「(可笑しい…)」


「今日はステーキだよ!いっぱい食べてね!」


目の前の白熊は相変わらず笑っていて、以前のやり取りが嘘の様に振る舞い、食事を運んで来る。あれだけ敵対心を剥き出しにされ、何故こうも以前と変わらず接する事が出来るのか、は全くもって理解出来ず、動揺が隠しきれないでいた。


「…ねぇ」

「なあに?」

「分かってんの?」

「?」


こてん、と首を傾げるベポはとても可愛らしい。しかし、その動作すらも余計にの不信感を募らせ、はベッドの片隅に座ったまま、そんなベポに荒んだ瞳を向けるのである。


「あたし達、敵同士なんだよ。殺すって言われた相手に、何でこうして接してるの」

「それは…」


言葉を濁らせ、口篭るベポは静かに手に持っていた食事の乗った盆を床に下ろす。出来たてのステーキは白い湯気を上げており、其の匂いは香ばしく胃袋が音を立てた。


「確かに俺達は敵同士なのかもしれないけど、でも俺達はそんな風に思ってないし…」


置いた盆の前に腰を下ろし、ベポはもじもじと食事を見下ろしながら言葉は吐けば、ゆっくりと其の視線を上にあげてに向けると、はにかむ様にして小さく笑うのである。


「君も今はこの船に乗ってるから」


まるでこうして世話をするのも、出来る限りの親切をする事も、同じ船に乗っているのであれば当然であるかの様に、当たり前の事であるかの様な口振りには深く溜息を吐くのだ。どんな脅しをかけようとも、最早効果が無いのだと理解したからである。


「物好きね」

「違うよ!俺が好きなのはメス熊だけ!」

「…その甘さが自分の首を絞める羽目になるよ」


ベッドから降り、床に置かれた盆の前に膝を付く。両手を合わせ、静かに祈りを捧げるのは幼い頃から母より躾けられたマナーだ。初めこそ、食事の前に祈るを不思議そうに見ていたベポも、今では何も言わずの仕草を見守っており、は備付けられたフォークを手に取る。


「(美味しい)」


一口サイズに切られたステーキを一切れ、口に含んで口腔内に広がる旨みに素直な感想が過ぎる。もう一切れ、そう思ってフォークを肉に突き刺したのなら、一瞬手が止まったのを見てベポは不思議そうにを見た。


「(…どんな風に、どんな思いで…)」


突き刺した肉は、元々生きた生き物のもので、恐らく海王類の肉だろう。海を彷徨っていた所、釣られて捕らえられ、食糧にされたに違いない。必死に逃げ様と抵抗した事だろう。どんな風な最期だったのかは知らない。どんな思いで命を落とし、身を裂かれ喰われているのか、には到底理解出来そうになかった。想像も、理解も、したくないというのが本心だ。何故なら其れは間違いなく絶望なのだろうから。


「(いただきます、ありがとう)」


人は命を喰らい、己の命を生かす。誰かの何かの命の上に、成り立ってこうして息をし、笑って、泣いて、生きているのだ。頭では理解していた事も、此の世界では酷く其の食物連鎖を痛感させられる。口に入れれば相変わらず美味で、は感謝の気持ちを抱きながら静かに食事を進めた。一つ残らず、全てを食べきる為。以前の様な吐き気はもう無い。ただ胸にあるのは有難みだけだ。



















其の日はとても冷え、凍える様な寒さだった。少しでも熱を逃さぬよう、身を縮こまらせて足先や指先を擦り合わせれば、薄っぺらな掛け布団を気休めにでもなればと身に纏う。吐息は白く、其の室温の低さを物語る。無論、が監禁されている部屋に暖房器具は設置されておらず、唯々は寒さに身を凍えさせるだけだった。


「(眠い…)」


眠気は十分過ぎる程にあった。しかし、素直に睡魔に身を委ねる事が出来ないのは、寒さを通り越して痛む皮膚に、眠れば其の儘あの世行きになることを可能性の一つとして感じさせられるからである。寒さに震え、眠気に襲われ、どれだけの時間が流れただろうか。


「(やばい…落ちる…)」


皮膚に伸びきった爪を突き刺すも、凍えた身体には痛覚も鈍る。今にも閉ざされそうな瞼を、なんとか持ち上げようと気力を振り絞るのだが瞼は下りる一方で成果が無い。幾度と無く、凡ゆる場面での死を想像してきただったが、まさか自分が凍死なんてする羽目になるとは思いもしなかった。奇跡でも起きて、また目覚められればいい。そんな淡い期待を抱いて、もう睡魔に身を委ねてしまおうかと諦めが入った時の事。


