小さな丸椅子に腰掛け、は目の前に座り薬品を己の手首に優しい手付きで塗る中年の男を見た。大柄な身体に反して、其の治療は意外にも手際良く、とても正確で器用なものだ。治療室には他にも沢山の負傷者がおり、ローを含む、医療の知識が少なからずある船員達から治療を受けている。も其の中の一人で、はされるがままに男の治療を大人しく受けていた。


「よし。痕は残らねぇ筈だ。行っていいぞ」


にかり、歯を見せて笑った男は巻き終えた包帯の上から軽く傷口を痛まない程度に叩いて次の患者を呼ぶ。は静かに席を立つと、誰の目も見ずに下を向きながら、ひっそりと治療室を出るのだ。


「いでででででで!船長ぉ…も、もう少し優しく…」

「このくらいで悲鳴上げてんじゃねぇ」

「殺生なぁ…!いで、いでで、ででででででギャーーー!!!船長おおおおおおおお!!?」


僅かに開いた扉からは、治療室の中が窺え、ローに治療を受けている男が消毒液が染みるのか涙を流しながら喚いている。其の反応を見て楽しんでいる様にも見えるローは口角をやや吊り上げており、周囲に居た船員達も其れを見て多いに声を上げて笑っていた。


「情けねぇなー!おい!」

「消毒液がそんなに染みるってんなら、二度と怪我しねぇことだな!」

「ははは!ダッセー!!!」

「そういうお前こそ、いつも痛ぇ痛ぇ言ってんじゃねぇかよ!なぁ?」

「痛ててててて!わざと傷口押すなって!!」

「あはははははは!」


何とも和やかな空気の流れる治療室だ。船員達の笑い声が溢れるのを聞きながら、は静かに後ろ手に扉を閉める。其れでも僅かに漏れる笑い声が聞きたくなくて、は行き先も行く当ても無いままに廊下を歩き出した。


「おーい!こっち手伝ってくれ!」

「バーカ!こっちだって人手が足りないだよ!」

「そっち鉄板余ってねぇか?」

「持ってくわ!」


船の破損は想像以上のもので、無傷な者は勿論の事、怪我人ですらも、船員全員が総出で船の其の場凌ぎの修復が行われた。減り込んだ砲弾を何とか押し出して海に落とし、船に乗せていた木材や鉄板を穴の空いた壁や床に釘で打ち付ける。暫く潜水する事は無理だと判断され、船は海面を進んでいた。


「そっちどうだー?」

「駄目だ!全然ビクともしねぇ!」

「困ったなぁ…流石にこれ、このままにしてっと船長にどやされるぞ」

「人手呼ぶか?」

「そうだな。力技しか無理だろうしな」


船は珍しく騒がしく、人の行き来が激しい。カン、カン、カン。釘を打つ音が静かな波の音と爽やかに吹く風と共に流れ、とても穏やかな印象を与えた。


「ベポー!こっち来てくれー!」

「アイアイ!」


包帯を至る所に巻いたベポが、シャチに手招きされて軽い足取りで駆けて行く。シャチの隣にはペンギンや、他の船員達がおり、其の中央には一際大きな砲弾が半分程壁に減り込んでいる。どうやら、此の砲弾をどうにかしたい様なのだが、何せ大きな砲弾。なかなか動かすに動かせないらしい。


「あ!治療終わったの?」


船員達に駆け寄り、砲弾を引っ張り出そうと手に掛けた際、其の前を偶然通り掛かったを見てベポが大きく手を振る。の両手両足首には真っ白な包帯が巻かれており、治療を素直に受けた事が分かる。ベポはそんなを見て心底安心したと言う様に笑みを零すと、再び船員達と共に砲弾に向き直る。


「行くぞ、せーの!」


シャチが合図を出せば、一斉に船員達は砲弾を引っ張り出そうと手に力を込め、足を踏ん張らせる。メキメキと、減り込んだ木の壁が音を立てて砂埃を僅かに起こすが砲弾は1mmたりとも動かない。


「くっそ…ベポが来ても駄目かよ!」

「ベポ!お前まさか力抜いてんじゃねぇだろうな!」

「ち、ちゃんと引っ張ってるよ!!」

「もう一回行くぞ!…せー、のっ!」


全員が一度、力を抜いて深く深く呼吸を繰り返し、再び砲弾の引き抜きに挑む。しかし結果は変わらずで、何度か其れを繰り返している内に、次第に船員達の息は上がり、息切れを起こす始末だった。


「だーーーー!どうしろってんだよ!コレ!」

「つーか、なんつー砲弾撃ち込んでくれたんだよアイツ等!!」

「次会う事があったらタダじゃおかねぇ!!」


顎に伝う汗を手の甲で拭い、なかなか引き抜けない砲弾に苛立つ船員達の怒りの矛先は、此の砲弾で砲撃してきた海賊達へと向けられる。呼吸を整える為に暫しの休憩が取られ、座り込んだり、壁に凭れ掛かりながら砲弾をどうするかの作戦を練るのだ。


