働き詰め、勉強詰めで頭がどうにかなってしまいそうだった。トラン語の書物も、軍議や政治の書物を放り捨て、書物で山積みになった机に突っ伏せる。
「おい」
ノックも無しに開かれた扉を放置していれば、痺れを切らした訪問者が怠けるを鋭い声で呼び掛ける。頭だけを動かし、目を向けたなら仏頂面の紅炎が佇んでいた。
「おはよーございますぅ、紅炎殿」
「もう昼だ」
「失敬。こんにちはー、紅炎殿」
突っ伏していた身を起こし、椅子の背凭れにダラリと身を預けて緩い笑みともに煌帝国式の敬礼。全くもって忠義を感じられない、無礼とも取れる態度だが紅炎は目を細めるだけで咎める事はせずに後手に扉を閉めて部屋の中へと入って来た。
「調子はどうだ」
「引き籠ってばっかりで、そろそろ身体を動かしたいところですねぇ」
「解読の方だ」
「はいはい。こちらにありますよぅ」
盛大に溜息を吐いて、机の右上に積んだ山の一番上から一つの巻物を手に取り紅炎へと差し出す。すかさず開いて綴られた文字を目で追う紅炎の表情は相変わらず読めない。
「紅炎殿」
呼び掛ければ向けられる視線は鋭い。何方かと言えば強面に分類される整った顔立ちの所為で眼力や迫力、威圧感は倍増だ。けれどが怯まないのは、禁城で世話になる随分も前から紙面上で彼の事を知っていたからである。又、彼は簡単に人を斬り捨てる人間では無いからだ。特に、の様に知識を持つ者等、利用価値のある者は。
「私が今、トラン語だけで無く軍議や政治の書物にも目を通している事は勿論紅明殿から聞いていらして?」
「ああ」
「其の件に関し、紅炎殿はどう御考えで?」
淡白にの問いに答える紅炎に更なる問い掛け。一見、唯の軍議や政治の書物等、目を通そうが通さまいが何ら困りはしなさそうではあるが、時折紅明から渡される書物の中には所謂機密情報と言えるものが混じっているのである。国の内部、国を動かす情報をそう易々をぽっと出の官吏等に見せても問題ないのか。遠回しに紅炎に確認を取る。が、返って来たのは肯定を示す頷きだった。
「お前の見解が知りたい」
「大した事は申せません」
「構わん。唯、お前の意見が聞きたいだけだ」
「新たな発想を、知識を得る為?」
「そうだ」
「知識欲に飢えた人だ」
紙面通り、漫画にあった通りで思わず吹き出す。内部事情を深く知る事を許されているのは信頼されているからか、はたまた何時でも殺せるという事実からか。出来れば前者であって欲しいが、今の所後者ではないという確信は無い。
「何故其れ程に“知識”を求む?」
其れは素朴な疑問だった。漫画が完結する前に死に、此処へ飛ばされて来たからすれば、何故紅炎が此処まで知識を求めるのかを知らない。完結するまでにも其の描写は無いのかもしれないが、何となく、直感的に理由がある様な気がして問うた。紅炎は何か思う所があるのか口を噤み、暫しの間を空けて薄い唇を薄く開くのである。
「強くなる為だ」
単純明快な答えだった。
「もう十分な強いでしょうに」
「未だ足りん」
「左様で御座いますかぁ」
こんなに強くありたいと願う人だっただろうか。継承権からしても、携えるジンの金属器からしても次期皇帝は確実であろうに。何か理由があるのだろうか、其れとも単純に力が欲しいだけなのだろうか。何時の世も、男は力を欲するものだと言われれば其れで納得さえ出来てしまう。
「紅炎殿」
本日二度目になる、彼の名を呼ぶ。紅炎はもう手元の解読書は見ていなかった。
「貴方は今最も皇帝に近い人。権力も地位もあり、賢く強い。ついでにイケメン」
「………。」
「そんな目で見ないでよ、結構真面目に言ってる」
