一度自宅に帰り、折角凡ゆる破損の補修が終わり住み心地が良くなった家を泣く泣く別れを告げ、少ない荷物を禁城へと持ち込んだ夜。折角持ち込んだ服(と言っても国民服だが)は早々に没取、そして処分され、代わりに与えられたのは此処最近毎晩袖を通す上質な衣服だった。赤、青、黄等、緑や茶以外の様々な色合いの其れを目にした時には目眩すらした。その中でも一番質素な黒い衣服を湯を終えた後に着用し、無駄に広い禁城を一人歩いて紅明の寝所へと向かう。以前なら湯も着替えも化粧も寝所までの道程も常に女官や官吏が付いていたが、今回は付添人が誰一人居なかった辺り、今後は完全に自由行動となるらしい。一体此の城の中で自分はどういう位置付けなのか気になる所だ。まさか紅明の側室扱いならば是非とも遠慮したい所である。誰かの嫁に、其れも側室等なる気は無いし、なりたくも無い。


「紅明殿ー、入るよー」


入室の許可を貰う前に、遠慮の欠片も無く開け放つ扉。純白の寝衣を纏う紅明は定位置で書物を片手に昼間にが渡したトラン語の表に目を通している。相変わらず勉強熱心だと感心しつつ、後手に扉を閉めて入室すれば、は寝台に勢い良くダイヴするのだ。


「こら。飛び込むのは止めなさい」

「母親か!」


跳ねるマットに、舞うシーツ。香を焚いた寝所は良い香りで此処最近の癒しの空間である。つい先日までは逆転した生活をしていたが、夜伽に呼ばれる様になってからは正しい生活リズムとなり、此の時間はとても瞼が重い。今日から住み込みになるのだから、トラン語の説明は明日にでも回して今日は早めに寝てしまおうと瞼を下ろす、が、腕を強い力で引き起こされて座らされれば眠る事は許さないと目で訴える紅明には溜息を吐いた。


「もう明日にしよ、そうしよ」

「ダメです。明日は朝から夜まで軍議続きなので時間がありません」

「それは紅明殿の都合でしょお」


そんなの私の知った事じゃ無い!という反論はやはり通る事は無く却下された。


「この仕事辞めたい」

「我慢していれば気付いた頃には一生遊んで暮らせる額が手に入りますよ」

「其れは美味しい話よねぇ」


生活していくにはお金がいるのは、例え世界が変わろうとも変わらない原則である。己の現金さを笑いながら下ろした長い髪を邪魔にならないように一つに纏め、右側に流す。そして紅明から表を奪い取ると、其れを寝台の上に広げて一つずつ指差して説明を始めた。


「で、昼間に渡した此の表だけど、見ての通り此れはトラン語の各文字の読み方に記した表。取り敢えずこれがあれば大体の文字の読みは分かるし、解読も簡単だと思う」


昨日の夜、睡魔との戦いを勝ち抜いて仕上げた此れは、以前の世界で言う平仮名の五十音表の様なもの。日本語と同じ文法で、違いは平仮名が得体の知れない記号というだけの変化は、とりあえず此の文字さえ抑えていればどうにかなる。其れはだけであって、文法が分からぬ彼等の様な此の世界の住民にはとても難しい事なのだろうが。


「良い?先ずトラン語は基本的に主述構造で…つまり…だから例えばこの一文は…」


文章の成り立ち、構造を説明はするが、最悪文法の理解できなくとも、此の表を見て文字を書き換えてもらえるなら、後はが朗読し、其れを誰かが書き記せば良い。最も、遠い未来を見据えるならば彼等でも解読出来るように知恵を授けておくのは必須だ。は唯の人間なので寿命がくれば死ぬからだ。永遠に生きる事は出来ない。


「成る程。では此処の一文は…」

「そう。此の解釈でも構わないけど、こっちの方がより自然」


慣れ親しんだ言語を、こうして人に教えるのは初めてな事で、普段何も考えずに使っている言葉を教えるのはとても難しい。何時ぞや読んだ日本語の文法や構造が記載された本の記憶を引っ張り出しながら、一つ一つ丁寧に紅明に説明を続けた。元々の頭の作りが良いのだろう、紅明はの説明を明確に読み取り、理解し、疑問があれば的確な問いをにぶつけ、更に知識を広げていく。物覚えの良い子供にものを教えるのが面白いというのは、此の吸収の良さだろう。最も紅明は子供ではないし、よりも年上ではあるが。


