客観的に見ても状況としては確かには“アラー”と呼べる存在の様ではあるが、は断固として其れを否定していた。百歩譲って“向こう側の人間”であることは認めるが、其れでもルフの母、神とも称せるという“アラー”なんて存在では無い。ルフの流れなんて知らないし、運命なんて司った覚えも無い。自分の意思で世界の運命を思うがままに出来る実感も無ければ、そんな器は自分には無い。確かに自分には何故かルフが見えるし、何故かとても懐かれている様だが、きっとそれは此の世界から見て異端な“向こう側の人間”であるから単に面白がられているか、気になるのか、どちらにしてもそんな理由に違いないのだ。


「さ……は……や…わ…」


絶対に、自分はそんな存在では無い。唯の向こう側から来た迷子の人間である。


「で、きた…」


手の中の筆を小刻みに震えるまで握り締める。見事な完成系、非の打ち所の無い出来栄えは自身の人生においての最高傑作だ。墨が半乾きの其れを扇いで乾かし、完全に乾いたのなら丸めて片手に握り締めた。勢い良く扉を開け放ち、飛び出す様に部屋を出る。廊下に控えていた官吏達が驚愕に目が飛び出さんばかりに見開いてに制止を掛けるが、聞く耳持たずで振り切り、は見るに耐えない格好で大股に廊下を突き進んだ。



















其の頃、書斎室を丁度後にした影が二つ、華やかな装飾がなされた廊下を並んで歩いていた。高い背丈に、同じ紅の色をした髪は一方は長く、一方は短い。体格も二人並べば髪の長い方がどうも華奢に見え、似ている様で似ていない二人は大股に廊下を突き進む。


「近頃決まった女を夜伽に呼んでいると聞いたが」

「ああ、殿の事ですか?」


不意に体格の良く髪の短い方、顎鬚を生やした煌帝国第一皇子、練紅炎が問いかける。其れに気の抜けた返事を返すのは弟に当たる紅明だ。羽扇の羽が歩く度に風を受けて柔らかく揺れる。ぼんやりと己の寝所で今頃死ぬ物狂いで書物を読んでいる彼女を脳裏に思い浮かべながら、遂に紅炎の耳にまで届く様になった事実に彼女の存在は城中に広まるのも時間の問題だと息を吐いた。


「お前が遂に其の気になったと官吏が騒いでいた」

「別に其の気になった訳では無いですよ」


実際問題、夜伽の名目で彼女を毎夜呼び付けてはいるものの、一度だって行為に及んだ事は無い。有り得ないといった風に羽扇を左右に振って否定すれば、紅炎はならば何故と言いたげな視線を紅明へと投げ付けるのである。


「とても興味深い方でしてね」


羽扇の下でゆるりと弧を描く口元。あの紅明が他人に興味を抱く等、珍しいと素直に驚く。そして紅明は最も紅炎の興味をそそる言葉を口にするのだ。


「兄王様の知識欲も少しは満たされるやもしれません」


小さく紅炎の片眉が反応を示した。それはどういう意味かと問い詰める口は開かれるものの音にはならない。何故なら紅明の向こう側、紅明から見て背後に音も無く忍び寄る見覚えの無い背の高い女が見えたからだ。


「あいたっ!」


そして其の女はあろうことか、煌帝国第二皇子である紅明の頭を巻物で容赦なく殴ったのである。


「痛いです」

「痛くしたんだよハゲ」

「未だハゲてません」

「将来ハゲんの?」


殴られた頭部を押さえながら、振り返った紅明が文句を零すも負けじと言い返す女は、とてもじゃないが淑女とは言い難い身なりだった。つい目がいってしまう豊胸の谷間や、傷一つ無い白い陶器の様な肌。乱れに乱れ、着崩された衣服は素材こそ高級なものの気品というものを完膚無きまでに削ぎ落としている。此処まで素材を台無しに出来るとは一種の才能の様なものさえ感じはするが、其れでも何故だか其れがとても女には良く似合っている様に見えた。


「ほら」

「これは?」

「トラン語を表にした」


女は巻物を紅明へと手渡し、紅明は其れを受け取る。其の場で広げて見れば四角に囲われ、区切られた枠の中に書かれるトラン語の文字。恐らくトラン語全ての文字を纏め上げた代物を見やって、紅炎は感嘆の息をひっそりと零した。此れまで纏めれる博識な者は此の国には居ない。


