部屋に運び込まれた食事に軽く手をつけ、日が暮れ出した頃に入浴をと呼びに来た女官に従い部屋を出た。身を洗うのに手伝いを申し出た彼女等を断り、少し熱いくらいの湯に浸かる。湯気の立ち込めた浴場はじんわりと汗が滲み出て、身体の芯まで温まれば湯から出た。水をあまり吸わない布で身体を拭き、肌着を身に付けて上から質素な衣を羽織る。此れから部屋へと戻り、女官達と共に夜伽の支度をするのだ。夜伽という名目の勉強会には、着飾る必要性は全く皆無なのではあるが致し方無い。
「雨…?」
不意に耳を掠めた音に外を見れば、灰色の空からぽつぽつと降り注ぐ雨が見えた。の呟きに反応する様に同じく外を見た女官達が息を吐き出す。
「降って参りましたわね」
「そう言えば昼下がりから曇っておりましたわ」
「早く止んで下されば良いのですが…」
今日は一度も外に出ず、珍しく部屋に引き篭もっていたは、仕事に勤しみ、勉学に励み、唐突な訪問者が居たり、少し遅めの昼寝をしたりと多忙で、普段なら窓から外を一度は眺めるものの、一度も見る事なく今に至る。どんよりとした空は、晴天続きだった近頃では久々に見る悪天候だった。
「貴女達は雨が嫌い?」
小雨が降る外を眺めて息を吐く女官達にが尋ねる。すると女官達は大いに頷いて零した。
「湿気は女子の敵で御座いますよ」
「折角綺麗に着飾れど、髪は次第に言う事を聞かなくなりますし、化粧も崩れてしまいます」
「美しくしましたのに、勿体無いでは御座いませんか」
理由があまりにも女子らしく、女子力を感じさせられる。こうして他人を美しくする仕事を請け負う事が多い彼女達だからこそ、美の敵となるものを嫌う傾向があるのかもしれない。
「そうだね」
嫌だ嫌だ。早く雨よ上がれ。言葉無くとも女官達の心情はひしひしと伝わってきて溢れる苦笑。ゆったりとした歩幅で部屋へと繋がる廊下を進めば、正面から見知った顔が歩いてき、はゆるりと片手を上げる。
「やぁ、紅明殿」
「湯を終えたばかりですか?」
「まあね」
軍師の様な格好をした紅明が、しっとりと髪を濡らし、羽織る様に衣を着たを頭の先から足の先まで見下ろした。歩み寄って来る紅明に、が立ち止まれば、紅明はの目の前で立ち止まり手を伸ばす。
「濡れています。ちゃんと拭かないと風邪を引きますよ」
濡れた黒髪を一房掴み、 湿気を確認する様に指の腹で撫でる。髪に含まれていた水分が紅明の指先を濡らし、孔明は呆れた溜息を隠しもせずに吐くと、女官の持つタオルを受け取り、の頭に被せ優しい手付きで髪を拭うのだ。
「今晩、兄王様の夜伽に?」
「あらぁ、嫉妬ぉ?」
「違います」
水分を多く含んだ濡れ髪は艶めく、乾いたタオルに染み渡る。紅明は酷く丁寧に髪に触れ、されるがままのは優しい表情だ。和やかな、穏やかな二人の空気に女官の誰かが息を呑み、頬に手を添えて恍惚と見つめる。向かい合う男女、濡れる女の髪に触れる男は、まるで愛し合った男と女の様だった。が、実際はそんな事は無く、二人の間に其の様な情は無い。
「大体見当はつきますよ」
「流石兄弟。よく分かってるねぇ」
「無理だとは思いますが、あまり夜更かしはされない様に」
「そうねぇー。紅明殿みたく肌荒れは勘弁かなぁ」
「時々、殿に殺意を覚えます」
「おお、怖い」
淡々と言葉を交わし、呆れて溜息を吐く紅明を笑い飛ばす様にが微笑んだ。未だ濡れてはいるが、水滴を零す事は無くなった髪にタオルを女官へと返せば、紅明からタオルを受け取り我に返った女官が耳打ちする様にに歩み寄って囁くのである。
「殿、そろそろ…」
「もうそんな時間?」
どうやら時間は思っていた以上に過ぎている様で、刻々と其の時間は迫って来ていた。女官を横目に頷けば、正面に立つ紅明を見上げ、軽く片手を上げては淡白に別れを切り出すのである。
「じゃ、そーゆー事で」
「頑張って下さいね」
「はいよ」
あまりにも素っ気ない。そんな別れ方でと女官一向は紅明から離れ、部屋へと向かい再び歩む。着いた部屋の中には飾られた真新しい衣服と、煌びやかな装飾品が用意され、女官達が其々別れて其れ等を手に取り笑顔を向けた。
「本日の御召し物には藤色の物を用意致しました」
「履物は純白に御座います。小振りですが存在感のある素敵な物ですよ」
「装飾品は本日仕入れた物です。御召し物に合わせて藤色の石が付いた物に致しました」