「教えが御上手ですね」

「紅明殿の読み込みが良いからねえ」


褒め言葉には褒め言葉を。互いに互いを認め合い、知識を分け与え、得ていく。次の未解読の一文を目に通しながら表を用いて共通言語へと翻訳しながら、不意に紅明は言葉を漏らした。


「こうしていると思うのですよ」

「んー?」


トラン語を目で追いながら、指はの作成した表の文字を辿る。頭の中では次々と文字が解読されていく中で、紅明はに囁きかける様に言うのだ。


「貴女は娼婦にならずとも生きて来れたのではないかと」


紅明の視線の先や、指先を眺めていたは、其の言葉に顔を上げた。するとトラン語を見つめていた筈の紅明の目はへと向けられており、其の瞳に釘付けとなる。やけに真剣な眼差しだったから余計にだった。


「貴女はとても賢い。官吏として登用されても可笑しくは無い話です。実際今貴女は誰も解けなかったトラン語を読み解いているではないですか」


思わず、笑ってしまった。まさか紅明にそんな風に思われていたとは予想外だったのだ。そして同時に、彼の優しさに触れるである。確かに、彼はアリババが言う様に優しい心を持った人だ。


「でもね、出来なかったんだよ」


紅明の両肩を軽く押してやれば簡単に倒れる身体。ふわりと布団が舞い、紅明の重みで沈む。押し倒した紅明を上から見下ろしながら、は其れ以上は口にするなと笑顔で続きを制すれば、紅明はやれやれと口を噤み、普段の気の抜けた瞳へと戻るのである。


「勿体無いですね」

「でしょお?」


息を吐いて呆れ顔の紅明に、にっこりと微笑を一つ。もしも此の国の体制をもっと詳しく知っており、戸籍等で国民全員が管理されていなかったとしたら、確かには娼婦という道を選ばなかったのかもしれない。けれど、今更そんな事をとやかく言っても仕方が無いのだ。


「綺麗です」


身動き一つ取らぬ紅明が突如言った。一体、何が?そんな疑問が湧くが言葉にはならなかった。否、言葉を吐き出す事が許されない様な、そんな空気だったのだ。


「貴女はとても綺麗ですよ」


とても穏やかな表情で、柔らかい声色で紅明はの下で、彼女に覆われながら囁いた。紅明の手が下から上へと伸び、の冷たい頬へと触れ、優しく撫でる。


殿は少々気品に欠ける点がありますが、其れすら自然と目を瞑ってしまうくらいに魅力的です。容姿もそうですが貴女はとても聡く、内から滲み出る強さの様なものがとても美しく見えます」


此れ以上の無い褒め言葉を受け、対応に困った。頬を擽る細いものの確かに男の指先は、其の儘耳へと触れ、髪に触れ、肩からの髪が一房垂れ下がり、シーツの上で紅明の紅の髪と共に散らばった。


「有難う」


自然と零れた礼は、本心からのもので。紅明はの髪を撫でていた手を首の後ろへと回し、一気に引く。ぐるりと一転したの視線は目の前に紅明、其の後ろに天井が見え、形勢逆転とでも言うべきか、今度は紅明がを押し倒す形で上になっていた。初めて見せる紅明の積極的な様子や、其の瞳に微かに見える欲の色。紅明も男だという事だ。


「其の気になった?」

「偶には良いでしょう」

「偶にだから良いって発想は?」

「一理あります」


紅明が露になったの首筋へと顔を埋めた。かかる吐息は温かく、紅明の前髪が頬を擽った。首筋に何度も感じる唇の感触、這う様に滑る其れに反射的に腰が浮けば、一度紅明は顔を上げると不適な笑みを口元に浮かべ、の首筋を指で撫でた。


「一応言っておきます」

「?」

殿は此の仕事を辞めたいと仰っていましたが、其れは恐らく不可能です」


紅明の言葉に目を丸くした。確かに辞めたいとは口にしたが本心からではない事は紅明も分かっている筈だ。なのに何故今其の話を掘り起こしたのか、紅明の思考が分からずは口を噤んで目で何故かを問うた。首筋を撫でる紅明の指が、遊ぶ。


