甲板の縁に両手を付き、項垂れたナミの背負う影は暗く重い。船の後方ではすっかり島は小さくなっており、代わりに今も尚追いかけてくる軍艦ははっきり見えている。軍艦との距離は少しずつとは言え、縮まりつつあり、うかうかしていられない状況なのだが、此の船の航海士が此の有様なのだ、誰も見て見ぬ振りをするのには限界があった。
「意外だな」
「何が?」
「賞金だよ。三億ベリーをあっさり諦めるとは」
「…しょうがないでしょ」
誰一人ナミに話しかける事が無かったのは、ナミが何に落胆しているか手に取るように分かっていたからだ。しかし理解していなかった物の一人であるゾロが口を開けば、予想通り、其れはナミの逆燐に触れる。瞳に涙を潤ませ、半泣きのナミはゾロの首を両手で絞めながら腹の底から怒鳴った。
「この状況でどうせえっちゅーのええ!?あの胴元よ、絶対そうよ、あいつガスパーデすら嵌める気だったのよ!!もう絶対許さないーーーーーーー!!!」
「まあ、いいじゃんか」
首を絞める手は強く、血液が脳に行かず真っ青な顔色のゾロと怒り狂うナミに、笑いながらルフィが制止の言葉を投げかける。子供の様な裏表の無い表情で笑いながら言うルフィの姿は、流石此の船の船長と言うべきか、此の場の空気を少しばかり和やかにさせた。
「くよくよすんなって!まだまだ旅は続くんだぜ、またなんかあるって!」
「そうだよナミさん、それに今はアレを何とかしなきゃだしね」
ルフィに続くようにサンジが口を挟めば、其の差す方には愉快にも歌を皆で合唱しながら追いかけてくる軍艦がある。追うのを止める様子はなく、陽気な空気を流しながら確実に近付いてくる軍艦にナミはゾロの首を絞める手を離すと重い息を吐くのだ。
「あーもう、私こんな貧乏海賊やだ…」
ぼそりと呟く様に吐き出されたのはナミの本音。しかし、次の瞬間切り替えるように表情を一変させると、先程迄とは打って変わった声色で船員達に指示を飛ばすのだ。
「おら!あんな船振り切って、とっとと次の島行くわよ!用意しなさーーーい!!」
「はあい!ナミすわん!」
「よーし!海賊王に向かって全速前進!!次なる冒険に向かってーー!行くぞ、みんなーーー!!」
目をハートにさせて返事をするサンジに皆がまたかと笑みを零し、ルフィが声を上げて笑う。ルフィの言葉に賛同する様に皆が声を揃えて同意の声を上げれば、船には普段と変わらない陽気な空気が流れ出す。明るい声が響く船、海は透き通る様な真っ青で、空は美しい蒼天だった。
「!お前もこのまま一緒に行こう!海賊は良いぞ、おもしれぇし!宝探しして、冒険するんだ!」
甲板の隅、一線を引くように距離を置いて立っていたに突如振り返り笑顔を振りまくルフィは腕を大きく開いて夢を語る。目をキラキラと輝かせながら海賊に勧誘する姿は無邪気で微笑ましいのだが、其れに笑みすら零す事無くは不愉快そうに顔を歪ませるのだ。
「馬鹿馬鹿しい」
「何だと!?」
吐き捨てるように放った言葉はルフィと共に海賊を語るウソップで、ルフィも気に入らなかったのか唇を尖らせている。は荒んだ瞳をルフィに向ければ、ルフィは逸らす事無く真っ直ぐの姿を瞳に映した。
「今、この船に乗ってるけど直ぐに降りるし、海賊になんかならない。一緒にしないで」
一度口を開けば、言葉は次々と口から零れていき、静かだった心も激情が湧き出す。もう歯止めが効かなくなっていた。
「前にも言ったけど、アンタが目指してる海賊王や海賊が、どれだけの人を苦しめてるか少しでも考えた事があるわけ?海賊なんて…存在が罪よ」
憎悪が込められ吐き出された言葉は、此の場に居る全員を敵に回すといっても過言ではないものばかりだった。しかし其れでの気が収まる事は無い。咄嗟に声を荒げようとしたウソップを静かに手で制するナミが視界の端で見えた。誰一人、麦藁海賊団の船員達はの言葉を遮断することは無く、は言葉を吐き続ける。
「海賊なんかが居るから、いけないのよ」
低く、呟かれる様に出た言葉に誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。やけに静かな海賊船での声だけが響く。
