「食べないの?」


しゅん、と悲しそうな表情で白熊はそう言った。しかしは反応を示すどころか視線すら其方に向けることもせず、小さな窓から見える夜空を見上げる。白熊との間には小さなお盆に乗せられた質素なものの栄養バランスを考えられた食事が乗せられており、白い湯気を上げていることから、その食事が作りたてである事が分かった。


「もう五日も何も食べてないよ…?」


白熊はの世話役だった。朝昼晩、三食の食事を欠かさずコックに渡され、が監禁されている此の部屋に届けに来る。しかし、其れに一度だっては手を付けることは無く、温かい食事も結局は冷たくなって厨房に返却される日々だった。


「お腹空いてないこと無いよね、食べないと元気も出ないよ」


白熊はもう何度目になるか分からない言葉を話した。しかしは視線を窓に向けたまま。白熊は小さく息を吐く。は此の部屋から基本的に出ることは出来ない。例外は朝昼晩の食事の後と就寝前の一度、計四回のトイレに用を足しに行く時のみである。勿論トイレには窓といった出口は無く、扉の前まで白熊が同行し、手足の海楼石で出来た枷は外されぬままだ。しかし食事は取らず、飲み物すら口にしないの身体は本来出るものも出なくなり、日に日に用を足しに立ち上がる事すら少なくなっていた。


「ねー…。聞こえてる?」


白熊が喋った、などと今更は驚いたりしない。此の世界は未だ未知数な事が多く、喋る白熊も珍しいものでは無いのかもしれない。それがの解釈だからだ。は言葉を話さない。会話を生み出さない一方的なキャッチボールに白熊はいい加減諦めの色を滲ませた。


「死んじゃうよ…?」


其れが、白熊が最後に吐き出したキャッチボールだった。無論、食事をしなければ生き物は死ぬ。そういった意味合いで出た言葉だったのだが、はそう捉えず、其処で初めて口を開いたのだった。


「殺すんでしょ」


久々に出した声は老婆の様に掠れた醜いものだった。びくり、と肩を跳ねさせ白熊は驚いた表情そのままに顔を上げる。何時の間にか窓ばかり見ていたの漆黒の瞳が、白熊の方へと向けられており、白熊の姿を瞳に写していた。


「その食事に毒が入ってない保障は何処にもない。毒殺されるにしても、このまま餓死するにしても、どっちにしろ、あたしは殺される。もしかすれば今にでも、明日にでもあんた達の手で殺される可能性だって有る」


白熊の瞳には、の姿が恐ろしく映った。光の無い瞳にあるのは完全且つ断固たる敵意と殺意が混沌と渦巻いており、字の如く白熊は自身の身の毛がよだつのを感じた。


「どういう理由であたしを捕らえてるのか知らないけど、あたしは、死なない」


久しく水分を口にしていない所為では何度か乾いた咳をした。唾液はすっかり干からび、声を発する度に少しの痛みを感じる。出てもいない唾を飲み込み、は静かに締めくくりの言葉を吐き出した。


「簡単に…殺せると思うな」


部屋には一切の音が無く、静寂に包まれる。一体どれだけの無言が流れ、時が過ぎていっただろうか。居心地の悪さを感じ、白熊は小さく身じろぐ。しかし、其の場を去るどころか、目の前の盆すら下げようとはせず、ただ、其の場に正座で居座ったままだった。


「おれは、ベポ」

「…は?」

「おれの名前は、ベポだよ」


白熊は突如、己の名を告げれば、ぎゅっと白い毛皮で覆われた膝の上に乗せた手で、オレンジ色のつなぎを握り締めた。意味が分からず、呆れた声を漏らしたに今一度しっかりと名を告げれば、強い意志の篭った瞳で真っ直ぐを見つめるのである。


「おれ達はそんな酷いこと、しない。殺さない。安心出来るわけが無いと思うから、安心して、なんて言わないよ。でも、ご飯はちゃんと食べて欲しい」


白熊、ベポは切にそう訴えた。は乾いた唇を薄っすらと開いたまま、ベポの言葉に耳を傾ける。耳を澄ます必要ない程、ベポの声は此の空間によく響いた。


「お腹が空いてるのに、ご飯を残すのは、しちゃいけないことだよ」


其れは誰よりもが知っている。食べる物が無くゴミ山を漁る日々。それでも口に出来るものが見つからない日も沢山あった。透明な水を当たり前の様に飲み干すのが当たり前では無くなり、泥水を啜って、今日までまさに死に物狂いで生きて、生き残ってきたのだ。ベポの言う言葉の意味を理解出来ない訳では無かった。


