此の世界で生きていく為に先ず学んだ事は、馬鹿になる事だった。考えれば考える程に分からなくなっていくからだ。具体例を上げるなら、何故自分はマギの世界に居るのか。きっかけは恐らく例の飛行機墜落事故に依るものだが、何故自分は死なずに紙面上に描かれた架空物語の中に迷い込んでしまったのだろう。そもそも、どうやって。むしろ、何故魔導士でもマギでもない自分がルフが見えるのか。しかもとてつもなく懐かれている。等々、世界に関して考え始めればきりが無いのである。又、現在の娼婦という職についてもそうだ。別に娼婦になりたかった訳ではないが、其れしか出来なかったので選択したまでだ。身体を売る事に抵抗は無く、むしろ手っ取り早く大金を稼げる事から娼婦という仕事に嫌悪は無いが、それでももしも孕んだら、病を移されたら、と思うと不安で仕方が無くなるのもまた事実。だからこそ、が選んだのは“馬鹿になる事”だ。即ち、“思考放棄”である。考える事を辞めてしまうのは、とてつもなく楽だった。何だかどうにかなるような気になれるのである。実際問題、一年経った今も妊娠した雰囲気もなければ、病にかかった様子も無い。何時までも娼婦で在り続けるには年齢的にも無理があるだろうが、出来なくなった時に次の職を其の時に考えれば良い。そう決めて、毎晩知らぬ男と身体を重ね、快楽に身を委ね、金を握り締めて家に帰るのである。とまあ、端から見れば悲惨な毎日を、は自ら選んで過ごしていた。


ちゃーん!おーい!未だ寝てんのかー!」


どんどんどん、扉を叩く音と隣人の少年の声が家の中まで聞こえてくる。布団に包まり深い眠りに落ちていたの意識は其の騒々しい音と呼び掛けに引き上げられ、重すぎる瞼を擦りながらベッドから身を起こす。其の間も我が家唯一の扉からは耐えず殴る様なノックの音と、を呼ぶ声が止まらない。ベッドから降り立ち、サイドテーブルに置いていた分厚い書籍を手にとって、は寝起きで半眼のまま、ふらふらと歩いて扉へと向かうのだ。


ちゃーん!ちゃーん!早く起きねぇと糞婆に…ぶっ!!!」

「黙れクソガキ」


扉を開けると同時に書籍を少年の顔に減り込ませて強制的に黙らせる。落ちた書籍から挟んでいた栞が抜け落ちるが、もう何回も読み返している本だ、内容は全て把握しているので差し支えは無い。


「お前が“”か?」

「はぁ…?」


顔を覆って前のめりになる少年の後ろから、強面の顔を引っ提げてを見下ろす男。曖昧な返事をするを品定めする様に一通り不躾な視線を向けたのなら、此の無礼な男はふんっと一度鼻を鳴らすのである。


「良かろう。案内御苦労だった」

「い、いえ…!」

「何の話?全然見えないんだけど」


鼻先を真っ赤にした少年に心の篭っていない労りの言葉を送れば、少年は首を横に振る。状況が理解出来ないはそんな少年と男を交互に見やるのだ。


「此の街に美女が居るというのでな、私自ら参ったまでの事」

ちゃんは此処等じゃ有名だからね…!」


ふんっと踏ん反り返る男に、涙目で頷く少年。は少年から男へと視線をやると、男がに向けた視線と同様に、不躾な視線を向けるのだ。上質な布、繊細な細工の施された刺繍。煌びやかな光沢、高貴な色で着用の許されない白を着る、此の男。格好からして相当な地位に居る事は明白で、は扉の枠に凭れ掛かり腕を組みながらも、言葉遣いを改めた。


