一年も其処に居れば意外と言葉は分かる様になるもので、会話だけでなく、読み書きにも支障が無くなっていた。其れは元々勤勉なだからこそ、早急に習得出来たのかもしれない。片言だった言葉も今では流暢なもので、客とのコミュニケーションも問題なく取れる様になってからはリピーターも生まれた。娼婦の様な不安定な仕事も、こうして少しずつ、少しずつ安定した収入となり、客の伝を使って古いものの家まで得る事が出来た。小さな家、雨漏りが少々気になるが、其れでも壁と屋根があるだけマシだった。以前なんて何処かの物置か倉庫の様な場所で寝泊りしていたのだから十分な進歩である。


「それにしても…」


朝まで仕事をし、日が昇る頃に眠ってから目覚めたのは昼前だった。疲れて直ぐに眠った為、空腹の胃が食事を求めて音を鳴らす。腹を摩りながらベッドから身を起こせば、目の前を光る其れが過ぎり、手を伸ばして人差し指を立てる。すると其れはひらりひらりと舞って、指先に静かに止まり大人しくなるのだ。


「変な鳥。鳥…ではないんだろうけどさ」


鳥と呼ぶにはあまりにも、其れは生物という括りを軽々しく超越してしまっている。


「君達、みんなには見えないんだよねぇ…」


まるで取り囲む様に宙を飛び交う名も分からぬ其れを眺める。ひらり、ひらり、可愛らしい音を立てて舞う其れは、自身に好意を持っていてくれているのが手に取るように分かった。


「…あったかいなぁ、君達は」


汚い家の中で、暖かで穏やかな空気が流れる。まるで晴天の昼下がり、優しい風が吹き、緑の葉が歌を謳う森で日光浴でもしている様な感覚だ。日光浴なんてした事無いけれど。


「道を開けろ!」

「邪魔だ邪魔だ!」


そんな心地良い空間に浸っていれば、全てをぶち壊さん勢いで聞こえてくる罵声。の心情を察知したのか鳥達は戸惑う様に飛び回る。


「何の騒ぎよ…うるっさいなぁ」


寝起きで乱れた衣服をそのままに、曝け出された胸元には気にも留めずに家の外へと出た。普段は静かな街も今日ばかりは何処か騒がしく、何処か一点に向けて人々が早足で向かって行くのが見えた。


ちゃん!見えてる!」

「見せてるんですう」

「やめろよ!!」


隣人の10近く年下の少年が、外へと出てきたを見て、其のまま視線は胸元へ。はっきりと谷間が見える其の豊胸にカッと顔を赤らめて胸元を隠す様に叫ぶのはもう毎度の事だ。


「いい加減その仕事辞めろよ。ちゃんなら普通の仕事絶対出来るって」

「それが出来ないから此の仕事してるんだよー」


君達と違って戸籍とか無いから。という言葉は胸の中に留めた。不服そうな少年を見下ろして、口元に手を添えながら小さく微笑めば、年頃の少年は頬を色付かせて視線を彷徨わすのだ。初心である。


「私ね、意外と結構この仕事、気に入ってるし」


一度穢れてしまえば二回目、三回目も平気なものだ。働く者達が気にする国の定めた上納点や配給量も収める必要も気にする必要は無い。国に何も干渉されない代わりに保証の無い生活ではあるが、身元不明の己の身にはむしろ好都合だった。以前の様な職場の人間関係や、社会のルールといった柵も無い。自由といえば、自由な暮らしだった。


「もう少し大きくなって自分で稼げる様になったら、お姉さんと一晩どう?高いけど」

「か、かかかか買うわけないだろ!!?」


首を手を、左右に勢い良く振って拒否の姿勢を取る少年に、声を上げては笑う。可愛らしい此の反応は、一体あと何年先まで見る事が出来るのだろう。彼も何れは大人になり、女を知る。其の時同じ言葉を掛けても、きっと今回の様な反応は見られないだろう。


「それで…冗談はさておき一体何の騒ぎ?」

「煌帝国の第二皇子がいらっしゃってるんだとさ」

「煌帝国…?」


咳払いを一つしてから、相変わらず赤みの差す顔で少年は人々が足早に向かう先を親指で指しながら答える。皇族が来ているとなれば一目見たさに人々が野次馬の如く集まるのは分からなくも無いが、其れ以上に引っ掛かりを覚えては首を傾げた。


