「…紅明、様」

「はい」


には目もくれず、書物にびっしりと書き綴られた文字を追う紅明を、つい咄嗟に呼び捨てにしてしまいそうになった。後付けの様な形になった様付けだが、紅明は気付いていないのか、気にしていないのか、これといった反応は無い。


「(紅炎も紅覇も相手に敬語なんて使わない)」


禁城に住む王族は練家以外に他は無い。後継を気にし、毎晩夜伽を指示される上位継承権者は第一皇子の紅炎、第二皇子の紅明、若しくは第三皇子の紅覇くらいだ。第四皇子の白龍は夜伽は無いと原作に記載があったので、精々あっても紅覇迄である。となると、紅炎も紅覇も、其の性格から他人に敬語なんて使う人間じゃない。官吏が相手でも、一夜限りの用意された女にも敬語で話すのは紅明の他にいないのだ。


「(顔を見るまで気付かなかったなんて…自分が信じられないわ)」


顔には出さず、内心自分に呆れた。そして今更ながら、断られたといえど偶然とは言え肉体関係を持つ状況に陥った事に驚愕だ。あくまで仮の話ではあるが、今宵肉体関係を持ち、子が産まれたとして、もしも紅明が皇帝を継承し、更に産まれた子が継承する事になれば一躍王の産みの母として、下賎な娼婦がとんだ大出世である。


「(有り得ない話だけど)」


先程言われた通り、紅明に其の気は無い。排卵期でも無い今夜、夜伽をしたとしても、身籠ることはほぼ無いと言える。今宵は此のまま何も無く朝を迎え、しっかりと約束の報酬を受け取り、あの街へと戻る。そして今まで通りの生活に戻るのだ。此の美しい衣装も、化粧も、今夜限り。二度と体験する日は無い。


「どうかしましたか?」


名を呼んでおきながら、何も話さないを不審に思ったのか紅明が書物から顔を上げた。そして美しく着飾ったを初めて視界に入れれば、細い目を薄っすらと見開き、驚きを露わにするのである。


「貴女は…」

「?」


紅明は信じられないとばかりにを見ており、何故其れ程驚いているのか分からないは、首を傾げるだけだった。


「何故此処に?」

「…紅明様、恐れながら話が良く…」


書物は完全に膝に置かれ、紅明は真っ直ぐとの瞳を見つめる。其の瞳があまりにも真っ直ぐで、つい気後れしてしまいそうになった。原作においても戦闘には不向きの印象を受ける彼だが、流石ジンに選ばれた王の器、其の迫力は本物である。


「先日、視察で某街へと行った際に貴女を見ました」


あの日か、と直ぐに理解をしたの後、存在に気付かれていた事に動揺した。そして官吏に口煩く素性を隠す様に言われていたが、既にバレている事実にどう対応したものか悩む。はぐらかして素直に納得して貰える相手だろうか、否、絶対に無い。そもそも何故、自分の存在に気付き、覚えていたのだろうか。あの場には数え切れない程の人間が野次馬の様に集まっていたのに。


「丁度良いです。貴女に尋ねたい事があります」


落ち着いた声に自然と緊張感が漂い、身構える。身分の違い、此の場にどう侵入したのかを問われれば真っ先に官吏の所為にしてしまおうと決めた。


「何故あの日、“マギ”と言ったのですか?」


が、予想もしなかった問い掛けに一瞬呼吸が止まった。あんな小さな呟きを、まさか聞き取られていたとは。動揺は表には出さず、顔にはへらりと笑みを浮かべて咄嗟に言葉を紡ぐ。


「紅明様、何を仰られているか私には分かりませんわ」


これ以上、怪しまれる訳にはいかない。悟られる訳にもいかない。相手は此の国において最も頭の切れる人物と言っても過言では無いのだ。自然を装い微笑んで、誤魔化す。


「何故唯の国民である貴女が此処に居るのかは分かりませんが、其の事については咎めるつもりはありません」

「誰かと勘違いをなさっていらして?」

「貴女を罰するつもりは毛頭ありません。私が聴きたいのは何故、マギと呟かれたのか」

「お言葉ですが紅明様。私、紅明様にお会いするのは今宵が初に御座います」

「隠す必要は有りませんよ」

「いいえ。何の事だか、さっぱりですわあ」

「何故、私を見て“マギ”と?」

「紅明様の気の所為かと思われますねぇ」


マギという単語は、特別なものでは無い。実際に煌帝国には神官、ジュダルと言うマギが存在する。マギの存在は隠されたものでは無いので知っている事自体は可笑しい点は無い。唯、だからといえ紅明を見てマギと口走った事を説明する事は難しい。なので全てを有耶無耶にする。あの場に居た事も、マギと呟いた事実も、全てを無かった事として、一歩も引かずに白を切り通すのだ。