手に取った其れ等を紹介し、早速女官達はの着替えに取り掛かる。服を脱がされると同時進行に着付けが始まり、髪を拭われ結われ、履物を変えられ、正に着せ替え人形とは化すのである。
「簪は此方が宜しいかと」
「動く度に綺麗な音色が聞こえます」
「紅炎様も満足して頂ける事でしょう」
緩く纏められた髪には、柳の様にしな垂れ揺れる金属製のチェーンが幾つも付いており、動く度に揺れる其れはシャラシャラと優しい音を立てる。仕上げに差された簪を鏡で確認すれば、美しい衣服に身を包んだ自分の身体を見下ろして、は小さく息を吐いた。
「久々に着飾った気がする」
「紅明様の時は御断りになられておりましたものね」
「流石に次期皇帝様と夜を過ごすのに何時もの格好じゃ不味いよねぇ」
「周りの目もありますから…」
紅明だから着飾らなくとも良い訳ではないが、今回は相手が相手、其れも夜伽をするのは初回なので最初くらいはとも着飾ることを渋々納得したのである。皇族に夜伽を命じられる事は光栄な事なのだが、其れに対して相応しくない態度と格好を行えば、周囲の目が冷たくなるのは当然の事だ。
「とても御綺麗ですよ」
「腕によりをかけた甲斐が御座いますわ」
「これで紅炎様もイチコロです!」
後は寝所へ向かうのみ。身支度を終えたを女官達は口々に褒め称え、満足のいく出来栄えに頬を赤らめて何度も頷くのだ。まるで自分の事の様に喜ぶ彼女等が、誰よりも美しく見えた。
「いつもありがと」
美しい女官達へ、精一杯心を込めた礼を告げる。
最後に女官達の手によって化粧を施され、身形の微調整を終えた頃、は背筋を伸ばして立ち、女官達の前に立っていた。
「完璧です」
「御美しいですよ」
「これ程綺麗な女性を他に見た事が有りませんわ」
絶賛の声には、ゆるりと微笑んで答えれば、何故だか小さく黄色い声が上がる。余程彼女達の目にはが絶世の美女に映るらしい。女官達は暫くを眺めれば、途端表情を引き締め敬礼をし、項を下げ、まるで高貴な相手に接する様に佇まいを律するのだ。
「そろそろ時間です」
「紅炎様の寝所まで御案内致します」
「此方へ」
女官達に促され、案内されるがままは女官達に囲まれながら部屋を出る。紅炎の寝所は紅明の寝所よりも、より奥の部屋で、長い長い廊下を無言で唯歩き続ければ、中庭へと通ずる壁の無い屋根だけの廊下に差し掛かり、外の景色に女官の一人が声を漏らした。
「あら、嫌だわ」
日が暮れたにしては暗すぎる空。淀んだ空には灰色の空が敷き詰められ、小さな雫を幾多も零す。つい先程見た時は小雨だった雨は本降りになり始めており、女官達は憂鬱な溜息を漏らしたのである。
「本格的な雨になって来ましたね」
「朝まで降るのでしょうか」
口々に雨を憂う言葉を零す女官達。自然と足を止めたに女官達も立ち止まる。雨が降りしきる外を眺め、突如としては駆け出した。
「殿!?」
女官の驚愕する声を聞きながら、廊下を飛び出ては走る。雨でぬかるんだ地面を泥を蹴り上げながら駆け、衣服の裾が茶色く汚れようとも気にも留めず、唯一心不乱に走り抜けた。
「なりません!!殿!!濡れてしまいます!!」
女官の叫びも虚しく、折角施した化粧は流れ落ち始め、結った髪水分を吸って乱れ出す。けれど女官達は屋根のある廊下から外へと出ようとはせず、中庭へと消えて行くを追い掛ける事はなかった。
「ふふっ」
雨音が五月蝿い土砂降りの中、の笑い声が響いた。駆けていた足は次第に失速し、中庭の中央にて停止する。空を見上げれば降り注ぐ雨を見つめて、そっと目を閉じた。頬を打つ雨が、水を吸って重くへばり付く衣服や髪が、何故だか酷く心地良い。
「何をしている」
そんなに向けられた鋭い声は、女官達の居る廊下とは正面に位置する方角から飛んで来た。湯を終えた後、寝所に向かう道中だったのだろう。寝衣を身に纏う紅炎が呆れた様な、信じ難い行動を取るを異様な目で見ていた。其れが可笑しくて口元に弧を描き、は大袈裟に振舞って敬礼し、泥水も気にせずその場に勢いよく跪き項を下げた。地面の広がった衣服が、着いた膝から泥水が染み渡る。
「何をしているも何も、見ての通りで御座います。紅炎様」
「白々しい。止めろ」
「はい閣下」
言われるがままに敬礼を解き、立ち上がったの振る舞いは偉そうで、女官達はひやひやと落ち着かぬ心情で場を見守っていた。
