虚ろな灰に









共働きだった両親は、絵に描いた様な仲良しでは無かったが、けれども特別仲が悪かった訳でもなく、家庭環境は平穏だった。私が産まれて少し経ってから買った新築の一軒家。大きくも無く、小さくも無いマイホームは父親の定年退職まで続くローンを組んで手に入れたものだ。近くの幼稚園に通い、小学校へと進学した頃には私の記憶にも少しずつ残り始め、卒業式は嬉しいのか悲しいのか寂しいのかとりあえず泣いたっけ。小学校は私服だったから、中学校の真新しい制服に感動したんだ。上級生は私よりもずっとずっと大人に見えたんだよね。今思えば中学生なんて全然子供なんだけどさ。中学校三年間は友達と入ったバレー部と、勉強に費やしてあっという間に終わっちゃって、そう言えば卒業式の時に後輩に泣いて制服のスカーフをくれとせがまれたな。高校は猛勉強した甲斐あって志望校に入学出来た。可愛い制服、大人に近付く自分の体。背伸びがしたくて、この頃から化粧をするようになって、部活はバレー部のマネージャーやって、それで部長と両想いになって付き合って、それで、やっぱりあっという間に卒業。高校卒業後は進学して有名な名門大学に入学。4年間、本に噛り付いて毎日勉強、勉強、勉強の日々。そして卒業後にはキャビンアテンダントとして航空会社に就職。入社一年目は目まぐるしい日々で正直思い出なんてあんまりない。ただ、仕事は大変だけど遣り甲斐もあって、制服に身を包み、乗客達に笑顔を振り撒いて、ロンドン行きの飛行機に乗り込んだんだ。


「―――――っ、」


乾いた土の上に投げ出されていた手を握る。昨日ネイルサロンで綺麗にしてもらったばかりの爪の間に砂が詰まった。ああ、埃っぽい。喉が痛い。


「(死んだ、割には無傷…。………あー、死んだから怪我無いのか)」


頭に響く鈍痛に眉間に皺が寄った。首もとのスカーフを緩めて気道を確保し酸素を吸う。埃の混じった乾燥した空気に自然と咳が出て喉を摩る。身を起こし地面にへたり込んだまま周囲を見渡せば、殺伐とした光景が広がっていた。


「天国にしては…荒地…」


咳がまた一つ、零れた。そう、私は死んだのだ。ロンドン行きの日本発の飛行機は、突然の悪天候に見舞われ、雲の中を飛行。強風に機体は揺れに揺れ、窓ガラスの向こうからは真っ暗な闇と稲妻が走るのが見えた。乗客達の悲鳴、間近で聞こえる雷と風の音。そして続く凄まじい爆音と振動の衝撃を受けた瞬間、私は機体の外装が引き剥がされて出来た大穴から、まるで吸い込まれる様に外へ、空に、真っ暗な稲妻の走る雲の中へと放り投げられたのだ。上空1万メートルを飛ぶ機体に放り出され、真下には大海原。流石に途中で意識は飛んで、自分の身体が海に叩き付けられてぐちゃぐちゃになった瞬間とか激痛とかは記憶には一切、欠片も無いけど、まず生存確率は0%な訳だし、死んだと考えて間違いない。のに。


「――、――――――――!」

「――――、――――――――。―――――?」

「――、―――――?」


死んだ筈なのに喉に“痛み”はあるし、天国の筈なのに何で此の人達こんな“小汚い格好”して、“聞いた事の無い言葉”で心配そうに話し掛けてくる?何でこんなに心臓が爆発しそうなくらい脈打ってるのか、焦っているのか、頭の中を何かがぐるぐると駆け巡った。


「(意味、わかんない…!)」


勢い良く立ち上がったからか、目眩がして転びそうになるものの、声を掛けて来た男達から逃げる様に走った。後ろから引き留める様に叫ぶ声が聞こえて来るが、聞こえない振りをした。脈打つ心臓が血を送り出して足を動かす。生きているのだと、物語る。片足しか履いていなかったヒールは走り難いから途中で脱ぎ捨てて裸足で走った。形振り構わず走るなんて何年振りだろう。上がる息と息苦しさが、やっぱり私が生きているのだと証明した。


