ルフはまるで構ってくれと言わんばかりに飛び回り、其れを視界の端に追いやってただひたすらに活字を読む。現代では有り得ない様な一昔前を思わせる歴史と政治、一体こんなものが何時何処でどの様に役に立つのか疑問が絶えない軍略。其れ等を頭に叩き込みながら書物を唯々読み続けた。官吏と言う職は、娼婦の頃に比べ労働時間も縛りも多く過酷な仕事ではあるが、其れに見合う給料を与えてくれ、移住食も無償で提供されているのだから、辞めるに辞められない。辞めるにしてももう少し貯蓄を蓄えてから、とは思いつつ、死ぬまでこうして働かされるのだろうなあと半ば諦めが混じる。以前紅明にそう宣言されたのが大きな要因だ。


「………。」


無言で読んでいた書物を閉じる。間に栞代わりに他の書物を挟んでおく事は忘れない。訪問者が来る事を知らせてくれたルフはひらりひらりと好きな様に飛んで、足音がの耳に届く頃になれば窓から外へと飛び立つのだ。


ー、気晴らしに僕に付き合ってよ」


入室を問わずに無断で入って来た紅覇は、相変わらず露出度の高い衣服を着ていて天使の微笑みを携える。彼の周囲を飛ぶルフは、とても穏やかで見ている此方まで優しい気持ちにさせられた。


「男子たるもの、女子の部屋に入る時はノックしないとダメだよ」


朝から座りっぱなしだった腰をあげれば、何とも言えない腰の怠さに苦笑。凝り固まった首や肩は少し動かせば軽い骨の音を鳴らして、己の運動不足を感じた。


「付き合えって何に?」

「買い物だよ」

「街に行くの?」

「ううん、商人が持ってくるんだよー」


着いて来る様に促され、其の後をだらだらと歩く。引き摺る裾は気にせず、肩を滑る髪を振り払った。皇子になれば態々店に出向かなくとも、商人が売りに足を運んで来る辺り、改めて身分の差と金持ちと貧乏人の差を感じさせられる。


「何買うのー?」

「そりゃやっぱり服でしょー。あ、でも装飾品も欲しいしぃ、良い美容品もあったらいいなー」

「紅覇殿は生まれた性別間違えたかもねぇ」


相変わらず女子力の高い、見た目もまんま美少女の紅覇は、お洒落に対して大いに関心がある様で何処と無く浮かれて見える。長い廊下を歩き進めれば、が過去に一度だけ訪れた事のある部屋へと到着し、家具らしい家具も無い無駄に広いだけの部屋の扉を開けたなら、其処には目が眩む程の衣服の山と、初めて目にする中年の男が居た。


「お久しぶりで御座います、紅覇様。またお目に掛かれて光栄で御座います」

「お前はセンスが良い物を持って来てくれるからねー。今日も楽しみにしてたしぃ」

「はは。今回も格別、上等な物をお持ち致しましたよ」


紅覇と親し気に話す商人の男は、やはり上質な衣服を纏って美しく敬礼をし、頭を下げる。其れを尻目に早速掛けられた沢山の衣服の中、目に付いたものを手に取る紅覇に、顔を上げた男が紅覇の後に続いて入室したを見た。乱れきって肌蹴た衣服に、纏めもしていない無造作に降ろされた髪。此処では目にする事の無い様な風貌のを見て驚いたのか、商人は一瞬ギョッと目を見開いた。其の顔があまりにも傑作で、は吹き出し笑うのである。


「紅覇様、失礼ですが其方は…」

「官吏さ。最近仲良くてねー、一緒でも良いでしょー?」

「ええ、勿論で御座いますとも」


紅覇の返答を商人が信じたのかは分からない。お堅い官吏という職種にも関わらず、勤め先、其れも皇族の住まう禁城に淫らな格好で居るのだから、此れ程、説得力に欠けるものは無いのだ。しかし客は客、其れも金を持った常連客の連れである。事実がどうあれ、商人からすれば客ならば何でも良いのかもしれない。商人はゆるりと笑みを浮かべて深々とに手を合わさって頭を下げた。


「衣服は紅覇様の身丈に合ったものしか御座いませんが、装飾品等でしたらお使いになられると思いますよ」

「ありがと」

「いえいえ。さあ、良ければ御手に取られ見て下さい」


商人に促されるがまま、煌びやかな装飾と石の付いた其れ等を見下ろした。窓から差す日の光に反射する様々は高級品は、つい手を伸ばすのを躊躇ってしまう程に美しい。が、容赦なく衣服を物色する者が一人。


「これとかどうー?」

「とてもお似合いで御座います」

「紅覇殿なら何でも似合うよ。可愛いから」


幾つもの服を手に取り、気に入った物を己に当てがって振り返る紅覇は、天使そのものだ。当てがった衣服は男物にしては露出が高く派手ではあるが、女物にしては作りが少し違う。どちらにしろ紅覇の可愛らしさを際立たせる衣服は、紅覇の為に作られているかの様だ。実際、そうなのだろうが。