「何処かで聞いた事あるような…何だっけ…」

「はぁ?聞いた事あるも何も、此処が煌帝国じゃん。もうボケてんの?」

「ああ、そうだったそうだった。もう更年期突入かなぁ」


此の街に来て早一年、初めて此の街が国である事と、其の国の名前を知った。誤魔化す様にボケた振りをして笑い飛ばせば、少年は先程からかわれた事への復讐なのか「ババアじゃん」なんて呟いたので、にこりと笑って威嚇だけしておく。と、少年は直ぐに謝罪を口にした。


「そ、そう言えばちゃんは皇子見たことある?」

「無いねぇ」

「まあ、滅多に見れるもんじゃないからな!」


話を逸らす様に掛けられた問い掛けには素っ気無く返事をする。にこにこと貼り付けた笑みで頷く少年は、相当先程の威嚇が効いていた様だ。


「見に行く?」

「一目見ておくのも悪くない」

「何でそんな上からなのさ」


少年の提案に乗っかれば、其の姿勢に苦笑する少年が道案内する様にこっちだとの手を引いて人の流れに乗っかって歩き出す。肌蹴た胸元には赤面する割りに、手を繋ぐ事に羞恥心は無いらしい。此の年の子供はどうも難しい。


「人が多いねぇ」

「こんな辺鄙な所に皇族が来るなんて珍しいからさ。みんな一目見たさに集まってるんだよ」


人の波を掻き分けて、立ち止まる人々の間をすり抜け、進める所まで進み、立ち止まる。頭と頭、肩と肩の隙間から、皆の視線を集める集団を漆黒の瞳に映した。


「ほら、あそこ」


少年が指差す先には、一際目立つ紅の髪をした背の高い男。鼻頭に何やらそばかすの様な、何かの跡があり、黒い羽扇を持つ軍師の様な格好をした男は、離れていても分かる上質な衣服を纏い、従者に囲まれながら己の足で地を踏みしめて歩く。


「煌帝国第二皇子、練紅明様だよ」


光り輝く鳥が、音を立てて紅明との間を飛んだ。


「紅明…」


少年が口にした、この覇気の無い第二皇子の名前を舌の上で転がした。紅明は真っ直ぐ正面を見据えて一定の速度で真っ直ぐ歩き、周囲の野次馬には目もくれずに唯々、進む。


「あ」


刹那、目の前を横切る男と、聞いた名前が繋がった。の中で散らばっていたピースが嵌り、一つとなったのだ。


「“マギ”」


以前、友人の勧めで読んでいた漫画のタイトル。其の登場人物に“練紅明”がおり、“煌帝国”が存在する。今まで何百年も前の中国にタイムスリップしたものだと思っていたが、どうやら漫画の世界に迷い込んだらしい。驚愕通り越して最早驚き等皆無。精々、まじかー、と思う程度だった。


「…帰ろ」

「え?帰んの?」

「もう見たしねぇ」


一瞬、紅明が此方を振り返った様にも見えたが、直ぐ様、視線を少年に落として握られたままの手を引く。急に踵を返しだしたに少年は首を傾げながらも、少年ももう良いのか特に引き止める事もせず人の波に逆らって二人は紅明と其の従者一向に背を向けて離れた。


「(じゃあ、あの鳥は“ルフ”か)」


此処がマギの世界ならば、あの皆には見えない鳥の様な光り輝くアレは、間違いなくルフだ。と、なると更なる疑問が湧いて来る。


「なあんで、見えてんのかねぇ」

「?」


魔導士でも、マギでも無いのに。何でそんなものが自分には見えるのか。此処が過去ではなく、マギの世界だと気付けた事は大きな収穫だが、分からない事は未だ未だ沢山あるようだ。


「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり…ってね」

「さっきから何意味わかんないこと言ってんだよ」

「んー?お姉さんの独り言がそんなに気になるう?」


不審な目を向けてくる少年を適当に流し、己の周りを飛び交うルフにほんの少し笑みが漏れた。落ち込んでいる時には元気付ける様に、寂しい時には温もりを与えてくれる優しい彼等の名を知れた事は、何より嬉しかったのだ。そんなの背中を、じっと見つめる視線があった事には始終気付く事は無かった。


「いかがなさいました?紅明様」


人混みの中に消えて行く女の割には背の高い、長い黒髪の女の姿を目で追う。紅明の視線の先に気付いた従者が声を掛ければ、紅明は直ぐに視線を正面へと戻して否定の言葉を口にする。


「いえ、何でもありません」


其の返答に素直に納得したのか、従者は其れ以上追求する事は無く、紅明は再度横目に女の居た場所に視線をやった。しかし其処にはもう女の姿無く、紅明は視線を落として羽扇で口元を隠す様に持ち直した。


「(今、確かに“マギ”と…)」










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