夢を見た。柔らかく、優しい、胸が温かくなる夢だった。美しいスカイブルーの空に、鮮やかな色の花が至る所に咲いた何処までも続く草原。そんな中を、真っ白なワンピースで風に吹かれていた。靡くスカートの裾、舞い踊る髪。裸足で踏みしめた草と土は、とても心地よく、心は何処までも穏やかだ。




「―――、」




誰かの声が何処からか風に乗せられて聴こえて来る。名前を呼ばれた気がして、振り返るが誰も其処には立っていない。




「―――、―――」




しかし誰かが呼ぶ。何処からか、確かに呼んだ。気付けば足はゆっくりと動き出し、駆け出していた。無我夢中で風を掻き分け、草花の上を駆ける。どれだけ走り続けただろう、行き先も無く只々走り続け、何処まで来たのだろう。景色は無限ループする様に変化は無く、何処までも上空にはスカイブルーが広がり、草原の終わりは見えない。息が上がることも無く、身体に怠さも無く、只々走った。


「―――


確かに聞こえた声は、久しく聞いていなかったが、忘れられる筈も無く鮮明に覚えている。立ち止まり、勢い良く振り返れば、背の高い中年男性の隣で此方に手を振る女性。小皺をきゅっと寄せて、優しく微笑む男女に自然と笑みが零れ、二人の元へと足が向く。


「お父さん、お母さん!」


呼べばまた笑みを深めて、迎えようと手を広げて待つ男女。会いたかった、ずっと会いたかった。どれだけ焦がれたか。どれほど恋しかったか。今にも其の胸に飛び込みたくて、駆け出しはしなかったものの早足に足を動かし、ふと思う。―――なんで会いたかったけ?なんでこんなにも胸が苦しくなるくらいに焦がれ、恋しかったんだっけ?




「―――




父と母とは反対側から聞こえてきた声に思わず足が立ち止まる。あれ、此の声は誰だっけ。でも立ち止まらずにはいられなくて、振り返られずにはいられなかった。後方に振り返った途端、強い風が吹き、眼前を長く伸ばした髪が揺らめく。その隙間から、その先に佇む人物を見た。





青年は優しく微笑み、そっと手を差し出してを呼ぶ。風がぴたりと止み、揺らめいていたワンピースの裾も落ち着きを取り戻す。親しげに、愛おしそうに名を呼ぶ、この青年は一体誰だろう。いや、違う。違うのだ。この青年を、この男を、この人を、あたしは知っている。


「俺が守る」


差し伸ばされた手に、どうしようもなく触れたくなって、其の手に自分の手を重ねたくなった。けれど、思いとは裏腹に身体はぴくりとも動いてはくれなかった。


「ずっと俺が守るから」


それでも青年は微笑みを絶やさない。何処か儚げな印象を与えるエメラルドの瞳に何故だか胸を締め付けられる様な感覚を覚えた。




「俺の傍から離れないで」



















「っ、」


唐突に浮上した意識。激しく脈打つ胸に手を当てながら覚醒した頭で思考を巡らせる。どうやら凍死は免れた様で身体は温かい。毛布は相変わらず掛けられたままで、を後ろから抱き締めるベポも眠りにつく前と変わらず其処に居た。半開きの口から透明な雫が今にも零れ落ちそうで、は身じろぎし、其の雫が己に落ちて来ない様に身体を逸らす。


「(…嫌な夢を見た気がする)」


夢の内容ははっきりと思い出せない。しかし、決して良い夢では無かった様に思うのは此の胸騒ぎの所為だ。落ち着かせる様に呼吸を何度か繰り返し、は深い溜息を吐く。窓からは優しい日差しが差し込み、部屋を明るく照らしている事から太陽は既に真上にあることを察した。どうやら長い間眠っていたらしい。


「ちょっと」

「ぐー………め…」

「(め?)」

「か、わいい…メスグマさん…」

「………。」


ベポを起こそうと声を掛けるが、どうやら良い夢を見ているのだろう。顔をだらしなく緩ませながら、ベポの零した寝言に思わずは口を閉ざす。しかし一向に目覚める気配の無いベポに痺れを切らすと、強引に殴ってでも起こそうと決めて拳を握った時だった。


