辺りは一面の雪景色になっていた。至る所に積もった雪は、溶ける事無く其処に存在し続け、先程まで晴天だった事をまるで感じさせない。が船室を出てから数十分が経つ。肌寒さを感じ、両手を擦り合わせるように摩っては己の手に息を吹きかけた。白い息が指先が赤くなった手を包む。


「(コート着てて良かった…)」


先程までの暖かい気候には少々辛いものがあったが、武器を隠す役目もあり脱がずにいたコートが此処にきて大活躍である。はまた、指先に息を吹きかけた。


「………っ、!」


そんな時である。勢い良く扉の開閉の音が聞こえ、後方に気配が現われたのは。息を呑み、声を掛けてくる様子も無く、ただ此方を窺っているだけ存在には溜息を吐く。白い煙がふわりと舞った。


「なに?」

「…お前も俺を殺さないのか?」


後方に振り返りながらが声を投げかけると、先程からを不躾に見ていた少年は表情を歪ませてにとんでもない質問を投げかける。穴の開いた手袋を嵌めた小さな手を、これでもかという程に強く握り締めて。


「殺す理由がないよ」

「あるだろ!俺はお前達を殺す為にこの船に…!!」


子供相手に大人気ないだろうか、は自身の眉間に皺が寄るのを感じながら冷めた目付きで少年を見た。途端、恐怖からか身体を一度震わせ、視線を泳がせる少年。子供が嫌いなわけではない、先程の少年とナミとのやり取りを傍観していた時から、は少年を好むことが出来なかった。其れは命を粗末に扱うからだろうか。そして不名誉な事に少年はが麦藁海賊団の一員だと思っているらしい。


「とっととやれよ!どうせ殺すんだろ!?分かってんだよ!!!」

「…うるさい」


命を軽く扱う事も好ましくないが、何よりもっとを不快にさせたのはを海賊だと勘違いした事だ。咄嗟に声を荒げてしまいそうになるのをぐっと堪えて、静かに搾り出した四文字の言葉。少年は恐怖に一度身体を震わせれば睨み付けていた瞳も泳いで俯く。海賊に間違われただけで幼い子供相手に酷い言葉だと理解しているものの、内に秘めた海賊への感情がどうしても上手くコントロール出来なかった。出来るだけ優しい声になるよう努めては震える唇を開く。


「…ほっといて」



















少年は意外と素直でがそう告げれば速やかに踵を返した。船室を出た先、階段の隅で顔を埋めて座る少年は何かを発する事も無く、静かに其処で座っている。少しの罪悪感を抱きながら、は知らぬ振りを決め込んで海を眺めていた。


「さっきまで良い気候だったのにな。グランドラインの気候ってやつはよく分からん」


微かに聞こえた扉が開閉する音に続き、此方に向かってくる足音。誰かが船室を出て、此方に歩いて来ていたのは気付いていたが、それはコックのサンジだったらしい。横目に少年の方を見れば、丁度サンジが少年に毛布を投げかけている所だった。


「風邪引くんじゃないかって、うちの船医が心配してるぜ」


毛布を頭から被った少年はぴくりとも動かない。しかし其れを気にする素振りもないサンジは階段に座り込むとポケットから煙草を取り出して火を点けた。


「ナミさんは小さい時に海賊に親を殺されてんだ。しかもその海賊につい最近まで道具として扱われてたんだよ。クソみてぇな8年間だったとさ。ああ見えてトナカイもハードな過去の持ち主なんだぜ。他の連中もよ。まぁ、似たり寄ったりだろ。生きていこう思うとよ、結構辛いことばっかりだったりするんだな。それでも、生き抜けば見える明日ってあるんじゃねぇの?」


まるで独り言のように語れば、サンジは静かに紫煙を吐き出す。一面白景色の世界の中に、灰色がかった煙が空に分散した。勿論少年はサンジの話に相槌を打つことはない。


「今はまだ分かんねぇか」


サンジはゆっくりと腰を上げると少年には見向きもせずに立ち上がり、歩き出す。その際、少年が少しばかり顔を上げたのが見えたが、サンジは果たして気付いたのだろうか。ふと交差するサンジとの視線。サンジは人の良さそうな柔らかい微笑を浮かべると真っ直ぐに向かって歩を進める。咄嗟には視線を逸らし、口を一文字に噤んだ。


