夜の潮風はとても心地が良かった。しかし純粋にその風に身も心も委ねられずに居たのは、つい先程の出来事の所為だ。怒りが未だに収まらず、表面には出さないもののの心情はとてもじゃないが穏やかとは言い難かった。
「俺はモンキー・D・ルフィ!海賊王になる男だ!」
その言葉が今でも頭から離れない。海賊王、すなわち其れはゴールド・ロジャーを意味する言葉でもある。ルフィはゴールド・ロジャーに憧れ海に出て、海賊となったのだろうか。やはりゴールド・ロジャーはとんでもない影響を世界中に与えてくれたようだ。忌々しい。以前立ち寄った島の図書館で読んだ歴史の本に載せられていた、処刑台の上で口角を吊り上げ笑った黒髪の男を思い出す。
「(あれ…)」
そしてはふと顔を上げた。
「(モンキーって…誰だっけ)」
右手で軽く額に添えて瞼を閉じる。モンキー・D・ルフィ、そう名乗った麦藁帽子を被った笑顔の似合う青年。以前に何処かで聞いたようなファミリーネームに薄らいだ過去の記憶を懸命に辿る。何処かで聞いた名、あれは何時だったか。新聞で見たのか?違う、何処かで聞いたような気がする。ルフィの笑顔が脳裏に蘇った。そしてその笑顔に、とある人物の豪快な笑顔が重なった。
「あ…」
は思わず声を漏らす。覇気の師であるガープのファミリーネームもモンキーだった。ただの名が同じだけで他人なのかとも考えたが、その割にはあの笑顔が似すぎているような気がしてならない。やはり血縁者なのだろうか。そうなるとまた不可思議な疑問が生まれる。ガープは海兵だ。なのに何故ルフィは海賊なんてものをしているのだろうか。
「ちゃん」
「………」
「昼も食べてなかったろ。ちゃんと食べねぇと体にもお肌にも悪い」
背後からかけられた声。顔だけ振り返ってみれば、困り顔をしたサンジが其処に立っていた。珍しく煙草を銜えていないサンジは一度笑みを零すとに歩み寄る。その手の中には長方形型の白い皿があり、乗せられた三角形の海苔の巻かれた至ってシンプルなおにぎりが三つ並べられている。白い湯気が薄っすらと上がっている辺り、わざわざ握ってきてくれたようだ。
「勿論毒なんか入れてねぇよ」
「…いらない」
「そうか」
とても美味しそうなおにぎりだった。それは御世辞でも嘘でもない、本心だった。しかし受け取ることが出来ないのは、相手が海賊であるからだ。何が混入されているか分からない、海賊の世話になるつもりも毛頭なかった。悲しげに笑ったサンジの表情が妙に胸を騒がせたが、は気付かぬふりを突き通す。
「なぁ、ちゃん」
「気安く名前、呼ばないでって言ったよね」
「…俺じゃ駄目か?」
何時の間にかの隣に並んで立ったサンジが零した言葉には思わず目を見開いて顔を上げた。見上げた先には優しい表情をしたサンジがいる。妙に真剣な雰囲気を纏って言うものだから、は返す言葉が見つからず黙り込む。そもそもサンジの問いの意味をは理解する事が出来なかった。サンジは船の縁に手をかけると、反対の手で持っていたおにぎりを乗せた皿を縁の上に置き、から視線を外し夜の海を眺めながら静かに言う。
「ちゃんが一体何に苦しんでるのか分からねぇが…それから俺は助けてやりてぇと思ってる。勿論、俺だけじゃなくて他のクルー達もな」
海を眺めたまま言うサンジはとても絵になっていて、その声色もとても優しい。は下唇を強く噛み締める。サンジの言いたい意味を理解したのだ。
「過去に海賊と何があったのかは分からねぇ。…けど、これからはそんな思いさせねぇ」
サンジは振り返りを見る。俯いたの表情は見えない。サンジは静かに言葉を繋ぐ。
「だから、俺達を頼って欲しいんだ」
サンジはとの距離を詰めると、その細い華奢な肩に手を伸ばした。一体この小さな体にはどれだけのものが背負われているのだろう。抱いた海賊への憎悪が、彼女を押し潰してしまうのではないかとサンジが思う程に、がとても小さく見えた。ふわり、吹いた風に乗せられの黒髪が舞う。サンジの手がの肩に触れようとした時、サンジの手は乾いた音を立ててによって弾かれた。