「息が詰まる」
其れが最後の締めくくりの言葉。暫しの静寂が船を包み込み、誰もが口を噤んでを見ている。居た堪れない様な重い空気が流れており、そんな空気を打破する様に表情一つ変えなかったルフィが、はっきりとした声色で言うのだ。
「海賊海賊ってさっきからお前言ってっけど、何でもかんでも全部海賊の所為にして何かあんのか?」
の視線とルフィの視線が交差し、両者の瞳には互いの姿しか映らない。は硬く握り拳を握った。優しい風が吹き、ふわりと浮き上がりそうになった帽子を押さえるように片手で頭を抑えながら、ルフィはから視線を外す事無く続きの言葉を吐く。
「何でもかんでも海賊の所為にして逃げてんじゃねぇよ」
「逃げてなんか…」
「お前何に怖がってんだよ」
まるで言い訳をするように力の無い言葉を返すが、其れは直ぐにルフィによって遮られる。真っ直ぐ己を見据える漆黒の瞳に視線を合わせられなくなり、とうとうは視線を外すように斜め下へと下げると、言葉を詰まらせて口を噤んだ。
「お前ひとりぼっちだから怖いんじゃねぇのか?だからそんなビクビクしてんだろ」
甲板の木目を無意味に眺めながら飛んでくる言葉を耳で捕らえ、意味を脳が理解する。言われた言葉に思わず顔を上げて恐る恐るといった風にルフィを見れば、ルフィは数歩前に踏み出しに近付くと口角を少しばかり吊り上げて笑った。
「ひとりぼっちが怖いなら、仲間が居れば怖くねぇだろ?俺の仲間になれよ!」
「あ、あんたに何が分かるっていうのよ…!」
「んなもん分かるわけねぇだろ、お前何も言わねぇもん」
目を細め、眉を垂らし、唇を尖らせて無愛想に不服そうに拗ねる様にして言うルフィの姿は子供のよう。そして徐に両手を腰に当てたなら、やけに誇らしげな顔付きで言うのだ。
「けど、これくらいなら俺にも分かる」
そして其れはの心に酷く突き刺さった。
「お前、居場所が欲しいだけだろ」
まるで金槌で頭部をぶん殴られた様な衝撃。呼吸をするのも忘れて呆然の目の前の麦藁帽子を被る青年の姿を瞳に映す。血の気が引き、末端には感覚が無く、ちゃんと二本の足で立てているかすら危うかった。息苦しくなって来た所で漸く酸素を吸い込む。浅い呼吸を何度か繰り返した後、口から零れたのは何とも弱々しい小さなものだった。
「あたしは…仲間なんていらない」
―――――もう一人は嫌
「この世界に居場所なんていらない…」
―――――誰か傍にいて
「あたしは…誰とも一緒に居たくない。海賊や海軍なんかとは…絶対に!!」
―――――もう傷付けられるのも裏切られるのも、イヤ
言葉は溢れ、逆上する感情に比例する声量。怒鳴りつけるように、荒れた瞳で目の前の青年を見た。絶対に触れていたいけない禁句のワード、そんなものがあったとしたなら、其れは今、ルフィが口にした言葉だろう。吐き出された言葉とは反する懇願するような言葉がの頭には流れる。違う違う違う違う違う違う違う違う!脳内を飛び交う言葉を否定する様に自分に言い聞かせ、思考を排除しようと頭を左右に振った。ルフィが、強い眼差しで此方を見て、言った。
「じゃあなんでお前、そんな泣きそうな顔してんだよ」
全ての感情が一瞬にして消え失せ、身体中を廻る血が一瞬にして冷め切り、何もかもが止まった。時間でさえも、此の瞬間だけは止まった様にすら感じたのだ。やけに冷静な思考で、瞳で、青年を見る。そして此の感情の名に気付いたのだ。
「あたし…」
無意識で出た声は思っていたよりも、はっきりとした芯のあるもので意外と自分は大丈夫そうだなと、まるで他人事の様に思う。
「貴方がこわい」
初めて怖いと感じたのは、雷が効かないと分かった時だろう。しかしあの時とはまた違った恐怖がに纏わり付く。
―――――あたしの心を見透かしてるようで
「貴方が、すごく怖い」
此の船はとても温かい。海賊船だというのに、只の冒険家や旅人の船のよう。認めはしなかったが、そう感じていたのも事実である。其の温かさを受け入れてしまえば、忘れたい過去の記憶が沸々と蘇ってくるのだ。―――――そう、まるでウィルの船に乗っていた頃の様な温かさ。
「!」