「これも良いけどぉー、こっちも可愛いしぃ。悩んじゃうよねぇー」

「どっちも買っちゃいなよ」

「そうしよっかなぁー」


両手に持った二着の衣服を眺めて、悩まし気に眉を顰める紅覇が微笑ましい。そんな紅覇を眺めながら装飾品が並べられた絨毯を見下ろしていれば、キラリと光る一つの装飾品に目が止まった。円形の短い筒の様な其れは、左右に小さなが穴が開いており、小振りなものの、しっかりと存在感のある美しいものだ。


「商人殿、此れは…」

「其方は髪留めになります。左右に開いた穴に簪を挿し込んで頂く事の出来る物で御座いますよ」

「髪留め、ねぇ…」


目に留まった装飾品、髪留めを指差し商人に問えば、緩い笑みを浮かべて商人が髪留めを手に取りへと差し出す。受け取ればひんやりとした金属特有の温度を感じ、近くで見ればより一層に職人の技が窺えた。


「ゴムの方が便利良いんだけどなぁ」

「ゴム…で御座いますか…?」

「何でも無い」


この様な形状の髪留めを使用した事が無いからすれば、使い慣れたゴムの物の方が使い勝手が良い。生憎此の世界で未だゴムの髪留めは御目に掛かれていない辺り、此の世界には未だゴムが存在していない様だった。


「それにしたらー?綺麗じゃん」

「お金勿体無い」

「貧乏人みたいなこと言わないでさー、絶対似合うしぃ」

「貧乏人だもーん」

「良く言うしぃ。良い給料貰ってるだろー?」


にやりと紅覇が笑い、にやりとが笑い返す。の給料事情は筒抜らしい。


「紅覇は其れ買うのー?」

「うん。どっちも可愛いしぃ」


手に取った二着を商人に差し出せば、商人は笑顔で受け取り、衣服を畳む。金額の話はしない。紅覇付きの従者が後で支払いを済ますのだろう。


「あ、この靴も可愛いしぃ」

「本当だ。紅覇に似合いそー」

「後、羽織物も欲しいなー」

「其れなら此の羽織物も似合うんじゃない?」

「刺繍が綺麗だよねー。其れも気になるぅー!」


忙しなく靴を羽織を見ては口元を緩ます紅覇は、年頃の女子の様に買い物を楽しんでいる。自身も買い物は好きで、ウインドーショッピングも以前は良くしていたものだ。手にした髪留めは元の位置へと戻し置いて、紅覇に似合う物を見つけては其れを紅覇に見せ、合わせ、紅覇と共にあれよこれよと商品を手に取るのである。


「あとねー、此れと此れと此れもねー」

「ありがとうございます」

は買わないのぉー?」

「めぼしいのは無かったしねぇ。装飾品より服の方が欲しいかなぁ」

「じゃあ次はの分も用意するしぃ。頼めるぅー?」

「はい。次回は官吏様に合う身の丈の衣服も御用意致します」


気に入った衣服や装飾品を商人に指差し示せば、商人の従業員だろうか。部屋の隅に控えていた者達が足音静かに衣服を丁重に扱って纏める。其の間に紅覇と、商人は話を進め、次回の約束まで取り付けるのだ。引き返す紅覇に続きが部屋を後にしようと背を向ければ、其の背中を呼び止める声が一つ。振り返れば笑みを浮かべた商人が煌びやかに輝く髪留めと簪を両手で差し出してきた。


「紅覇様のお連れ様ですから。どうぞ、御受け取り下さい」


片膝をついて献上された髪留めは、が手に取った唯一の商品だ。髪留めと共に差し出された簪は、質素であるものの凝った彫りが施されており、目を奪われる美しさである。


「良いんですか?簪まで」

「ええ。其方の髪留めには此の簪が一番良く似合います」


どうぞ、と持ち上げられ、は遠慮がちに髪留めと簪を受け取る。金属製故に重みのある其れは、丈夫な作りで早々に壊れてしまう事は無さそうだ。


「有り難う御座います」

「いえいえ、そんな!此れからもどうか御贔屓に御願いしますよ」

「商売上手ねぇ」

「光栄で御座います」


しっかりと営業をしてくる商人に思わず笑みが浮かんだ。有難く髪留めと簪を受け取り部屋を後にすれば、廊下には立ち止まり此方を見る紅覇がを待っていて歩み寄る。


「此の後どうすんのー?」

「好きにすればいいよー。僕は出掛けなきゃいけないしぃ」


お茶でもするのかと思ってきた後の予定は、どうやら紅覇の都合が悪いらしい。ならば戻って昼寝でもしようか、久し振りに城内の散歩をするのも良いだろう。此の城は兎に角広く、未だ全てを把握している訳では無いからだ。すると遠くから慌しい複数の足音が聞こえてきて、紅覇と共に振り返れば血相を変えた紅覇の部下達が息を切らして駆けて来ていた。