「寒ッ!!!」


静かに開かれる扉から、暗闇に満ちた部屋に差し込む淡い光。むわっと暖かい空気と共に部屋に入ってきた人物、否、動物は身を震わせて、扉を後ろ手に閉める。光は再び遮断され、は朦朧とした意識の中、ゆっくりと微かに白い息を吐き出した。


「…何しに、来た…」

「今日は凄く冷えるから、風邪引いちゃうと思って」


風邪引くどころではな無い、此の寒さは確実に凍死する。心の中で吐き捨てた言葉に気付く筈も無いベポは、笑みを浮かべて腕に抱えた厚手の毛布を抱えての元へと歩み寄り、その毛布を優しくへと掛けた。ほんの少しの重みがの身体にのしかかる。


「それにしても寒いね。俺は毛皮があるから、それほど寒く無いけど…今度予備のストーブ余ってないか聞いておくね」


血の気を感じさせない程に真っ青な顔色で、毛布にくるまれたまま身動き一つ取らないをベポは悲しそうに見つめた。正確には身動き一つ取らないのではない、身動き一つ取れない程に身体は凍ってしまっているのだ。


「っ、」

「わあ!冷たい!」


ベポは徐にの手を手探りで毛布の中に手を入れて掴むと、その温度に驚愕の声を上げた。触れられた毛皮で覆われた手はふわふわと柔らかいのだが、その感触も、温かさすら今のには感じる事が出来ない。感覚の無い其の手を振り払う事すら叶わず、どうしようもないやるせない感情がの中でぐるぐると渦を巻いた。


「いい事思いついた!」

「………?」


表情をぱっと明るくさせたベポに視線をそれとなく向ければ、徐にベポはの座るベッドへと登り、毛布にくるまれたの身体へと手を伸ばす。驚愕に思わず表情を強張らせ、拒絶しようと身体を身じろぐのだが、身体は上手く動かずは文字通りされるがままだった。壁に背を預け、座ったベポの膝に乗せられ、冷たい空気が身に触れないよう鼻先まで毛布をすっぽりと掛けられる。を後ろから抱き締める様に抱え、毛布を整えたベポは満足気に困惑するを上から見下ろして笑い掛けるのだ。


「あったかいでしょ?」

「………、」


ぎゅう、とベポが抱き締めれば、の身体はベポと毛布に挟まれ優しく圧迫される。其れが果たしてベポの言う通りに温かいものなのか、には直ぐに感じる事が出来なかった。抵抗しようにも冷え切った身体で絞り出した力は、ベポの前では全くの無力で、為す術なくはせめてとでも言わんばかりに鋭い眼光でベポを見上げ、睨み付ける。


「食べたりなんかしないよ!俺人間は食べれないから」

「………。」

「安心して?眠たかったんでしょ。寝ていいよ、俺が温めておくから!」


また一層、ベポが抱き締める力を強め、ベポの柔らかい毛がの頬を擽る。暫く経てば先程まで酷かった眠気も蘇り、心なしか身体も熱を取り戻し始めていた。


「ほら、大丈夫だよ。だから眠って」


上から降って来る甘く優しく声に、今にも身を委ねてしまいそうになる。しかし、は只々必死に自分と戦った。


「(寝ちゃ駄目、隙を見せたら駄目…)」


眠ればどうなるか分からない。殺されるかもしれない、眠った瞬間、毛布も剥ぎ取られ放置されれば確実に凍死するだろう。何時迄もベポがこうしている保証は無く、罠の可能性もあるのだから。しかし睡魔は引き下がろうとはしてくれない。虚ろ虚ろ、時折頭を揺らしながら、襲い掛かる睡魔に必死に抵抗するをベポは小さく笑いながら見つめるのだ。


「おやすみ」


其の言葉が、にはとても遠くに消えた。静かな闇にすっと身体が沈んでいく感覚。しっかりと隙間なく熱に温められた身体は、すっかりと其の温もりを感じていて、それが余計に眠気を誘う。嗚呼、ダメだ。そう思ったものの手遅れで、の瞼はゆっくりと、そして固く閉ざされるのである。










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