「レディ、風邪を引かれると大変ですから、どうぞこれを」

「いらない」

「しかし…」

「いらないって言ってるでしょ」


サンジが差し出した毛布。身体の芯まで冷え始めてきた頃には、とても有り難いアイテムなのだが、どうしても其れをが受け取る事は出来なかった。海賊に恩など売ってしまえば後にどうなるか分からないからだ。


「レディ…」

「うるさい」


困ったように眉を下げたサンジに、止めを刺す。暫く口を噤み苦笑を零したサンジをは立ち去るのを待った。長い沈黙が二人の間で続く。しかしサンジは立ち去らず再び口を開くのだ。


ちゃん、だよな?」

「何で、名前…」


サンジの口から零れた名に、思わず目を見開いて振り返る。一度も名乗った覚えの無い自身の名を言ったサンジは、驚愕の一色に染まったを見て妙に嬉しそうな顔をしていた。


「ロビンちゃんが教えてくれたのさ」

「…気安く呼ばないで」


突き放すように言い放ち、再びは顔を逸らす。ロビンといえば、の異名を知っていた女性の名だ。大方、ロビンはの手配書を見た事があるのだろう、内心では舌打を零す。厄介な女だと再認識した瞬間でもあった。


ちゃんは何でそんなに海賊が嫌いなんだ?…ってまぁ、嫌わない方が普通か」

「………」

「俺達も嫌いだよな」


サンジは煙草を片手に笑った。子供を安心させるような、柔らかく優しい微笑みだった。は無言を貫く。サンジはフィルターに近くなり短くなった煙草を最後に一吸いすれば其れを海へと投げ捨てる。白い景色の中、消えていった小さな火は一瞬にして見えなくなった。


「なぁ、良かったらちゃんが思ってること話してくれないか」


サンジは視線をに合わせるようにして腰をるが、断固として視線を合わせまいとするの視線の先には相変わらず白い景色が広がっている。続く沈黙、これ以上はサンジにも引くつもりはないようではとうとう呟くように、しかし自主的に言葉を発した。


「…あたしには理解出来ない」

「ん?」


あまりにも小さな声にサンジは首を傾げた。煙草を一本吸い終わった後だというのに、もう次の煙草が欲しくなる。欲望に耐え切れず、ポケットからもう一本取り出したのなら迷わず其れを口に銜えて火をつけた。紫煙が舞う世界の向こうで、忌々しげに此方を睨むの姿が見え、サンジは思わず火をつけたばかりの煙草を落としそうになった。


「クソみてぇな8年間を過ごした癖に自分も海賊なってんじゃない」


放たれた言葉はサンジの心を凍て付かせる。冷たい声に滲んだ憎悪。真っ白な紙の上に零された墨汁のように、はとても“黒”だった。どれだけの思いを海賊に抱いているのだろう。一点の曇り無く、ただただにあるのは憎しみの気持ちで、それが嫌という程に伝わってくるのだ。


「海賊の仲間入りなんて理解が出来ない」


吐き捨てるように言えば、はサンジから視線を外し俯いた。船の縁に置いていた手は、強く強く縁を握っており指先は真っ白になっている。は一度瞼を下ろし、白い世界から遮断された何も見えない黒の世界に浸った。白よりも黒の世界の方が落ち着く。白だと自分の汚い憎悪や怨念等の感情が浮き彫りになってしまうから。だから黒をとても好んだ。時折その世界に飲み込まれそうで恐ろしくもあったが。


「あたしは絶対に許さない」

ちゃん…」

「もうほっといてよ!!」


サンジが静かに名を呼べば、其れを拒絶する様には声を荒げる。サンジは何も言えなくなり、一度目を伏せると「悪かった」と謝罪の言葉を残して其の場を離れた。遠ざかっていく足音を聞きながら、は下唇を血が出るまで噛み締める。ぷつり、と小さな音の後に口内に広がる鉄の味。


「何だよ、って子は兎も角、アイツにもやけに優しいじゃねぇか」

「にしししし!」

「そういや…何でだ?」


後方ではサンジと言葉を交わすウソップとルフィの声が聞こえてくる。どうやら二人も様子を見に出て来たらしい。其れさえもには鬱陶しく感じられ、笑い声が妙に癇に障った。強く瞼を閉じ、手を握る。世界から孤立するように、自分の中に閉じ篭ろうとした。










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