「いっそ引っ張るよりも押し出すか?」

「バカ!それじゃますます船が壊れちまうだろ!」

「タダでさえ最近出費が激しいから、出来るだけ経費は抑えろって船長言ってたしな」

「じゃあ、やっぱ引っこ抜くしかねぇのか」

「だな」

「「「………はぁ」」」


結局良い策が浮かぶ事は無く、船員達はげんなりと肩を落として深い溜息を吐く。そして徐に砲弾に向き直ると、誰かが「やるか」と呟いて皆が静かに一度頷き、腰を下ろしていた男達は立ち上がって、砲弾に手を掛けるのだ。


「ねぇ」


ふいにベポが此方を振り向き、は何だと視線をベポへと向ける。船員達も何事かと視線を砲弾からベポとへと向ければ、ベポは可愛らしく首を傾げながら問うのだ。


「やっぱり方法は引っ張ることしかないのかな」

「…船を壊していいのなら押し出すのも良いと思うけど」

「それは駄目!キャプテンに怒られる!」


駄目駄目!と顔を青くさせて顔を左右に勢い良く振りながら、両手を前にクロスさせて×印を作る。ならば残り手段は一つしかなく、砲弾を引っ張り出すまで全力で取り組むしかないだろう。話しはもう済んだのだから此れ以上此処に居る必要もなく、は歩き出そうと右足を出した。


「君も一緒にやろうよ」

「…は?」

「手伝ってくれる人が多いほど良いでしょ?ね!」


しかし踏み出した足はたった一歩しか進まず。突如とんでもない提案をしたベポに思わず間抜けな声が出たのは最早仕方が無かったはずだ。同様、呆けた表情を浮かべる船員達に向かってベポが同意を求めると、船員達は難しそうに表情を強張らせながら、視線をあちらこちらへと泳がして、ほんの少しだけ小さく縦に首を振るのである。


「まぁ…」

「そうだけどな…?」

「ほら!手伝って手伝って!」


素早く歩み寄ってきたベポに腕を掴まれ、は引かれるがまま部屋の中へと踏み出す。砲弾の前まで連れてこられれば、船員達はほんの少し警戒する様にを見下ろすのだが、気付いているのか気付いていないのか、ベポはお構いなく「やろう!」なんて明るい。


「しょうがねぇなぁ…」

「全くだ」


呆れた様にそう声を漏らしてシャチは砲弾に手を添え、続いてペンギンも片足を砲弾の減り込む壁へと掛ければ、他の船員達も砲弾を掴みにかかって引っ張る体制を整える。


「もし怪我が痛むんだったら無理しないでね」

「………、」


ベポの隣に立たされたは、困惑する様にベポを見上げ、しかしベポは笑みを零すだけで砲弾を大きく両手を広げて掴む。どうやら本気でを手伝わせるつもりらしい。皆が構えもしないで砲弾の前に突っ立っているを黙って見ており、の準備が整うのを待っている。別に手伝う必要は無いのだ、やってられないと吐き捨てて立ち去る事だって簡単に出来る。しかしそうしないのは、何故だが手が砲弾に伸びていたからだ。


「行くぞ!せーの!!」


シャチの掛け声に合わせて全員が渾身の力を込めて一斉に全力で砲弾を引き抜く為に力を込める。相当力を込めているのだろう、シャチやペンギン、船員達の腕には血管が浮き上がっていた。ベポも歯を食いしばって踏ん張っており、そんな必死の形相を浮かべる男達を視界の端で眺めながら、は対して力も入れていない己の両手を見た。


「(鉄…)」


触れた砲弾の表面は黒くとても冷たい。鉄の塊の其れは、実際に持っていなくとも、引っ張っていなくとも、相当の重量がある事は容易に想像が出来た。単純な力技も、砲弾が半分も壁に減り込んでいる状態では存分に力を加える事は出来ないだろう。


「(試す、価値はある)」


周囲の船員達に気付かれない様に、少しだけ、ほんの少しだけ。自分に言い聞かせる様に暗示を掛ける様に何度も繰り返し言いながら、砲弾に触れる手に意識を集中させる。


「(少しだけ、少しだけ動けば其れで良い)」


手に僅かな電流を発生させ、其れで磁力を操作する事が出来れば、力等一切要らず砲弾を引っ張り出す事が可能だ。そう、まるで磁石に引っ付くクリップや釘の様に、いとも簡単に。別にベポやペンギン、シャチや船員達の為ではない。只、単純に磁力を操作する事が此の能力で出来るのであれば、それだけ戦いの中で戦うスタイルに幅が広がるという事。生き残る為の術となふ。すなわち、自分の為だ。実際、僅かに砲弾が動いた所で、誰もの能力に依るものだと気付きはしないだろう。何せ見た目は只の非力な少女で、尚且つ怪我人なのだから。試す価値は十分だった。


「(大丈夫、いける。出来る)」


鉄は電気を通す。もしも電流が砲弾に流れれば、砲弾に直接手で触れている船員達は感電するだろう。不可抗力とは言え、そうなれば大事になってしまうのは避けられない事だ。事を荒立てるは無いので、努めて冷静に、雷を微弱な電流に弱めて発生させた。掌に触れる砲弾は冷たい。そんの少しだけ、気持ち程度に引いてみる。減り込んだ壁の隙間から砂の方な埃が幾つも落ちる。砲弾は手に密着したままだった。