「詳細は今晩説明するから。今日もでしょ?」

「勿論ですとも」

「じゃ、とりあえず私帰るから。ちゃんと徹夜代と残業代払って貰うから」


恥じらいも遠慮も無く金の話を残し、早々に踵を返そうとした女を、紅明は引き留める事は無かった。夜になれば会うのだから、今態々引き留める必要が無かったからなのかもしれない。


「おい、女」


しかし、だからと言って其の事情は紅炎の知った事では無いのだ。引き留められた女、は明らかに迷惑そうな顔付で立ち止まり振り返る。紅炎を見て、其の後に助けを求める様に紅明を見、再び紅炎を。上位継承権が巡りに巡って来た今、こんな扱いを、態度を向けられるのは久方振り、いや、此処まで酷いのは初めてでは無いだろうか。


「何だ」

「いえ、何でもありませんわぁ」


追求すれば誤魔化す様に、にこりと笑って笑うを紅炎は無言で見つめる。迫力ある其の視線を一身に受けながら、内心は焦っていた。


「(紅炎…全然気付かなかった)」


紅明の背後に誰かが居るのは気付いていたが、従者の誰かと思い込んでいた。完全に紅明しか見ていなかったとも言える。紅炎の視線が、の瞳を貫いて離れない。夜伽の関係性でしか無いのに、皇子である紅明を、紅炎からすれば弟の頭を目の前で殴ったのは不味かった。むしろ言葉遣いもかなり不味かっただろう。此れから何を言われるか、紅炎の口から吐かれる言葉に身構える。煌帝国において紅炎はかなりの権力者であるのだから、紅炎の決定は絶対なのだ。


「こいつか?」

「ええ、殿です」


紅炎が紅明に問えば、二つ返事で答え頷く紅明に疑問が湧く。一体何の話なのか。己の知らぬところで噂をされていたのだろうか。仮にそうだとすると、きっと良い噂では無いのだろう。其れを証明する様に紅炎は眉を顰めて再度に目をやり、紅明に再度問うた。


「こいつか?」

「はい。そうですよ」


再度、紅明の肯定にいよいよ紅炎の表情が険しくなる。居心地の悪さに浮かべた微笑みが引き攣りそうになるのを根性で維持しながら、はにこりと笑い続けた。実際はが思う紅明に対して行った言動、行動云々に紅炎が怒りを覚えているのでは無く、単純に紅明が言う、紅炎の知識欲を満たす存在に見えずに疑ってかかっていただけなのだが。紅炎から見れば、此のだらしない格好の淑女から程遠い夜伽の女は、頭の悪い女にしか見えなかったのである。


「兄王様」


其れを正確に読み取って、紅明はを弁護する様に紅炎の耳元でそっと囁くのである。


「先日、彼女は我々が未だ解読出来ていないトラン語の一文を解読しました」

「…内容は?」

「アラーについてです。今朝専門の者に確認も兼ねて原文と解読文を照らし合わせさせた所、内容は正確の様です」


信じ難いと言わんばかりに、紅炎の不躾な視線がへと浴びせられた。にこにこ、微笑むの表情筋が崩壊しかけた刹那、紅炎は一度鼻でを笑い飛ばすのだ。


「見かけによらず聡い様だな」

「身に余る光栄に存じます、総督閣下」


何だこいつ意外とムカつく。と、思った気持ちは絶対に表には出さない。皮肉にも聞こえる言葉には屈せずに、持ち前の対人用の笑みを貼り付けて敬礼をして頭を下げた。本当は頭なんて下げたくも無いが、どうしようも無い身分の差を思えば幾らでも頭は下げれるものだ。社会とは、そういうものだからである。


と言ったか」

「はい」

「今宵、訪れる際には己の荷を纏めて持ち込むが良い」

「…は?」


服の裾を翻し、言い逃げも良い事に立ち去る紅炎の背中に間抜けな声が零れた。全速力で回転する頭ですら理解出来無い紅炎の言動に動揺するの肩を、ぽんと優しく紅明が叩く。振り返れば良い笑顔の紅明が居た。


「良かったですね、住み込みの仕事の許可がおりましたよ」


つまり、街には今後帰らずに禁城に住みながら、トラン語の解読をせよとの事だ。










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