脳裏に蘇る、あの笑顔。
優しい声で、そんな笑顔で、呼ばないで―――…
「あたしはもう誰も信じたりしない!!」
其れは悲痛な叫び。訴え。直後響く爆破音に、派手に飛び跳ねる水飛沫。後を追いかけていた軍艦が砲弾を撃って来たのだ。先程迄、あれほど愉快に合唱をしていたというのに、今は野太い声を上げて目の前の海賊船を沈める事だけに集中している。
「撃って来たぞ!」
「全員其々配置!一撃でも食らうんじゃないわよ!!」
当たる事は無いものの、放たれる砲弾は海賊船のすぐ近くの水面へと落ち、いつあの鉄の塊が海賊船に穴を開ける事になるか分からない。止む事のない砲弾の嵐に、これまで通り素知らぬ振りして航海する事は難しく、麦藁海賊団の船員達は慌しく船を駆け回りだす。
「おいルフィ!お前も仕事しろ!」
「おう」
忙しく駆け回る船員と、降ってくる砲弾から巻き起こる爆風と水飛沫の中、対峙するように向き合ったまま微動だにしないとルフィだったが、時折船に向かってくる砲弾を蹴りで弾くサンジがルフィに声を掛けた事によって交わっていた視線は逸らされる。一瞬の隙、その視線が確かに外れた刹那、は一気に駆け出した。
「あ!!」
「ちゃん!?」
力強く甲板を蹴り上げ、自分の持てる最高の速度で船首から船尾へ向かって船の上を全速力で走る。周囲に一切視線を向けず、ただ前だけを見て走った。
「何考えてんだアイツ!?」
「まさか…!」
最後に踏んだ一歩は強く船の縁の柵を叩き付け、は勢い良く、高く空へと飛躍する。を見ていた船員だけでなく海軍までもが、あんぐりと口を大きく開いて其の姿を見ていた。太陽の光で逆光を浴びながら、最高到達点まで行くと、の身体はゆっくりと放物線を降下していく。
「お前…」
激しい爆音が響く中、の耳にルフィの声が届いた。すとん、と軽い音を立てて着地した船の柵に佇みながら、は振り返りもせず目の前に視線を配らせる。周囲はどよめき、海賊船を攻撃する砲撃も一瞬止んで、突如海賊船から軍艦に飛び移ってきた黒いコートを纏う少女を誰もが見上げていた。少女の纏う黒いロングコートが潮風に流されて靡く。
「…ああ、もう…」
ぽつりと呟く声は虚しい。
「息が詰まって、息苦しい」
重苦しい息を何とか吐き出し、柵から飛び降り甲板の床に降立てば男達をぐるりと見渡した。以前は其の制服の意味が分からなかったが今は違う。白と青を基調としたデザインの服に吐き気を覚えながら、コートの下に隠し持っていたダガーナイフを引き抜き、無造作に構えれば、海兵達は其々剣や銃といった各々の武器を戸惑いながらも構える。
「お前も麦藁の仲間か!?」
「まて!こいつ…」
「“異世界の雷姫”だ!」
「何故麦藁の船に!?」
「ええい、仕方ない!まずは異世界の雷姫の確保だ!!」
戦意を取り戻し、少しずつを取り囲むように近付いてくる海兵達。周囲に目を配らせながら、少しばかり腰を落とし、いつ攻撃されても対処出来るよう神経を尖らせる。
「ーーーーーー!!!」
後方、麦藁海賊団の船からルフィの声が飛んで来た。しかしは振り返らない。振り返るつもりもなかった。
「止めとけ!危ねぇぞ!!無謀だーーー!!」
「そうだよ!!早くこっちに戻ってくるんだ!!」
「ちょっと聞こえてるんでしょ!?早くしなさいよ!!」
ルフィだけじゃない。ウソップや、チョッパー、ナミの声まで飛んでくる。背中に刺さる無数の視線と、浴びせられる戻って来いという言葉達。全てが無性にを苛つかせた。
「殺してはならんぞ!無傷で捉えよ!!」
正義と書かれた白いコートを着用する屈強そうな強面の海軍将校が指示を飛ばせば、一斉に剣を振り上げ、襲い掛かってくる海兵達。其れを振り上げられた刃は日の光に反射して光り、其の鋭さを物語る。
「な…っ」
床を蹴り、腰を低く落として海兵達の懐に入れば、まるで流れる様に舞うように海兵達の利き腕の筋をダガーナイフ一本で斬り裂いて行く。赤い血が飛び、剣を取り落として悲鳴を上げる海兵達を尻目に、襲い掛かる敵を次々とは斬っていった。
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