沈んだ日が昇り、夜が明けて朝となれば小鳥の囀りが聞こえ出し、夜の内に降り止んだ雨がもたらした雫がキラキラと輝いた。昨日の空が嘘の様に雲一つない青空は澄んでいて、地面はまだ柔らかいものの次第に乾き始める。結局昨夜は再度湯を入り直し、身なりを整えて、当初の予定時刻を大幅に過ぎてから紅炎の寝所に入る事となった。時間を無駄にした事が相当気に入らなかったのか紅炎はスパルタで早朝、此の時刻まで一睡も許されずトラン語の講義を行わさせられた訳である。徹夜明け、眠気もぶっ飛んだ朝。昨夜見つけた中庭の大樹の元へとはやって来ていた。


「紅炎殿は鬼だ。信じられない。異常過ぎる」


顔に塗りたくった粉で完全に隠された目の下には、くっきりと黒いクマがある事だろう。尋常じゃない集中力、知識を得る事への貪欲さ。其の学習の姿勢は、今時受験生でも早々見れるものじゃない。自身、勉強はしてきた方だと自負するが、紅炎は遥かに上回る熱心さだと感じる。


殿ー!」

「出て来て下さい!!」

「何処に隠れていらっしゃるのですかー!」

「早く来て下さい!」

「我々が紅炎様に叱られてしまいます!!」

殿ーーー!!!」


何処からか聞こえて来る慌しい声に咄嗟に己の両耳を塞いだ。朝まで続いた講義は正式に終わった訳ではなく、朝食を摂る為に一時休憩となっただけなのである。紅炎よりも先に集中や気力を切らしたが、朝食も取らずに逃げ出したのは、つい数刻前の事だ。


「あー、聞こえない聞こえない聞こえない…」


紅炎に指示されてを探し回る官吏達の声は聞こえない振りだ。素直に出て部屋に戻れば、まず間違いなく紅炎が怒り狂っているに違いない。そんな恐ろしい地獄など、見たくは無いのだ。大樹の影に隠れる様に声のする方角から視覚になる位置に移動して、息を殺す。暫くして他の方面に探しに向かったのであろう、遠くなる声に安堵の息を吐いては肩の力を抜くのだ。


「紅明殿に労働基準法を取り入れる様に進言しよっかな…いや、奴隷制度があるくらいだし絶対受理して貰えない、か?」


そもそも幾ら法律で定めようとも守られなければ意味が無い。煌帝国に比べ遥かに平和だった日本ですら、労働基準法に違反する企業はあったのだ。今の煌帝国が、とても守るとは思えない。生きている間には何かと我慢しなければならない事が数多くあり、今回の過酷労働は今の所、にとって最大の我慢が必要とされる点だ。


「お前達…こんな可哀想な私に同情してくれるの?嬉しいけど…なんか虚しいわ」


の周りを飛ぶルフが、まるで励ます様にの周囲を旋回する。そんな健気なルフ達を愛しく思う反面、よっぽど可哀想に見えるのかと思えば苦笑しか浮かばなかった。そんなルフが、まるで何かに反応する様に一斉に上空へと飛び立つ。何事かと空を仰いでいれば、視界の端に二つの影が写り込むのだ。


「これはこれは…」


相手も気付いたのか大樹の根元で蹲るを見て、二つの影は驚いた様に目を丸くしている。そんな二人にゆるりとは笑みを浮かべると、膝に置かれていた手を鎖骨辺りに持ち上げた。


「煌帝国第一皇女、白瑛様と第四皇子、白龍様では御座いませんか」


すっかり慣れた手を重ねる敬礼に、地面に着いていた尻を浮かせて変わりに膝を着く。初対面となる白瑛と白龍は漫画で見ていた通りの美人で、愛らしい顔立ちだった。原作通り姉弟の仲は良いらしい。


「貴女は…」

「申し遅れました。先日より官吏として御仕えさせて頂く事となりました、と申します」


腰を低く保ち、白瑛の疑問を晴らす言葉を述べる。するとの名に聞き覚えがあったのか、白瑛はああ、と声を漏らして、にこりと微笑んだ。


「噂なら聞いています。何でも、トラン語に詳しいとか」

「恐れ入ります」


微笑む白瑛に、にやりと口元に弧を描いては笑う。白瑛のルフは真っ直ぐだ。漫画でもアラジンがそう言っていたのが、今なら分かる。成る程、確かに痛い程に真っ直ぐだ。


殿ーーーー!!」


そんな時、突如聞こえた誰かの野太い叫び声に三人の時が止まった。今、確かにの名を誰かが叫んでいた。けれど素知らぬ顔で笑みを浮かべ続けるに、恐る恐ると白龍が問い掛ける。


「あの…呼ばれてますよ?」

「幻聴です」

殿おおおおおおお!!!いい加減出て来て下さいいいいいい!!!」

「今日は良い天気で御座いますねぇ」

「「………。」」


明らかに聞こえている筈なのに、断固として聞こえぬふりをするに、微笑むとは対照的に白瑛と白龍の表情が強張った。複数のを探す男達の声、文字通り駆けずり回っているのだろう。慌しい足音が止めどなく聞こえている。ゆるりと敬礼を解き立ち上がったは、膝についた砂を手で払い落とし、微笑みながら首を傾げる。