「紅覇様!城中探しましたよ!」

「此方にいらっしゃいましたか!」


紅覇を見てぱっと表情を明るくさせ、ほっと安堵の息を吐く男女達。特に紅覇に強い忠誠心を抱く部下達だった。


「また殿と御一緒でしたか」

「紅覇様を一人占めするなんてズルい!!」

「一人占めしてた訳じゃあないよ、純々」


両手を激しく振って嫉妬を露わにする部下の一人、目元を覆った純々を笑って宥めれば、彼女は頬を膨らませて、あからさまに拗ねるのである。可愛い紅覇には、可愛い部下が多いというのがの印象だった。


「じゃーねー」

「お勤め頑張ってぇ」


部下達を引き連れて去って行く紅覇を目送り、一人当てもなく城内を歩く。手の中には変わらず無償で受け取った美しい装飾品があり、光を反射させる其れを見つめた。


「髪留め、ねぇ…」


確かに髪を纏めるのに何か欲しいとは思っていたが、此処まで凝ったものは逆に使い難い。普段使い用なのだろうが、唯のキャリアウーマン、唯の娼婦だった自分には少々高価過ぎて身に付ける事が億劫なのである。万が一にでも紛失、破損は勿論の事、傷一つでも付けてしまったものなら、どうすれば良いのか困ってしまうのだ。どうにもならないのだろうが。


「(簪だけで良かったんだけどなぁ)」


其の髪留めは一部分だけの髪を纏めるだけを目的としている様で輪の直径は細い。其の時点でどう使えば良いのかも悩ましい其れは、使う日が来るのかすら危うい。簪ならば適当に髪を纏めて挿せば、其れなりに見えるだろう。益々使い道が難しい髪留めに困る一方だ。


「外に出ようか」


誰かに向けてではなく、単なる独り言。羽根をはためかせて飛ぶルフを尻目に髪留めと簪を懐に仕舞って外へと出た。晴天の空は陽気な日差しが降り注ぎ、優しい風が頬を髪を撫でる。丁度高台へと出た其処から真下に広がる景色を見下ろし、服が汚れる事も気にせず腰を下せば宙へと足を投げ出して全身で風を受け、感じた。片足を立てて座り、撫でる風に目を細める。一際強い風が吹き、長い髪が風に乗って踊った。


「あ…、」


ルフが飛ぶ。ルフがざわついた。誰かの漏らした声に閉ざしていた瞳を薄く開けば見える真っ赤な紅の髪。驚きに目を丸くする幼い顔立ちの彼女は、珍しく髪を下ろして両手に金色に光る髪留めと簪を手にしていた。


「初めまして、紅玉殿」


彼女を名を、皇族相手に向けるべきでは無い体制を正しもせずに微笑みかけて呟いた。紅玉は初めて目にする淫らな格好の女を見上げ、言葉を失ったのか声を詰まらせる。そんな紅玉に柔らかく笑い掛け、静かには高台から飛び降り、静かに紅玉の前に降り立つ。近付くに身を強張らせた紅玉に首を傾げて問い掛ける。


「どうしました?」

「あ…。髪留めが、壊れてしまって…」


紅玉はそう言って己の手の中にある髪留めに視線を落とし、同じくも見た。角に罅の入った其れは真っ二つに亀裂が入り、髪留めとしての役割を果たす事が難しい、唯の高価な金属と成り果てている。先程が得た髪留めと、良く似た作りの其れに自然と手は懐へと伸びていた。


「此れを」


譲って貰ったものを人へとまた譲るのはどうかと思うが、此の儘、使われる事なく埃を被る運命ならば髪留めとして誰かに使われる方が良い。紅玉ならば、大事にしてくれそうな気がしたのも、彼女へ渡そうと思えた一つの理由だ。差し出した髪留めを受け取り、恍惚な表情で見る彼女は、とても其れを気に入ってくれたらしい。


「とても綺麗だわぁ」

「あげる」

「え…?」


思いもよらなかった譲るという申し出に、紅玉は顔を上げてを見る。今一度髪留めに視線を落とすが、直ぐに視線の先はへと向いた。


「いいの…?」


きゅっと髪留めを握り、紅玉は僅かに頬を染めてやや俯き気味に問うた。可愛らしい其の反応に思わず手を伸ばしそうになるのをグッと堪えては頷くのである。


「勿論」


すると花の様に笑う紅玉が綺麗で、此方まで嬉しくなるのだ。成る程、彼女の周りを飛ぶルフが真っ直ぐな訳である。


「私よりも紅玉殿に身に付けられた方が髪留めも喜ぶわ」


髪留めを握る紅玉の手に己の手を重ね、視線が丁度合わさる様に屈んでにこりと微笑む。踵を返し紅玉に背を向けて歩き出せば、引き留める様に紅玉が声を上げた。


「貴女、名前は?」


顔だけ振り返り、は妖艶に微笑む。


「唯の住み込みの官吏ですよ」










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