「一筋縄ではいかないようですね」

「そもそも縄等、御座いませんもの」


目を細めて溜息を零す紅明と、にこりと微笑み続ける。暫し見つめ合いが続くものの、意外にも折れたのは紅明の方で、紅明は広げて居た書物を慣れた手付きで巻き始めた。


「書物を読まれるのでは?」

「今は貴女の方が興味深いので目を通すのは明日にします」


巻き終えた書物は寝台の横にに設置された机へと置き、紅明は座り直して布団を被る。傍に佇んだままのに視線を投げかければ、橙色の淡い光を放つ間接照明の火が揺れた。


「名を聴かせて頂いても?」


光に照らされた紅明が、とても神秘的に映る。同時に、目の下にくっきりと色を付ける隈がとても残念に思えた。


…と申します」

殿。此方へ」


紅明に隣を促され、従う様に歩み寄る。寝台を目の前に紅明に目をやれば、入れと指示されている様では本来の仕事内容を思い出しながら絹の触り心地の良い布団に手を掛けた。


「失礼致します」


一声掛けて、寝台へと上がる。人一人分の重みが増して沈み軋む寝台だが、広い寝台は二人乗ろうが十分な余裕があり、窮屈感等まるで無い。腰掛け向き合う男女には、本来あるべき甘い空気や、艶かしさは皆無だった。


「話をしましょう。殿」

「紅明様が楽しまれる様な話は持ち合わせておりませんが」

「貴女の事を知りたいのです」

「尚更、第二皇子の紅明様に御話出来る話は御座いませんよ」


遠回しに話す事は何も無いと告げるが、紅明は素知らぬ顔だ。若しくは端から期待をしていないのかもしれない。


「夜伽は良いのですか?」

「毎晩毎晩飽きます」

「でしょうね」

殿はあの官吏より理解力が有る様です」

「其の気も無い義務的なものでは出るものも出ないでしょう」


肩を下げて息を吐く姿は、日頃よりあの官吏には手を焼いている様で呆れ顔である。そんな紅明の姿が、とても身近に感じられたのかもしれない。だからこそ口から自然と零れた発言は王族相手に言うものではない下品なもので、紅明は驚きに目を丸くし、其の後何とも言えない渋い顔をするのだ。


「意外と…女性らしからぬ発言ですね」

「下卑だと仰られれば良いのに」


今更、姫の代理らしく上品に取り繕うにはもう遅い。一般国民である事に気付かれている以上、わざわざ彼に媚を売る必要も無く、は自然と口元を手で覆ってクスクスと笑った。


「明日も此処へ?」

「今宵だけかと」


明日はきっと例の官吏が皇子に相応しい身分の美女を連れて来る事だろう。今夜だけ、今夜だけの繋がりだ。


「では官吏に頼んでおきましょう」


とんでもない事を口にしながら紅明は結っていた髪を解く。長い紅の髪が真っ白なシーツの上に滑り落ちるのを視界の端で捉えながら、詰まる喉から何とか言葉を吐き出そうとするものの結局音にはならなくて、紅明は柔らかく微笑むのだ。


「報酬は弾むでしょう?」


あ。バレてる。唯の国民というだけでは無く、其の仕事まで。確かに普段から娼婦を匂わす様な露出度の高い格好なのだ、あの街で見たのならば、格好から仕事内容を勘付かれるのは当然だ。となると、殆どもう気付かれているという事で。


「ええ。暫く仕事をしなくて済みそうです」


此の世界に飛ばされて来た事以外は、もう隠す必要は無いのだ。


「紅明様、そろそろ寝ましょう。夜更かしはお肌の天敵です」

「…こんなに早く寝るのは久しぶりです」

「でしょうね。目の下の隈、肌荒れが気になります」


己が先ずは横になり、羽毛の枕なのかやけに触り心地の良いふわふわの枕に頭を預け、腰掛けたままの紅明を隣に横になれと言わんばかりにシーツを叩く。まるで子供扱いをするようなの態度に困惑しながらも従う紅明は身体が大きいだけの子供の様だ。


「兄弟以外にそんなはっきりと言われたのは初めてです」

「嫌じゃないでしょう?」

「そうですね」


向き合う様に横になり、同じ布団を被っての至近距離。少し爪先を動かせば、紅明の足に届くだろう。紙面の中での存在が、今、目の前に、息遣いすら耳に届く距離に居る。


殿は何時から此の様な仕事を?」

「そんな事はどうでも良いので早く寝て下さい」

「…私、此れでも皇子なのですが」

「わかってますよ」

殿より年上ですよ」

「だから何ですか?」


寝かし付ける様に紅明の頭を一定のリズムで撫でる。髪は思っていたより柔らかいが、男なだけあってやはり少し硬い。紅明はの自分に対しての態度に不満の様だったが、結局の有無を言わさぬ微笑を前に口を閉ざし、ゆるりと瞼も下ろすのだ。


「おやすみなさい、紅明様」


良い夢を、見れると良い。










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