「見つけたぞ」


穏やかな空気をぶち壊し切り裂く様な声。鋭い其れには怒りの色すら差している。錆びた鉄の様な鈍い音が聞こえてきそうな動きでゆっくりとが後ろを振り返れば、仁王立ちする紅炎がを見下ろし睨んでいた。


「これはこれは紅炎殿。そんなに眉間に皺を寄せて…どうしたんです?」

「逃げ切れるとでも思ったか」

「折角イケメンなのに勿体無いわよぉ?」

「いらん手間を取らせるな」

「あいたたたたた!!分かったわよ!」


あくまで穏便に済ませようと試みるが、紅炎には通じなかったらしく、青筋を浮かべながら腕を引っ掴まれた。この、馬鹿力!という暴言だけは、ぐっと飲み込んで呆然とする姉弟に緩い笑みを向ける。


「騒がしくてごめんなさいねぇ。ほら、紅炎殿って横暴だし、恨むなら紅炎殿にお願い」


は?なんて聞こえてきそうな睨みは知らぬ振りを決め込み、食事も殆ど残った机を名残惜しく思いながら、はゆるりと手を振って紅炎に引き摺られていく。


「今度はお茶でもしましょ」


最後に次回の約束を促すが、返事を待つ事も許されずには強制退場をさせられた。大股で進む紅炎に掴まれる腕は痛い。けれど少し、其の圧迫する力が緩まったのは、抵抗する様子も、逃走を図る様子もに見られなかったからか。


「紅炎殿」

「………。」

「逃げた事、そんなに怒ってます?でも逃げたくもなりますよう。私寝てないんですよ?徹夜ですよ?お肌が荒れたらどーすんのよ」

「知らん」

「自己中!!」


紅炎の寝所までの道程を、黙って辿るのは些か気まずくては言い訳を饒舌に話す。けれど紅炎の機嫌は損なわれる一方で居た堪れない様子を悟られない様に表情だけは懸命に取り繕うのだが、思わずポロリと本音が溢れた。すかさず無言の睨みを向けられ、は何も言えなくなり口籠る。


「明日にしません?」


と、最後に抵抗を示すものの到着した寝所に紅炎は問答無用にを投げた。綺麗に一直線、弧を描く事もないストレート。幸いにも床に叩きつけられる様な事はなく、ふかふかの寝台に顔面から減り込んだだけに終わったが、痛いものは痛かった。


「投げる事無いじゃない…」


ひりひりと痛む鼻頭を指で撫でながら、不快感丸出しに紅炎に文句を零せば、乱暴に後ろ手で閉められる扉。逃げ道を完全に断たれた状態に、は漸く腹を括り、這いずる様に寝台の上を移動する。目指したのは最後に寝所を出た時のまま書物が散らかった机だが、何故だか再び寝台の上へと押し戻されては目を丸くした。


「寝ろ」

「…は?」


唐突な紅炎の命令に間抜けな顔になる。あの紅炎が、知識欲の塊で一瞬たりとも時間を無駄にしようとはしない自己中心的な紅炎が投げやりに吐いた言葉が信じられずは己の耳を疑った。


「起きたら始めるぞ」


聞き間違いでは無いらしい。一体どんな風の吹き回しか。あの紅炎が、どんな心境の変化か。道中の文句が効いたのか。あの訴えを聞き入れてくれたのだろうか。謎は深まるばかりで一向に真相は見えそうにないが、あえては歓楽的に捉える事にするのだ。


「はい閣下」


睡眠を与えられたのは、紅炎の優しさ。少なからず徹夜で講義を熱心に行ったに対しての労わり。ならば素直に有難く甘えよう。自然と顔に微笑みが浮かべば、紅炎はを一瞥するだけで自分は机へと向かい書物と向き合う。其の尋常じゃない集中力に感心しながら、は布団の中へと己の身を滑り込ませた。布団やシーツには僅かに紅炎の匂いがし、新しく焚かれた香の匂いが入り混じっていた。


「(意外と落ち着く匂い…)」


嗅ぎ慣れた匂いでは無かった。何方かと言えば紅明の匂いの方が嗅ぎ慣れている。紅明の匂いは彼の部屋に焚かれた優しい香と、古い書物の匂い。彼自身の匂いも、割と好きな匂いだ。同じ親の血を受け継ぐ兄弟なのに紅炎の匂いは焚かれた香はさっぱりとしていて、僅かに焼けた様な匂いがするのだ。其れは戦場で染み付いた血の臭いなのか、其れとも刃の鉄の臭いなのか。断定するには何方も殆ど嗅いだ事が無く難しい。彼自身の匂いは彼自身を表す様に、壮大で、包み込む様で、力強い。身体中の力が抜けてしまいそうな安心感を覚えさせられた。