「煌帝国は貴女を手放す事はありません」


良い所を撫でた指に反応する身体を誤魔化す様に身じろぐが、視線だけは紅明からは離さない。何だか囚われの身にでもなった様な気分で、煌帝国の皇子の言葉を唯聞いた。


「トラン語は未だ未だ謎が多い言語ですからね」


にトラン語の知識がなければ、此処まで拘られる事は無かったのだろうか。否、きっと紅明はそうでなくても何かと理由を付けては此処にを縛るつもりだっただろう。紅明はを気に入っていた。少し真剣になって話せば分かるのだ。彼女は自分達には無い考えを持ち、冷静で賢く、知識を存分に活用し、行動を起こせる人間なのだと。


「身に余る光栄に存じます、紅明様」


首筋で弄ぶ紅明の手を取って誘う様に艶かしい笑みを浮かべる。取った手を己の頬へと誘えば、包み込む様にの頬に紅明の手が添えられて、芯のある強い瞳に紅明が写った。


「ならば永遠に此の国で飼って下さいな、此の下賎な女を」


言葉の割には目は腐っておらず、其のちぐはぐさがより一層の魅力を惹き立てる。嗚呼、この人は分かってしているのだろうか。紅明は思わず溜息を吐く。そしての頬から手を引いたのなら、身を起こし其の場に座り直すのだ。


「自分を卑下するのは頂けませんね」

「何を仰いますか」


離れた紅明に倣う様にも肘を付いて身を起こせば、乱れた衣服は整えようともせずに笑みを深める。右手を胸元へと沿え、自信と勝気に満ちた瞳はキラキラと輝き、紅明の瞳に焼き付かれる。


「私は己を誇り高く思っていますよ」


凛とした声は静かな寝所には良く響き、は首を傾けて紅明を見つめた。其の視線に、纏う雰囲気に紅明は全身の毛が逆立つ様な錯覚を覚えるのだ。


「全ては私が自らの意志で選んだ道、そして構築された私。そんな自分を愛して止まない。其処に後悔等一切無いわ。誇りに思わずどう思えと?こんな私に一体誰が敵うというの?」


他の誰かが真似をしても、全く同じにはなれない。だからは自分を誇るのだ。CAだった自分も、娼婦である自分も、自ら選び進んだ道に間違いや後悔は無い。してはならないのだ。自分だけは、自分を否定してはいけないから。


殿は、とても真っ直ぐに自分を信じて突き進んでいるのですね」

「私が私を信じずにどうするのよ」


己を一番に護るのは、己自身なのだから信じなければ意味が無い。自分が信じられない自分を、他の誰が信じ、護り、誇ってくれるのだ。先ずは自らが己を肯定する事が、何よりも最初である。


「私は私。他に代わるものなんて此の世には存在しないのよ。私達人間が、何よりも他人に自慢出来るものなんて“自分”以外他に無いわ」


はっきりと曇り無く断言出来るのは、本心からの言葉だからだ。間違った選択肢は何一つ無かった。確かに娼婦の言う選択は世間的に言えば間違っていたのかもしれない。けれど、其れがあって今がある。其の事実は変えられない。全てに無駄なことは無いのだ。胸を張って、躊躇無く断言し、王族相手に尻込みする事もなく、真っ直ぐなだから、紅明は気に入ったのだ。


「今、とても殿が眩しく見えました」

「神々しい?」

「其れは無いですね」


にやりと笑って見せれば、ばっさりと否定する紅明に喉を鳴らしては笑う。悪戯っ子の様に笑った後は、艶やかな首筋を惜しげも無く見せ付ける様に肩に掛かる髪を払い、は尋ねた。


「紅明殿、貴方の眩しいものは何?」


問われて思案。けれど直ぐに浮かんだのは己の唯一の兄であり、将来此の国の王となる存在だった。


「やはり、兄王様ですね」

「違うわよ」


兄である紅炎は、とても眩しい人だ。身体能力は勿論の事、生まれ持っての魔力量は所有している金属器がどれ程のものなのかを物語る。王として、国を纏める長として申し分無い、寧ろ相応しく無い点が見当たら無い紅炎は、紅明にとっては正しく眩しい存在だ。なのに、容赦無く即答で否定されれば流石の紅明を眉を顰める。けれど臆する事なくは微笑んで紅明の胸を人差し指で小突いた。


「兄王様を其れだけ信頼し慕う事が出来る貴方が、貴方にとっての一番の輝きだと思う」


だから、そんな自分を誇りなさい。そう言って笑うに、紅明はもう笑うしか無かった。


「貴女は私の母ですか?」


此の人には敵わない。










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