ。考えることを放棄した。









そうと決まれば後は早かった。島を出て向かった先は以前訪れた事のある島だ。何処でも良かったといえば何処でも良かったのだが、何故わざわざ自分が訪れる可能性があるとマークされていても可笑しくない島に、危険を犯してまで着たのか、自分でも分からない。少しの懐かしさを感じながら、何処かで盗んだマントのような大きな布のフードをかなり深くまで被り島を歩く。角に立地する廃れた店が見えれば、迷わず店のドアを開けた。からん、からん。そんな音が店内に響き渡った。


「…御嬢さんは…」

「ホルスター、置いてます?」


店主、ローリーは目深く被ったフードの下から見えた顔に大きく目を見開き驚いた。しかし、表情一つ変えない少女を見ると目を細め、重い腰を持ち上げる。


「此処にある。好きなものを持って行け」

「………。」


棚に並べられた様々なタイプのホルスターを見ると、徐に少女は纏っていたマントをその場に脱ぎ捨てた。ふわりと舞う、ウェーブを描いた長い黒髪と白い肌。以前なら光を放っていた漆黒の瞳は、伏せられ感情がまるで読み取れない。少女はホルスターを手に取れば、ヒップホルスター、ショルダーホルスター、レッグホルスターと体中にホルスターを装着する。そして担いでいた麻の袋から以前購入した銃達を取り出せば、グレイマンをショルダーホルスターに、散弾銃二丁をヒップホルスターの左右腰に、自動拳銃をレッグホルスターの左右太腿に入れ、完全武装を果たすと、まるで銃を隠すかのように上からマントを羽織り直す。


「手配書が出回っておる」


唐突にそう告げたローリーに少女は一瞬視線をやるが直ぐに視線を外すと、もう用は無いと言わんばかりに背を向けて店を出ようとする。しかし後方から突如飛んできたナイフに気付けば、少女は身体を横に逸らしすぐさま直ぐ様グレイマンを引き抜き振り返った。


「…分かっておろう。敵意はない。グレイマンを下げな」

「………」

「そのナイフは餞別代りだ。うちは銃専門店で本来ナイフは置いておらんのだが…良いものを見かけてな、売らずにとっておいたもんだ。…持ってさっさと去れ。先程、軍艦がこちらに向かってきとると聞いた」


ローリーは言いたいことを全て言い切ると再び腰掛けていた椅子に腰を下ろして背中をゆっくりと背凭れに預けた。少女はドア枠に突き刺さるダガーナイフを一瞥すると、グレイマンをホルスターに直しナイフを枠から引き抜いて、其れをヒップホルスターのベルトに引っ掛ければ店のドアを押した。からん、からん。来た時と同じ音が鳴り、少女は顔を隠すようにフードの先を引っ張って外へと出る。途中、店の玄関口で入れ違いになった若い女性は驚いた表情を見せると駆け込むように店内へと入り、カウンターで腰掛けるローリーに言うのだ。


「おじいちゃん!今のって…」



















其処は相変わらず湿気が酷く、淀んだ空気でカビや埃等の独特な異臭を放っていた。時折擦れ違う人々が獲物を狙うかのような瞳で見てくるが、強く睨み返せば誰も手を出してくる事はなかった。路地を進み、細い道の道中で立ち止まり空を見上げる。昇っていた日も落ち始めており、群青と朱色が交じった薄暗い空が広がっていた。あの時と全く同じだった。あの時と同じ場所で同じ空を見ていた。


「………。」


しかし何処を見渡せど、あの日立ち寄った近所の本屋も、店前に停めていた愛車の赤い自転車も勿論無い。少女は再び歩き出した。歩き慣れた道を迷わず右へ左へと歩いて行く。転がるゴミも、倒れた人にも見向きもしなかったのだが、ふと路地の隅に仰向けで倒れている子供に目を奪われた。


「………。」


あの時の子供だった。鬼の形相で襲い掛かって来、鞄を奪い取ろうとしてきた一回り以上年下の幼い子供が、骨と皮だけになっていた。餓死したのだろう、仰向けで大きく口と目を開いて倒れている。少女は目を細めるが直ぐに視線を正面に戻し、再び止まっていた足を動かした。建造物の間を縫うように突き進めば布やガラクタ等で作られた一見ゴミの山の様な家に辿り着いた。少女はその家へと向かっていくと、遠慮の色一つも見せずに家の入り口に当たる部分に吊り下げられた布を捲り上げた。