「ここ、は…どこ、なのよ………っ!!」


此処で生きる人間にはきっと伝わらないであろう母国の言葉。苦しさに駆ける足を減速して立ち止まれば、ズキズキと足の裏が痛んで大きな岩の陰に隠れる様に座り込む。破けたパンストは酷い有様で素足が露出し、足裏は切り傷が沢山ついて出血していた。


「(なんで、私…生きて…)」


砂で汚れた制服、痛む足、乱れた髪、乾燥した空気、見知らぬ土地、見知らぬ言語、見知らぬ人間。知らないものばかりで、知っているのは自分だけだった。其れ以外のものなんて、全て、まるで、別世界のものであるかの様で、受け入れ難い。のに、息苦しさと痛みで、すっと頭の熱が引いていく様な錯覚を覚えた。そう、こういう時こそ冷静で居なければならない。顔を上げて岩陰からひっそりと、辺りを冷静に見渡すのだ。時折通り過ぎる人々に気付かれない様に息を殺して静かに目だけを動かし見る。兎に角情報が欲しかったのだ。


「(日本…じゃあないよね…確実に)」


此処らはあまり土地整備がなされていないようで何処も荒れており、時折見かける人々は皆中国民族を思わせる様な緑色の服を挙って着用していた。何かの制服なのかと思ったが、其の割には皆同じ衣装なのだから不可思議で、余計に訳が分からなくなるのだ。


「(…どうしたもんか)」


顔立ちは東洋風、だが日本人の様に小柄では無く長身で背丈がある民族らしい。そしてとても古臭く見えた。現代には車等の便利な物があるのに、何故だか馬車なんてものがあるし、稲を籠に入れて背負い歩く人も居るのだ。まるで一昔前の時代では無いか。それも、日本というより中国の雰囲気があるのである。


「(何百年も昔の中国にタイムスリップ…って?はは、笑えない)」


中国の歴史とは、一体どんなものだったか。そもそも此処が中国かどうかさえ危うい。己の知ってる過去の中国なのかも微妙な所で何一つ確信は無い。


「(やっぱ昔の言語と現代の言語って違うのかな。さっき全然何言ってるのか分かんなかったし…)」


学生時代に学習した外国語の中にあった中国語を頭の中で巡らすが、どうにも先程聞いた言葉とは一致しない。岩に寄り掛かって首もとのスカーフを外す。仰ぎ見た空は薄っすらと曇っていて雨でも降り出しそうな天気だった。


「(おなか、すいたな)」


出勤前に食べたきりの胃袋は、すっかり空腹を訴えていた。こんな状況にも関わらず腹が減ったと思える自分は、意外と図太いのかもしれないと、何だか意外と何とかなりそうな気がしてくるのだ。


「(衣食住、まず確保しないと)」


衣服、食物、住居。其れは生きていく為に不可欠な必須品であり、何か一つでも欠ければ厳しい。先ず食物が無ければ餓死一直線だ。衣服と住居は最悪どうにでもなるが、これだけ服装が中国風の装いで統一されている中、今の航空会社指定の制服は目立つし、悪天候の日の野宿は厳しい。未だ気温は適温ではあるが、此れが冬になればもう凍死だ。そもそも、此処に冬があるのかも分からないし、其の頃まで此処に居るのかも分からないけれど。


「(こんな未来の筈じゃ、無かったんだけどなぁ)」


自分でも言うのも何だが、善良な生き方をしてきた方だと思う。反抗期も無かったし、成績優秀で学生時代を過ごし、胸を張って誇れる良い大学も卒業した。なりたかった職業にも就けたし、後はキャリアを積んで、落ち着いた頃に高収入な良い男と結婚して、子供を産んで、専業主婦になって、そんな思い描いていた将来が、未来の設計図が虚しくも一瞬で砕け散った。現実は飛行機事故で死んで、何故だが何百年も昔の中国に居る。


「(そもそも、何で日本じゃなくて中国…)」


未だ日本だったなら辛うじて試験対策で記憶した歴史が頭の中に残っている。全てが役立つとは思わないが、少しくらい、何かの役にも立ったかもしれない。中国の歴史なんて全然覚えていない。何時どんな事件が起きて、何年に戦争だとか、そんなもの一切分からなかった。


「(ちゃんと勉強しておけば良かったなぁ…)」


後からしておけば良かったと後悔しがちな勉強を、死んでタイムスリップしてからするとは露程にも思わなかった。









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