「御足労頂き有難う御座います。…然しながら御見受けします所、私を買いに来て下さった訳では無い様ですが?」

「左様。私は官吏として任を果たすべく訪れている」

「官吏様が、こんなボロ家にいらっしゃる等…どういった御用で?」


表情こそ挑発的な笑みではあるが、内心焦っていた。戸籍が無い、突然現れた女、身元不明、己が此れまで恐れ、隠し通してきたものが脳裏を過ぎる。他国からの不法侵入者、スパイだとでも勘違いされでもすれば、どんな拷問が待っているかも分からない。自分は捕まるのだろうか、そんな不安が顔に出ない様に気を張りながらは余裕の色を全面に押し出すのである。


「お前には一緒に洛昌まで来て貰う」

「…洛昌、で御座いますか」


洛昌と言えば煌帝国の帝都である。嫌な予感が過ぎる。


「如何にも。お前に仕事を頼む」


という名目で、取調べや拷問でもするつもりだろうか。官吏の真っ直ぐ見つめ、其の真意を探る。が、結局何も分からぬ訳で、はそっと視線を落とすのだ。


「…暫し御待ちを。荷を纏めて参ります」

「必要無い。其の身一つで事足りる」


踵を返し、家の中へと引き返そうとすれば有無を言わさぬ言葉で制止させられた。立ち止まるしか無かった足、立ち止まってしまった足。窓からの逃走を見破られて引き止められたのか、其れとも本当に荷が必要ないからなのか。真意は分からぬままだ。


「(死んだかも)」


諦めて、官吏に振り返り微笑を一つ。どうにでもなれ、それは魔法の言葉だ。どうにかなる、そう、どうにかなるのだ。何せ今まで、どうにかなってきたのだから。最悪馬車から飛び降りて逃げるでも良い。方法は幾らでもあるのだろうから。



















馬車から飛び降り逃走は結局実行される事も無く、馬の引く箱の中で官吏と暫しの沈黙を楽しんだ後、到着したのは煌帝国の帝都、洛昌であり、皇族達が住んでいる城“禁城”だった。いよいよかと気を引き締めていたものの、そんなもの吹っ飛んでしまうくらいの目紛るしさだった。


「良いですかな、殿。決して、決して無礼はなさらぬように!!」

「…承知しております」

「決して、ですぞ!!?」


到着するや否や大浴場に放り込まれ女官達に髪を身体を洗われ、湯を終えると触れた事も無いような高級の衣服を何枚も何重に着させられ、髪を結われ、化粧を施され、あれやこれやと貴族並みに着飾られた唯の下賤な娼婦は、見事な変身を遂げた。此処に連れて来た官吏の後ろを重い服にうんざりしながら付いて歩けば、時折擦れ違う此処で働く者達からは熱い視線を向けられる。居心地の悪さを感じながらも口煩く先程から同じ言葉を繰り返し発する官吏の言葉を聞き流した。


「ならば己の身、此れからの務めを申してみよ!」


幾度と無く繰り返される話は、幾度と無く此の復習を行なわされる。いい加減、その執拗な言動態度に口元が引き攣り始めるが、胸の内の感情が表に出ぬ様に精一杯抑え込んでは何度目かになる台詞を義務的に紡いだ。


「此度は急病にて床に伏された姫君の代理として煌帝国皇子と夜伽を致します」

「お前の素性は」

「明かさず、娼婦である事は内密に」


此れで満足かとジト目で見やれば、一応納得したのか渋々と頷く官吏にまた苛立ちが増す。其れ程、娼婦である事を隠したいのであれば最初から娼婦等呼ぶなと叫んでしまいたくなるのは致し方無い事だ。