「…どん?」


握った拳をそのままに、小さく聞こえた爆破音に思わず首を捻った。まるで砲弾でも撃った時の様な音。何故、そんな音が。空耳だろうか、そう考えていた時である。


「!!」

「ぶぇ!?…え…、えっ、ええ!?」


激しい衝撃音を轟かせ、突如部屋の壁が荒々しく弾け飛ぶ。部屋に突如撃ち込まれた大きな砲弾は、木の破片を撒き散らせながら其の半分程を反対側の壁へと減り込ませるのだ。爆音に強制的に目覚めさせられたベポは寝呆けている事もあり、目の前の惨事に目を丸くさせて戸惑いの声を上げ、を膝に乗せているにも関わらず勢い良く立ち上がり右往左往する。ベポが急に立ち上がった所為で前のめりになってベッドに落ちたは、ベポに怒りを覚えるよりも先に、ベポ同様に此の状況に酷く戸惑うのだ。


「ベポ!!!」


続いて部屋の扉が勢い良く開け放たれ、キャスケットを被った男が慌ただしく部屋と入ってくる。壁をぶち抜かれた砲弾に目もくれず、ベポへと声を上げると、ベポも「シャチ!」と男の名を呼ぶのだ。


「なにこれ!?どうなってるの!?」

「敵襲だ!船員は全員甲板に集合!海賊だ!!」

「キャプテンは!?」

「もう敵と甲板でやり合ってる!!」


此の砲弾を撃って来たのも敵の海賊らしい。次々と砲弾が撃たれる爆音が響き、金属同士がぶつかり合う声も、野太い咆哮も徐々に其の大きさも増す。どん、また砲弾が撃たれる音が響き、部屋に二発目の砲弾が侵入する。ベポとの居るベッド側と、シャチの居る扉側の間を勢いよく真っ黒な砲弾が通り過ぎた。


「急げ!!」


シャチは飛び散る破片から守る様に顔の前に翳した腕をそのままに、声を荒げると一足先にと甲板へ向かって駆け出して行く。後に続く様に腰を浮かしたベポは軽々とベッドを飛び降り、扉の方へと向かって駆け出せば、離れていく大きな背中を見つめ、は密かに笑みを零すのだ。


「(この機会しかない)」


海賊に襲われ、交戦に慌しい今こそが、にとっての逃げる最大のチャンスだった。開け放たれたままの扉からでも、壁に開いた大穴からでも逃走は可能で、どちらかが塞がれたとしても逃げ道はある。此の手足を拘束する海楼石の枷だけが厄介だが、此れだけ船員達が走り回っているのだ、鍵を探し、枷を外す時間程度なら作れるだろう。絶望しか無かった監禁生活に、希望の光が差し込んだ。


「あ!」

「!?」


扉を抜け、廊下に飛び出そうとしたベポは突如思い出したかの様に呆けた声を上げると、ぐるりと踵を返して真っ直ぐへと向かって来る。思惑に気付かれたか、むしろ今此処で処分されるかもしれない。歯を食いしばり、これからの事を覚悟してベポを鋭く睨みつければ、突如身体が宙に浮いた。


「…え?」

「此処は危険だから一緒に行こう!また砲弾が飛んでくるかもしれない!」


身体が宙に浮いたのは、ベポがの腹部に手を回し、脇に抱えたからである。腹部が圧迫され、手足が不安定に揺れ、其の安定感の無さに自然と力が入り、強張る身体。其れを襲撃されている事に対しての恐れだと勘違いしたのか、抱えるベポはつとめて明るい声色で言うのである。


「俺もいるし、キャプテンはもっと強いから直ぐにやっつけちゃうよ!」

「(そうじゃない…!)」


廊下を駆け抜けるベポに抱えられ、は激しく上下に揺さぶられながら監禁されていた部屋から遠退いて行く。つい先程得た最大の機会は、ベポの親切心という有難迷惑によって見事に粉砕させられた。廊下には焦げ臭い臭いと、黒い煙が充満しており、砲弾が打ち込まれたのが監禁部屋だけじゃ無かった事を物語る。


「おい!しっかりしろ!」

「聞こえるか!直ぐに助けるからな!!」


大穴の開いた部屋の前を横切る際、其の一瞬、は何気なく其の砲弾で開いた穴越しに部屋の中を見た。瓦礫に埋もれ、血を流す男を必死に引っ張り、瓦礫の下から救出しようとする複数の男達が懸命に声を掛けながら手を動かしている。血を流す男に意識があるのかは分からない、其の部屋を通ったのは本当に一瞬で、ベポは構わず廊下を突っ走るからだ。良く耳を澄ませば、そんな悲痛な声はあらゆる所から聞こえて来る。どうやら戦いは此方の船が劣勢の様だった。