「白瑛殿、白龍殿。朝食はもう取りまして?」

「いえ…。これからですが」


答えたのは白龍では無く白瑛で、其の回答に満足気に頷くを白龍は戸惑いながら凝視していた。



「宜しければ御一緒に如何です?」



















特に断る理由も無く誘いに了承した白瑛と白龍を、心無しか早足で二人の背中を押して歩いたが向かったのは、食材置き場と調理場だった。朝食の時刻がとっくに過ぎているだけあって、無人の其処はとてもからすれば都合が良かった。料理を作ると白龍が名乗り出るのを遮り、が任せてくれと笑みを向ければ、やや警戒しながらも頷く白瑛と白龍を尻目に食材に目を通す。長らく一人暮らしをしていた事や、節約の為に出来る限り自炊をしていたので料理には自信がある。皇族なだけあって食材は豊富、調味料も揃えられており、は手際良く食材に手を付けると其れらを加工し始めるのだ。要領の良い段取り、無駄の無い手捌き。魚を肉を切り分け、炒め、味付けし、直ぐに出来上がった朝食はとても良い香りだった。


「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」


机に並べた皿、其の上に飾られる色合いも考えられた料理。直ぐに白瑛と白龍は手を付けず、其の料理をまじまじと眺めていた。其れもそうだろう、煌帝国ではあまり見られない様な料理ばかりなのだから。


「凄く良い香り…」

「見た事の無いものばかりですね」

「創作料理ですから」


料理を前に不思議がる二人にはゆるりと笑う。創作料理も何も、前の世界で慣れ親しんだものを作っただけの事だ。漸く料理に手を出した二人に、ほんの少し緊張するのは、食文化、世界の違う二人にはどう感じる味なのか気になったからである。白瑛が汁物を、白龍がラム肉のソテーを口に含む。すると口の中に広がる未知なる味に二人は目を見開くのだ。


「今まで食べた事の無い味です。とても優しくて、上品ですね。凄く美味しいです」

「其れに香りがとても良いです。此の羊肉、塩辛さの後に広がる酸味…とても良く合っています!」

「気に入って貰えて良かった」


汁物には魚の出汁を。ラム肉はシンプルに塩で焼き、最後に檸檬の先祖と思われるものの汁を掛けた。どうやら味覚は同じらしく、明るい表情の二人にも自然と表情が柔らかくなるのである。


「やっぱり朝はこうして一日の始まりをのんびりと穏やかな気持ちで迎えるべきよねぇ。そう思わない?」


魚の刺身を頬張れば、口腔内に広がる新鮮な味わいに頬が緩んだ。うっとりと舌の上で転がし、噛んで、しっかりと味わった末に飲み込む。やはり刺身は美味い。次いで潤いを求めて汁物に手を伸ばせば、白瑛は控え目にを見るのである。


「先程から慌ただしく官吏達が探し回っていますが、殿何かしたのですか?」


そりゃ気にもなるだろう。むしろ今まで触れなかった方が不思議だ。何と答えるべきか、ほんの少し、一瞬だけ思案し、行儀悪くは机に肘をついて頬杖し、あっけらかんと答えた。


「ボイコット」

「ぼいこっと…?」


勿論、そんな言葉が伝わる筈も無く、は己に笑った。


「抵抗してるの。遅れてやってきた反抗期ってやつ?」

「反抗期…ですか?」

「徹夜で働かされて、そんなのずっと続いて逃げない人なんて居ないと思うのよねぇ。よっぽど変態じゃないとさ」


口にすれば沸々と沸き起こる不満。不細工な顔になっているのだろう、白龍は何と言葉を掛けるべきか悩んでいる様で難しい顔をしていた。その左目には大きな火傷の跡はあるが、左腕は健在である。未だ白龍はザガンを手に入れていない様で、白瑛の顎にも傷は無く、アラジンとは出逢っていない様だ。


「君達はとても綺麗な瞳をしてるね」


透き通り、力強さを感じる瞳。姉弟故か、そっくりな瞳を持つ二人を無性に抱き締めたくなった。このまま、何も無ければ良いと思う。白瑛や白龍にとっては大切な出来事、必要な出逢いと傷なのかもしれないが、其れでも何も無ければ良いと、思ってしまうのだ。


「白瑛殿、白龍殿。貴方達は痛い程に迷いが無く、真っ直ぐだ」


アラジンやザガンが言っていた言葉が今なら良く分かる。彼等のルフは本当に真っ直ぐで、迷いが無い。痛い程に。彼等という人間を、ルフは示してくれるのだ。


「美しいと、思うよ。そしてとても素敵な事。誰もが望んでそうなれる訳じゃあ無い」


突然語り出したを訝しむ事もなく、優しい心を持つ姉弟は食事の手を休めての言葉に耳を傾けた。ルフが彼等の周囲を飛び、の頭上で旋回する。


「どんなに苦しい事があっても、自分の本質を見失わないで。貴方達は一人では無いし、一人で戦う事を選ぶ必要も無い。必ず誰かが助けてくれる。必ず其の思いを分かり合ってくれる人がいる」


原作通りに進むのなら、何れ白瑛は将軍としての振る舞いに悩む事だろう。白龍は母親である玉艶に対しての復讐心を増幅させる。其の言葉は白瑛と白龍に向けたものだが、主に白龍へと向けていた。白瑛よりも、白龍の方が心配なのだ。


「自分を大切にね」


人生は一度しか無い。其の一度きりの人生をどう生きていくかは本人次第だ。死に際に己の生を振り返った時、素晴らしかったと誇れる様な生き方をしてくれる事を望む。










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