「(…ん?)」


シーツに顔を埋めながら、瞼を閉ざした所で脳に一つの疑問が浮かんだ。昨夜寝所に来てから、紅炎とは今此の時間まで一睡もしていない。瞼を押し上げて顔を上げれば机に向き合って紅炎は書物を読んでいる横顔が見える。まるで眠気は無いとでも言う様に余裕綽々としている紅炎だが、一体彼はいつ寝たのか。


「紅炎殿」

「………。」

「こーうーえーんーどーのおおお」

「………………。」

「無視か、このコケシ!」

「黙って寝ろ」


寝台に寝そべりながら声を掛けるが聞こえている筈なのに聞こえぬふりを決め込む紅炎に、子供の様にムキになった。断固として無視をする紅炎にちょっとした悪口を言えば、即答で切り返してくる紅炎に、案外挑発には乗りやすい質なのかもしれない。


「添い寝して下さいよう」


無駄に広い寝台を叩きながら訴えれば、書物から顔を上げて紅炎が振り返った。歪みに歪んだ、馬鹿を見る様な目に思わず笑ってしまう。


「ほらぁ、私って寂しがり屋の兎ちゃんなんで。添い寝してもらえないと寝れないし。なかなか寝れないって事は講義も遅れるなあー!」


勿論寂しがり屋では無い。添い寝して貰わなければ眠れない様な幼い子供でもない。唯の口実に過ぎない言葉はつらつらと口から勝手に飛び出し、止めに今最も効果があると思われる事柄を口にした。忽ち不機嫌に眉を寄せて睨んで来る紅炎をはへらへらと笑って受け流す。挑発に乗りやすい彼でも、キレ易い訳では無く、此の様な事では手を出したりはしないと確信しているからだ。


「待ってろ」

「誰でも良い訳じゃないから。紅炎殿じゃないと寝れないから」


確信に狂いは無く、紅炎は面倒臭いと言わんばかりに書物を置いて立ち上がる。其れは添い寝を了承したのでは無く、添い寝要員を連れて来る為だ。すかさず察してが一刀両断すれば、には紅炎の背に揺らめく黒い炎が見えた気がした。


「ほれ、Please come here!」


しかし挫けないのがである。大きく両手を広げ、紅炎で笑顔で招待するのだ。どれだけ超人的な紅炎でも、彼は唯の人間に違いなく、睡眠はとても重要なものだ。放置すれば自ら進んで寝なさそうな彼を放って置く事は出来ない。というのは建前で、紅炎も一緒に寝れば短時間で叩き起こされる様な事は無いと思っての判断で、其処に紅炎を気遣う心はあっても、大半の理由は自分の睡眠の為だった。


「時折お前の言ってる言葉が分からん」

「意味は無いよ。適当に思い付いた言葉言ってるだけだもの。そうねぇ、語ってとこかしら?」

「………。」

「そんな軽蔑の眼差し、痛くも痒くもありませーん」


元々目付きが悪い紅炎だ。殺意が無いのであれば笑って受け流す事が出来る。そういえば原作でも童貞のアリババにこんな冷たい瞳を向けていた様な気がした。紅炎は、紅炎だ。


「さあさあ、寝ましょう寝ましょう」

「俺は未だやる事がある」

「良い仕事をするには良い睡眠と取らなくては」


両手を広げて再度紅炎を呼ぶ。直立不動の紅炎は暫しの間を持って漸く足を動かすのだ。寝台へと寄って、の腕の中には入ろうとも見向きもせずに紅炎は仰向きになって横になった。大の男が一人加わった事により、僅かに沈む寝台。隣からは布団に付いた匂いの源がおり、はくすりと笑って己と紅炎の身体に掛け布団を被せるのである。


「子守唄はいる歳?」

「黙って寝ろ」

「はあい」


睡眠には応じてくれる様だが相変わらず手厳しい。そろそろ巫山戯るのも止めにしなければ、其の内本当に紅炎怒りを買いそうだ。静寂が訪れる寝所にて、は身を捩り紅炎の方へと寝返りを打つ。隣で横になる男は既に瞼を閉ざしていた。早い。


「おやすみ、紅炎殿」


其れは彼の耳にはもう届いていなかったのかもしれない。










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