「―――い―――――よ…」
「え?」
掠れた小さな声で何を言ったのかが分からずサンジは声を漏らした。俯かれ、見えなかったの表情が、が顔を上げたことによって露になる。歪んだ表情に寄せられた皺、怒りと悲しみとあらゆる感情を乱雑に混ぜ合わせた痛々しい表情に、サンジは言葉を失った。
「ほっといてって言ってるでしょ!!なんでほっといてくれないの!!」
放たれた怒声をサンジはただ呆然と聞く。息の荒いは、強くサンジを睨みながら牙を剥いた。サンジのお節介な言葉は、の心を抉り、まさに火に油を注いだようなものだったのだ。今のには誰の言葉も届く事は無いだろう、の頭の中ではあらゆる記憶蘇っては過ぎ去っていく。記憶の中で、海賊の男達の下品な笑い声が響き、海兵の男達の笑みが浮かんで、老婆の気狂った悲鳴と、守ると言ってくれた青年の言葉と笑顔が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。瞳の奥が熱い。
「あたしは…この世で一番!」
は言葉を詰まらせる。
「海賊が大嫌いなのよ!!」
息苦しい。熱い何かが零れ落ちて頬を伝った。まるで癇癪を起こした子供のようには感情のままに言葉を吐き出す。
「何で構うの、鬱陶しいのよ!!いい加減にしてよ!冗談じゃない!!」
サンジは何も言わない。怒りを此処まで露にし、声を荒げるをただ呆然と見ていた。声を荒げきったあとのは、幾度か大人しくなり、肩を上下に何度か動かすと先程とはまた違った瞳でサンジを見た。鋭い刃の様だった。
「ほっとけば良かった」
随分と低い声にサンジの背筋に嫌な汗が流れる。生気のない据わった漆黒の瞳に驚いたように目を丸くするサンジの姿が映っている。
「海賊なんてみんな死ねばいい」
あの時、見聞色の覇気で探していなければ、ナミに居場所を教えなければ今頃目の前のサンジも、此処には居ないゾロも最後まで見つからずあの大型海王類の巣食う海に落ちたままだったのかもしれない。そのまま喰われて今頃胃の中に居たかもしれない。何故あの時、そうしなかったのか。後悔と、その時の自分を酷く嫌悪した。
「もう話しかけないで」
「…悪かった」
冷たく言い放たれた言葉は氷の様で、サンジはの顔も見ず静かに踵を返す。これ以上かける言葉が見つからない。船室に戻っていったサンジを見届けると、は重苦しい息を吐いた。視界の端に映った、白い三角形のおにぎりが、また更にを苛立たせる。
「―――――っ!!」
絶叫を上げるのをぐっと堪え、は船の裏手に周り壁を感情のままに殴りつけた。鈍い音が響き、拳がじんわり暖かい熱を帯び始める。壁には傷一つ残らなかったが、の拳はそれなりのダメージがあったようだ。しかしそんな事を構う素振りをは見せない。壁を突如殴りつけたのは只の八つ当たりだった。
「―――、―――――っ、―――!!―――――!」
やり場の無い感情をどうにか抑え付けようと、何度も何度も壁を殴りつけ、言葉にならない奇声を上げる。サンジの優しさだったのだろう、あの言葉達がの感情を掻き乱すのだ。
「大丈夫…?」
少し落ち着いた頃、真っ赤になり、所々出血した両手で顔を覆って、壁に背を預け座り込んでいた時。横からかけられた声に、ゆっくりと視界を遮る手を下ろして視線を向ける。動揺したような、怯えた様子すら見せる少年が、戸惑いながらも此方を窺っていた。
「姉ちゃんも海賊に酷い事されたのか?」
少年は静かにの隣に座り込むと、徐にそんな事を尋ねてくる。は口を開くも、それは言葉にはならなかった。また込み上げて来る熱いもの。制御の利かない感情に抗えず、鼻の奥がツンとして視界がぼやける。隠すように立てた膝に顔を埋めれば少年はそれ以上何も言わなかった。そして、少年はの隣から離れる事もなかった。
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