「…誰だい」

「………。」

「誰に許可を得て…この家に勝手に入って来てるんだい!!!」


非常に鼻に付く異臭が充満した薄暗い室内には一人の老婆が居た。最初は大人しげに此方を見ていた老婆だが、少女が返事を返さないでいると表情を一変させ、声を荒げ立ち上がり、近くに転がっていた錆びた包丁を振り上げ襲い掛かろうとする。が、その行動は眉間に突き付けられた銃により老婆はぴたりと動きを止めた。


「チッ…。何なんだい、そんな物騒なもんを突き付けるために来たのかい!?」


しかし威勢だけは相変わらずのようで、老婆は銃口を突き付けられているのにも関わらず一瞬怯んだだけで、また吠える。手に握ったままの錆びた包丁を振ることはないのだが、その代わりに老婆の舌が良く回るのだ。少女は一人文句を言い続ける老婆に銃口を押し付けたまま、片手で目深く被ったフードを脱ぐ。隠れていた、その下の素顔を見れば、老婆は忽ち目を見開き、先程まで休む間も無く流れ出ていた言葉もピタリと止まった。ガタガタと身体を震わせ、老婆はその場に崩れるようにして尻餅を付き、少女を見上げる。薄っすらと細められた漆黒の瞳が鈍く冷たく光った。


「…ぁ、…アンタ…」

「………」

「あたしを…殺しに来たのかい…?」


老婆は身体を震わせ、青褪めながら少女を見上げる。少女は表情一つ変える事すらなく、ただ老婆を見下ろしていた。


「…エリッサさん。あたしは殺しに来たんじゃない」


少女は老婆、エリッサの視線と同じ高さになる様にその場に膝を着くと真っ直ぐエリッサの瞳を見る。エリッサは酷く動揺し、瞳をあちらこちらと忙しく動かしていた。少女は徐にエリッサの前髪を引っ掴み、そのまま覗き込むように顔を近付ければ、エリッサは小さく悲鳴を上げた。


「会いに来ただけ」

「…っ、」


エリッサは息を呑み、目の前の少女を見つめた。こんなにも凍てつく様な雰囲気を纏わせる少女だっただろうか、只々エリッサは動揺する。少女はエリッサの髪から手を放すと、ゆったりとした動作で立ち上がり、エリッサに向けていた銃をだらりと下ろす。


「この世界は酷く息苦しくて、苦しくて、悔しくて、憎くて、恨めしい」


少女はそう呟き、背を向けるとエリッサは奥歯を強く噛み締める。その目はギラギラと光り、握ったままの包丁を強く握り締めれば、音を立てないようにして立ち上がり、エリッサは再び包丁の刃を少女へと向けた。しかし、今にも振りかぶろうとした所で少女がエリッサに振り返ったのだ。


「会いに来たとは言ったけど、殺さないとは言ってない」


エリッサは声にならない悲鳴を上げた。手に持っていた刃物が、するりと掌を滑り床に落ちる。何かをされたわけではない、ただこちらを真っ直ぐ見据える無機質な少女の瞳が、とてつもなく恐ろしかった。


「もう違う世界の事とかバレてるけど、これ以上何かあたしの情報漏れたら困るから」


少女はエリッサへと一歩、また一歩と歩み寄る。その度にエリッサは後退るのだが、背中が壁にぶつかるとエリッサはいよいよ逃げ場を失い、少女に命乞いをする。


、ま…待て…」

「気安く名前を呼ぶな」


少女はエリッサの顔の横にそっと手を着く。そして耳元で囁きかけるように言うのだ。


「仕方ないよね。エリッサさん、貴女はとても卑怯で下劣で馬鹿で、そして口が軽い御喋りさんだから」



エリッサは壁を伝ってずるずるとその場に座り込む。もう立つ気力もなく、言葉を発することの難しいエリッサは、ただ怯えながら少女を見上げることしか出来なかった。少女は笑わない。少女はそれ以上何も言わなかった。そして少女は青い稲妻が迸った右手で、エリッサの顔を鷲掴みにした。










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