「名前、教えて欲しいな。おれの名前はベポ、きみは?」


ベポは笑った。にかりと、歪な笑みを浮かべて。無理やり浮かべた其の笑顔が眩しく見えてはそっと静かに目を逸らす。これ以上、瞳にベポの姿を映したくなかった。


「…もう出て行って」

「でも、」

「いいから、出て行って」


強い口調で言えば、ベポはいそいそと立ち上がり、何度もに振り返りながら結局部屋を後にする。ガシャン、決して内側から開くことの無い錠閉まる音が響き、今度こそ部屋の中から音が消えた。目の前に生暖かい食事を残し―――――。



















次の日も、其の次の日も、其のまた次の日も。が食事を摂る事は無かった。其れでも毎日三度、ベポは食事を運びに現れ、一つ食事を運べば、其の前に運んだ冷たくなった食事を下げて去って行く。




「今は夏島の近くだから温かいんだけど、おれは毛皮があるから凄く暑くて、もう溶けちゃいそうだよ!」


「今日は海王類のステーキだよ!ペンギンが仕留めたんだ。あ、ペンギンっていうのはね、おれ達の仲間で―――――」


「今日は食糧の調達と、潜水艦の燃料を買いに近くの島に上陸したんだ!ペンギンとシャチは島の女の人達に鼻の下伸ばしててねー、おれは違うよ?メスのクマいなかったから!」


「もうすぐ冬島に入るから、凄く寒くなるかもしれない。温かいスープを作って貰わないとね!」




ベポは相変わらず部屋に訪れればに話しかけた。今日の出来事を主に、仲間の乗組員の話や、を気遣う言葉、時々どんなメスのクマが好みか。そんな他愛の無い話を話し続けた。あの日以降、が口を開く事はなく、ベポの一方通行はより一層増している。


「き、キャプテン!」


じっと身動き一つ取らず座り、ベポが一人話すのを聞いていただが、その身体は日を増すごとに傾いて行き、ついには横になったまま身動きすら取れなくなっていた。衰弱しきった身体は最早生命を維持する事に精一杯で、其れ以外の機能を全て停止させている。究極とも言える生と死の狭間の極限状態。其の危険を察知出来ない程、ベポは鈍くは無かった。


「死ぬ気か」


部屋を飛び出し、戻ってきたベポが連れて来た人物は、とても久し振りに見る男だった。ベポがキャプテンと呼ぶ男は、今日も黄色いパーカーを着て、肩に大きな刀を担いでいる。床に倒れたままぴくりとも動かないを見下ろして男は冷たい声を投げかけるが、はぼんやりとした虚ろな目で床を眺めたままで、意識がはっきりしているのかも危うい。


「キャプテン…」

「心配するな。外に出とけ」

「うん…」


男に指示され、ベポは静かに部屋を後にすれば、部屋には身動き一つせず横たわると、そんなを見下ろす男だけが残される。暫しの沈黙後、男は先程と同じ言葉を投げ掛けた。


「死ぬ気か」


コツン、男はヒールを鳴らしてとの距離を縮めると、其の場に片膝を付いてを見下ろす。からの返事は無かったが、床を這っていた視線がゆっくりと男の顔へと上がり、男は真っ直ぐ其の瞳を見た。感情の読み取れないくすんだ漆黒に男自身の顔が映り、は乾いた唇を微かに動かす。


「死ぬ…か、ばーか」


声にすらならないような、空気だけが漂った其れは、最早口の動きでしか読み取れない言葉。其れを聞き入れると男は再び立ち上がり、大きな刀を持ち直すと静かに鞘から隠されていた刀身を露わにする。キラリと光る曇り一つない刃の輝きを最後にの意識は静かに闇の中へと堕ちていく。何とも言えない違和感が、空気が其の場を一瞬にして包んだのを感じながら、は意識を手放した。嗚呼、死ぬんだな。そう、思いながら。










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