半眼で、其れも引いた目で見られると意外と傷付くものである。
「紅炎殿が人から好かれ、慕われるのが分かった気がするよ」
本心から思った事を口にした。浮かんだ笑みは柔らかかったか。ほんの少しだけ、紅炎は破顔してを見ていた。こんな表情を漫画では見た事はない。今目の前にいるキャラクターは、此の世界に確かに生きる人間だった。
「紅明殿は優しいし、紅覇殿は可愛い。紅玉殿は嫁に欲しいくらいだよ」
「煌帝国は同性の婚姻は認められていないぞ」
「馬鹿。冗談に決まってんでしょ」
今度はが半眼になる番で、意外な所で天然っぷりを発揮した紅炎に抱いていた印象が少し変わった。炎帝と呼ばれる野心家の比類なき最強の将軍は、思っていた以上に人間臭い男だった。
「ちょっとだけさ、此の国が好きになりそうだよ」
アリババの故郷であるバルバッド、シェヘラザードの居るレーム帝国、シンドバッドが作ったシンドリア王国や、七海連合に属する加盟国。そして、此処、煌帝国。世界各地に様々な国がある中、偶然にも己が居るのが煌帝国だった訳だが、意外にも此の国は好きな分類なのかもしれない。奴隷制度はどうも賛成できはしないが。自国が褒められ嬉しいのか、紅炎は口角を薄っすらと吊り上げると目を通すのを途中で止めた巻物を巻き直し片手に持ちながら踵を返す。
「ならば今後は更に精を出し、解読を進め、知識を蓄える事だな」
「此れ以上は無理ぃー」
「お前なら出来る」
其れはまるで、認められているかの様な言い草で、は素の笑みを零し、眉を下げて小さく笑った。
「何それ」
都合良い言葉だと思う。同時に投げやりな言葉にすら聞こえる。けれど、まさか紅炎がそんな言葉を口にし、言われるとは露程にも思わなくて何だか可笑しかった。だからこそ、唐突な紅炎の言葉に余計に驚いてしまったのかもしれない。
「今晩俺の部屋に来い」
其れは明らかな誘い文句。一瞬思考が止まるが、直ぐに頭は回転して何時もの緩い表情を浮かべては机に肘をつき頬杖を付いて、怠惰全開に卑しく笑って甘ったるい声で拒絶を口にするのである。
「遠慮するわぁ、夜伽の邪魔は出来ません」
「だから来い」
紅明でさえ毎晩夜伽が用意されるのだから、紅炎も同じ環境だろう。若しくは其れ以上の流れ作業を毎晩繰り返しているに違いない。用意された女達の邪魔をする気が無いのも事実、紅炎の相手をする気が無いのもまた事実で、はっきりと告げるのだが、紅炎は鼻で笑い飛ばしたのだ。
「今晩、お前が俺の夜伽の相手をしろ」
あの紅炎に好意を抱かれている。とは欠片も思わなかった。
「と、いう名目で?」
「俺にもトラン語を教えろ」
「だと思った!」
「紅明には教えたと聞く。俺に教えられん理由は無い筈だ」
こいつら流石兄弟だな!という言葉は心の中で叫んで留めた。兄弟揃って実に勉強熱心である。
「夜くらいゆっくり寝たいんだけどぉ」
過酷労働反対!過労死する!時間外業務反対!百歩譲って残業代出せ!言葉の裏にそんな本心を潜めて訴えるが、其れを見透かしているのか、紅炎はニヤリと笑うだけでとっとと部屋を後にしようとするのだから性質が悪い。
「今晩、大人しく眠れるとは思わん事だな」
捨て台詞も良いとこで部屋を出ていた紅炎に、扉が閉ざされる音を聞きながら深い深い溜息を吐き出した。付いていた頬杖も崩れ、項垂れるように再び机に突っ伏せる
「紅炎ファンなら泣いて喜ぶ台詞も私には唯の死刑宣告だっての」
夜更かしは美肌の敵である。肌荒れでもすれば良い美容品を片っ端から買ってもらおうと、ひっそりと決意した。
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