「皇子は近頃軍議に追われ多忙の身。数多くの女を毎晩与えてはいるが、全く興味を示されず何事も無く夜が明ける日々だ」

「女に興味が無いのでは無く、単純に疲労が勝るが故では?」

「男たるもの、女を目の前にし興味を示さぬ筈が無い!」


強く握られた拳、今日一番の気迫で断言する官吏は、まるで女に反応せぬ男は男では無いと思い込んでいる様で、心底は官吏を馬鹿だと呆れ、軽蔑した瞬間である。


「お前に娼婦としてのプライドがあるならば、皇子を必ずや其の気にさせ、男としての本能を呼び覚ませてみよ!」

「(こいつ唯の馬鹿だ!)」


無礼にも人差し指を突き出し、周囲が驚き振り返る声量で叫んだ官吏は、娼婦である事を隠したい割には、自ら周囲に娼婦である事実を晒している。一体隠したいのか隠す必要が無いのか何方なのか。訳の分からぬ官吏にいよいよ我慢がならなくなり始めた頃、皇子の寝所に到着したのか官吏はに静かにする様に促すのである。


「(さっきから五月蝿いのお前だって)」

「皇子、御連れ致しました」


官吏が胸の前で手を合わせて敬礼の構えを取り声を掛ければ、閉ざされた扉の向こうから入室を許可する声が返って来る。官吏がに目で合図を送ればは端へと寄り、官吏同様敬礼の構えを胸より上、顎辺りで取れば、俯く様にやや下を向いて控えるのである。静かに開かれる扉、中へと入って行く官吏に耳を澄ます。


「今宵の今宵の娘は上玉で御座いますよ」

「はぁ…。其れよりも早く寝たいのですが」

「皇子たるもの、来たるべき日に問題無く子孫を残せる様に備えなければなりません」


強く夜伽を推奨する官吏に対し、乗り気じゃない皇子に同情が募る。日中は業務に追われ、夜は子孫繁栄に尽くし、皇子と言えば煌びやかな印象を受けるが、其の実態は意外にも過酷なものなのかもしれない。


「(けど拷問とかじゃなくて良かった)」


最悪の事態ばかり想像していたが、結局は皇子と子作りを依頼されただけの唯の仕事だ。報酬は王族相手だけあってかなり弾んでいるし、暫く仕事をしなくても十分にやっていける額である。十分美味しい話だった。唯、子作りを依頼する割に身元を調べて居ない所が少し気掛かりではあるが。戸籍等で国民を管理していないからなのか、次回へは繋がらぬ急な事態に対しての一時的な処置故に調べる必要が無かっただけなのか。


「其れでは私は此れで…」


室内の官吏が退室を口にし、足音が近付いて来る。目だけを上げれば、此方を一瞥し横を通り過ぎる官吏が見えては再度視線を落とした。扉は開かれたまま、入室はしない。皇子の声が掛かるまでは待機する様にと事前に官吏に口酸っぱく言われていたからである。


「どうぞ」

「…失礼致します」


皇子の声が、掛けられる。背筋を伸ばしたまま、けれど顔は上げずに俯いたまま入室すれば後方からは扉が閉ざされる音が聞こえた。完全な二人きりの空間が出来上がる。視線は未だ上げない。


「申し訳無いのですが非常に眠いので今日は何も出来そうにありません」

「…はぁ」

「ですから、どうぞ先に寝て下さい。私は此の書物に目を通してからにしますので」


やんわりと、けれどはっきりと夜伽は拒否された。其れは事前に想定していたので特に驚きも無く、そりゃそうだと納得する。あの官吏は此の結果に不満を零す事だろうが、としても何もせずに報酬を得れるなら其れ程楽な仕事は無いので無理強いをする気は無い。が、例え皇子に先に寝ろと命じられたとしても、素直に応じれる訳では無いのだ。尚且つ、此の時刻はいつも仕事中なので眠気が全く無いので眠れる気配も無かったりする。


「顔上げて下さい。どうぞ遠慮無く此方へ」

「はい。では失礼します」


寝台の傍で控えるに淡白な声が掛けられる。従う様に敬礼は解かずに顔を上げれば、寝台に腰掛けて長い巻物の書物を手に広げる紅の長い髪を持つ見覚えある顔が其処にあった。










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