「キャプテン!!!」


廊下の突き当たりの扉を勢い良く押し開けたベポは、眼前に広がる光景に向かって大きく声を上げた。甲板には多くの船員が出ており、傷を負いながら懸命に一歩も退く事無く攻めてきた海賊を相手に戦っている。船の前には此の潜水艇の一回り以上の大きな船が止まっており、掲げた髑髏がマストに大きく描かれており、此れでもかという程に主張されていた。しかし、甲板にはベポが呼んだキャプテン、船長の姿は無い。


「!?おいベポ!何でそいつ連れて来てんだよ!!」

「だって砲弾が飛んで来たから!」

「バカ!だからって此処に今連れて来るなよ!邪魔だろ!!」


相手の海賊と戦いながら、PENGUINと書かれた帽子を被る男、ペンギンはベポが脇に抱えられているを見て思わず怒声を上げる。じゃらりと両手両足から垂れ下がるのは、動ける範囲を制限する鎖で、両手、両足に架せられた海楼石の枷は未だ少女の身体を拘束している。まともに動く事もままならないであろう人間、其れも非力以外の何者でも無く、とある切っ掛けで船で監禁していた少女は、どう見ても明らかに此の戦いの場には邪魔な存在だった。ペンギンは相手を薙ぎ倒しながら思わず舌打ちを零す。


「(唯でさえ厄介な相手だってーのに…!)」


突然戦いを挑んできた海賊は、流石自信に満ちているだけあって一人一人力を持った強者だった。勝てない訳ではないのだが、兎に角手子摺る。船員の数は圧倒的に相手の方が多く、こうしている間にも向こうは此の船を沈めに掛かっているのだ。ペンギンは敵を相手にしながら視界の端での姿を映す。ベポに抱えられたままのは、険しい表情で戦場を見ており、ペンギンは強く下唇を噛み締めると咆哮を上げながら敵を勢い良く蹴り飛ばすのだ。


「(敵に捕まって人質にされて見殺しにしたら船長に殺される。どさくさに紛れて海楼石の枷が外れでもしたら絶対に俺達に襲ってくるよな…どっちにしても最悪だ…!!)」


これまで殺さずに食事も与え、倒れた時には治療も施したハートの海賊団の医者である船長は、暫く船に乗せて様子を見ると以前船員に向かって話していた事を思い出す。見殺しにでもしようものなら、どんな小言と罰を与えられるか分からない。反対に自由の身にでもすれば、は確実に逃走を図るか、自分達に牙を剥くだろう。力量は分からないものの、これ以上敵を増やすのは出来れば避けたいものだ。ペンギンは湧き上がる苛立ちを隠しもせずに、敵を殴りつけながら今一度ベポに怒鳴るのである。


「全部お前の所為だからな!!」

「すいません…」


まさかの叱咤にベポは見るからに落ち込んだ様子を見せ、暗い声で謝罪を口にするが、其れをペンギンが聞こえていたかは定かではない。戦闘に集中しているのだろう、それっきりベポとの方に意識を向けること無く、ひたすら襲い掛かって来る敵を迎え撃っていた。


「オラァアアアアーーーー!!」

「うわっ」


真横から不意打ちを狙って剣を振りかぶった男に、咄嗟に気付いて床を蹴って飛び退くベポ。腹部を圧迫する力が増し、勢い良く引っ張られれば、いい加減も気分が悪くなってくるものだ。一種の乗り物酔いの様な、込み上げてくる其れに不愉快そうに口元を歪ませれば、は枷で繋がれた手でベポの脇腹を何度も叩くのである。


「降ろしてよ!!」

「えー!駄目だよ!危ない!」

「女抱えてんぞ!先にこいつから仕留めちまえ!!」

「おおおおおお!!!」


ベポに目を付けたのか、敵の海賊達が目を血走らせて剣を片手に迫ってくる。ベポは慌てて其れらの剣を回避するも、反撃は殆どせず、唯々動き回って回避するだけだった。


「ベポ!!お前何しに出て来たんだよ!加勢に来たんじゃねぇのかよ!!」

「すいません…」


ベポの逃げ惑う姿を偶々目にしたのか、剣と剣で押し合う仲間がベポを横目に罵倒する。忽ち大人しくなるベポだが、相変わらず受け身で逃げ回る其の行動には全く変化は無い。言わずもがな、脇にを抱えている所為で上手く動き回る事が出来ないのだ。決して重くは無いが軽くも無い人間を抱え、片腕を封じられていては戦うにも戦い辛く、人の多い甲板では狭く、派手に動き回る事すら叶わなかった。