「おい!動いてねぇか!?」

「もっと引っ張れ!」

「うおおおおおおお!!」


ピクリともしなかった砲弾が、ほんの少し、微弱とは言え動いた事が、どれだけ船員達の活力になっただろう。船員達は更に引っ張り出す為、全身全霊を砲弾を掴む手に、踏ん張る足に込める。


「(…出来てる?)」


つい、またほんの少しだけ電流を発生させた手を引く。其の分、砂埃を上げて砲弾が引っ張り出され、船員達は歓喜の声を上げるのだ。今度は10cm程引いてみる。それに合わせて砲弾もまた、10cm前進した。其の調子ではどんどん後退しながら砲弾を電流で引き寄せる。


「やべえよ!やべえ!すげーー!!」

「動いたあああああ!!!」

「もう少しだ!!!」

が手を引いた分、砲弾は面白い程に前進し、減り込んだ壁から全体を露わにすると、砲弾が支えになっていたのだろう、上部の壁が崩れ落ちた。しかしそんな事はどうだっていい。ついに全く動かせなかった砲弾を動かせたのだ。


「「「よっしゃああああ!!」」」

「やったな!」

「やったーーー!!!」

「何だよ!お前結構怪力なのか!?」


歓喜に飛び上がる船員達。シャチはベポの背を強く叩き、ベポも両手を高く上に突き出して達成感に喜びの声を上げ、シャチが呆然と己の両手を見て一言も発さないへと明るい声で話し掛ける。すると皆は一斉に口を噤み、大人しくなれば、まるでの反応を見る様に其方を興味津々と見るのだ。


「なんとか言えよー!お前が来てから、やっと動かなかったコイツが壁から抜けたんだぜ!」

「………た…」

「ん?」


より一層に近寄り、シャチが笑顔を見せる。先程迄の警戒心は何処へやら、そんな事より手こずっていた砲弾をどうにか出来た喜びの方が勝るのか、シャチの興奮は収まらない。ぽつり、聞き取れない程に小さな声でが言葉を零せば、シャチはほんの少し首を傾げて耳を澄ませるのだ。


「やった…」


其の表情は、シャチやペンギン、ベポは勿論のこと、其処に居合わせた船員達が今迄見た事の無いものだった。漆黒の瞳は普段よりも一回り程大きく、キラキラと宝石の様に輝いていて、頬はピンク色に僅かに色付き、両手をうっとりと見つめている。明らかに“喜び”を見せるは、監禁していた際には決して見る事の出来なかった表情は、とてもを何処にでも居る島娘のものと同じだった。シャチが思わず口元に笑みを浮かべる。つられてベポ、ペンギン、他の船員達も柔らかい笑みを浮かべた。


「ちゃんと笑えるじゃねーか」


そう誰が言って、誰が声に出して笑い出し、波紋する様に皆が楽しそうに笑い出す。安心したのだ。そして嬉しかったのだ。自分達が警戒しなければいけない程、此の少女は危険じゃないのだと感じて。異端者や異常者ならば、決してこんな表情は見る事は叶わないだろう。歪みに歪んだ人格だと思い込み、自分達に牙を剥くのでは無いかと警戒していた少女は、今目の前で子供の様に喜んでいて、其れはあまりにも自然で普通で、ただの少女だった。


「しっかし見た目はこんなに細いってのに、何処にそんな力があるんだよ!」

「それに強いよな、あんた!俺甲板に居てたから見たんだぜ、あの戦う姿には正直惚れ惚れしたね!」

「女にしとくには勿体ねぇよ!」


いつの間にか船員達がを中心に囲み、各々の感想を口にする。其れは砲弾を引っ張り出した怪力の事だったり、つい数刻前の海賊を一蹴した戦う姿であったりと様々だ。騒がしい船員達からベポは一歩前に出て、反応を見せず手を見つめたままのへと顔を覗き込む様に屈めば、とベポの目が合った瞬間、ベポは無垢な笑みを浮かべた。


「やったね!」


ベポの言葉を肯定する様に、小さくは笑みを零す。其の反応が嬉しくてベポはまた笑みを深め、微笑ましそうに船員達が二人を見守る。誰も流れる空気に違和感を感じる事はなかった。


「(これでまた一つ、強くなれる)」


が笑みを零したのは、船員達が思っている通り、皆がお手上げだった砲弾を自身の力で解決する事が出来たからでは無い。船員達の役に立てたから、という訳でも勿論無い。ゴロゴロの実の能力が磁力にも通用する事が分かったからだ。また一つ、能力の応用が生まれ、此の閃きと能力はいずれが生きる為の力として活躍する時が来るだろう。生き残る為には、出来るだけ己の生存確率を上げておくに越した事は無い。は死ぬ訳にはいかない。元の世界に帰るという断固たる決意の為。其の妨げと目の前の船員達もなるのなら、今度こそ躊躇せず容赦はしないだろう。自分には馴れ合いや感情移入、同情等は、此の世界では一切必要ないのだから。










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