「酷い身なりだな」
「水も滴るいい女、というやつです」
「挙句、顔も酷い」
「そりゃ濡れれば化粧も雨と共に流れ落ちますよ」
次期皇帝、継承権第一位の皇子は屋根の下、廊下で従者を引き連れて立ち止まり、一方今宵の夜伽の相手である官吏の女は泥と雨で酷い身なりで土砂降りの雨の中、悠々と微笑んでいる。あまりにも対極な二人を、男の従者は渋い顔で、女の付き添い女官は無礼にも程がある女の行動、格好に怯えすらしていた。けれどそんな従者や女官の気も知らず、当事者である二人は淡々と言葉を交わしていた。
「紅炎殿も来れば良いのに」
「俺に濡れろと?」
「そんな事を気にする人じゃないじゃない」
雨の中を両手を広げて、気持ち良さげに柔らかい表情を浮かべて空を仰ぐは、何を血迷ったのか紅炎を此の雨の中へと招いた。直ぐ様、女官達が叫ぶが、雨音で忠告の言葉は虚しくも掻き消され雑音程度にしか届かない。
「雨は良い。此の湿気た匂いも、降り注ぐ音も、とても落ち着く。濡れて歩くのも時にはとても心地良く感じるのよ」
濡れた身体を抱き締めて、うっとりとした瞳を紅炎に向けるは、最早普通では無い。狂気すら見え隠れする表情は、恐ろしい筈なのに艶めしく色っぽかった。何て、雨の似合う女なのだろう。誰かが小さく息を飲んだ。
「そう思わない?」
「思わん」
「そっか」
同意を求めるに対し、即答で否定する紅炎は、無表情故に表情が読み取れない。共感を得られなかった事には上品に小さな笑い声を零せば、びしゃり。水が弾く音が聞こえた。
「…ほんと、意外」
びしゃり、びしゃり。水溜りが弾けて泥が飛ぶ。慌てて引き留める様に従者達が呼び止めるが、当の本人は聞く耳持たずで歩みを止めない。此の国に傘なんてものがあるのか疑問だが、傘も差さずに茶色く濁った汚い土を歩く紅炎は、同じく雨に打たれるの前で漸く立ち止まった。高貴の象徴である白い寝衣は次第に灰へと色を変え、裾は茶へと変化する。
「濡れたく無いんじゃなかったの?」
「濡れたく無いとは言った覚えは無いぞ」
「確かに」
クスクスと、隠しもせずには笑った。雨で崩れた化粧は酷く、雨の所為で流れたアイメイクは、まるで黒い涙の様に頬を伝っていた。けれど、其れでも美しく見えるのはの顔立ちが元々整っている故か。其れとも、の纏う空気がそう感じさせるのか。向かい合い佇む紅炎とは、あまりにも異色で、他の者が立ち入る事すら躊躇う様な二人だけの世界が有る様に見えた。
「…此の木、随分と古いのね」
不意にの目が中庭の中央に一本だけ植えられた立派な樹木へと移る。太い幹に曲線を描いて生える枝。緑の付いた其の木は一目で長い時の流れを過ごしている事が分かった。
「昔からある。初代皇帝の頃に此処へ埋められたと聞くが」
「じゃあ、ずっと此処で見てたんだねぇ」
樹木の幹へと触れ、そっと寄り添う様に歩み寄り、平らでは無い表面には頬を寄せた。数羽のルフが樹木との周りを飛んだのを、此処に居る面々は見えも気付きもしなかった事だろう。
「お前にとって時の流れは、まさに刹那なんだろうねぇ」
樹木から感じるルフはとても穏やかで心が洗われるかの様だった。あまりにも心地良くて自然と瞼が重くなり瞳を閉ざす。縋り付く様に幹を抱き締め、が身動き一つ取らなくなれば、紅炎は何を思ったのかの腕を引っ掴み、強引に大樹から引き剥がすのである。
「戻るぞ」
「もう少しゆっくりしましょーよ。急いでる訳じゃ無いんだしー」
「時間が惜しい」
「熱心ですこと」
知識を得る事に対して貪欲な紅炎は、心無しか何処と無く苛立っている様にも見える。引き剥がされた挙句、無理矢理立たされ、立ち上がったは息を吐いた。こうして並べば背の高い男だと言葉にはせず内心思っていれば、眉間に皺を寄せて此方を見下ろす紅炎に気付き首を傾げるのだ。
「何か?」
首を傾げて水も滴るいい男に問い掛ければ、紅炎はしみじみとの顔を見て言葉を口にした。
「やはり酷い顔だな」
そんな、今更。思わずは笑った。
「でも綺麗でしょ?」
紅炎は否定も肯定もせず鼻で笑い、の腕を引いて従者達の元へと引き返す。慌てて女官達も走り出し、其方へと向かえば、屋根の下へ雨水と泥で薄汚れた二人を見ては絶叫をあげ、にキツく叱るのだ。二度と此の様な事はするな、と。
BACK | NEXT
|