「わわわわっ、ど、どうしよう…!」

「悩むくらいなら降ろしてよ!!」

「そ、それは出来ないよ!」

「なんで!!」

「だって君が狙われちゃう!」


飛んでくる弾丸を身体を逸らして回避し、迫る剣を握る相手の手首を蹴り上げ剣を手放させれば、そのまま身体を捻って隣の男を蹴り飛ばす。しかし致命傷にもならない攻撃は其の場凌ぎでしかなく、何度倒されても海賊達は何度も起き上がり襲い掛かって来るのだ。


「君を降ろしたら、絶対皆君を狙う!俺は君を守る!だから絶対っ!」


後方で剣を突き出して来た男を避けながら振り返り、其の顎に拳を放って倒せば、直ぐに海賊達と距離を取る様に後方に下がる。目の前には強面の海賊達が剣の刃を光らせてジリジリと距離を詰め、今にも一斉に襲い掛かって来んばかりの様子だ。今、もしもの要求通りにベポが甲板にを降ろせば、海賊達の標的はベポでは無くに向かうだろう。守る為に全ての敵をから蹴散らせたとしても、敵が増える一方の此の危機的状況下では絶対に傷一つ付けずに守りきれる確証は無い。武器を持たないどころか、両足すら拘束されているは己の歩幅すら制限されているのだ。迫り来る鋭い刃から、自分の足だけで逃げ切る事も難しいだろう。だからこそ、ベポはを降ろさない。降ろすつもりも毛頭無かった。


「君を降ろしたりしない!!」


一斉に襲い掛かって来る海賊達を鋭い目付きで見据え、其の攻撃をギリギリの所で回避するベポ。目の前を掠めて行く剣の切っ先には息を飲んだ。奥歯を強く噛み締め、ベポに抱えられるがまま、現状何も出来ぬまま眺める。


「アンタ…馬鹿じゃないの。死ぬ気?」

「俺は…っ、死なないよ!」


剣先がベポの顔を掠め、隙有りと他の剣がの抱える反対側の脇腹を斬り付ける。オレンジ色のつなぎが裂かれ、見えた白い毛並みからは赤い血が零れた。其れを見て海賊達は笑みを深め、剣を握り直し追撃を掛ける。


「…勝手に、守るとか…決めないでよ…!」


先程よりも動きの悪いベポは、迫り来る刃に唇を歪ませながら身を捩り、何とか回避する。に切っ先が向ければ身を持って盾となり、ベポの背には大きは縦傷が生まれ、一文字に閉ざされたベポの口からは小さな呻き声が漏れた。


「あたしだって…戦える!!」


を抱き締める様にして敵から守る様に覆い被さるベポは、遂に其の場に膝を着き、の身体は硬い甲板の上へと落ちる。冷たい木の感触に、目の前を覆う毛皮。視界が遮られている所為で状況が把握出来ないが、近付いて来る足音と海賊達の笑い声からして状況は絶望的だと悟る。が手でベポの胸を押せば、ベポは引き攣った笑みを浮かべながら、其の身を少しだけ起こし、に優しく笑い掛けるのだ。


「大丈夫…、これくらいなんとも無いよ…っ」

「………っ、」

「さっさとこのクマ殺して、女も殺して、次の奴ら殺そうぜ!」

「ああ!クマの癖に手こずらせやがって」


ベポ越しに微かに天高く振り上げられた剣の切っ先が見える。不器用な笑みを浮かべたベポにも、海賊達の言葉が聞こえなかった筈は無いと言うのに、ベポは笑みを絶やさない。


「安心して、大丈夫」


そう震えた声で囁かれるが、とてもじゃないが言葉を鵜呑みにする事が出来ない。自分を盾に、決してに傷一つ付かぬ様に守る姿には血が滲まんばかりに下唇を噛んだ。何も出来ず、唯々ベポの着るつなぎを皺がよる程に強く握った。


「死ね!!!」


剣が振り下ろされる。息を呑み、は目を閉ざす事も出来ず、其れを見ていた。太陽の光を反射させた鋭い刃がベポの脳天目掛けて落ちてくる。ベポは優しく笑った。幼い子供に微笑み母の様に、全てを包み込む様な優しさと愛しさで満ち溢れた綺麗な微笑みで。










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