この日、は珍しくまともな格好をしていた。まともとは言っても、普段の様に衣服を着崩す事無く着用しているだけなのだが。濃過ぎず薄過ぎず施された化粧はの顔立ちの良さを引き立たせ、薄く引いた紅は妖艶の一言に尽きる。が、誰もそんなに目もくれないのは、緊迫した空気の流れる正式な場であるからだ。そう、は現在、正式な場に居る。長机の上座に座る紅明の斜め隣に着席し、つらつらと報告される現状や敵国の情勢を聞き、今後どの様に軍を動かしていくか話し合われる内容を、げんなりと聞いていた。以前、商人に譲られた簪をキラリと頭部に輝かせながら、はまったく興味の無い軍議に参加させられている。勿論、紅明に無理矢理連行されての参加だ。
「やはり、ここの陣形は…」
「いや、待て。その陣形は無いだろう。この地形を見てみろ」
「どちらにしろ、攻め入るは夜明けと共にが良いでしょうな」
ああだこうだと議論を重ねる年配の男達は、皆一様に厳格な眼差しで長机に広げられた地図を見下ろし、眉間に皺を寄せる。其の一角、傍観を徹底していた紅明は、ゆるりと扇の羽を揺らした。
「殿は、どう思いますか?」
紅明から視線と共に投げ掛けられる言葉に、議論する男達までもが口を閉ざして此方へと向く。話を振るなと言わんばかりに、ほんの僅かに目を細めて紅明を見やれば、紅明は小さく笑みを零す。悪びれる様子の無い紅明に、舌打ちを零したくなるのを何とか抑え飲み込めば、は皆の視線を一身に受けながら、表情を崩さず極めて冷静に己の意見を述べるのだ。
「敵国は先日の戦で兵の約半数を失い、体制を立て直している事でしょう。同じく兵を失った煌帝国も同様だと踏んでいる筈。攻撃は最大の防御、速やかに再度進軍するのが良いかと。実際失った兵の数は、戦に支障をきたす程ではありません」
「陣形は」
「攻撃に徹した魚鱗の陣が良いのではないでしょうか。時間を与える必要はありません、一気に畳み掛けるのが良いかと思います」
紅明の問いには簡潔に答える。早期進軍は自軍の回復を待たぬ、一歩間違えば自殺行為とも言えるものだが、今回のケースならば問題は無いだろう。むしろ時間をかけて回復を待つ方が、次回進軍時に更なる被害を生むに違いない。現在の情勢、過去の進軍の記録、其の統計等、此処最近詰め込まれた情報を元に判断した結果、はそう結論付けた。紅明は一度小さく頷くと、視線を皆へと向けて言い放つのである。
「全く私も同意見です。進軍は明日、夜明けと共に。陣形は魚鱗の陣でいきます。各自連絡と準備をお願いします。今回は兄王様の同行は必要無いでしょう、戦場での指揮は私が取ります」
どうやらの読みは正解だったらしい。紅明は的確に指示を出せば、男達は揃って頷き立ち上がる。これから明日の進軍に備えて各自受け持つ部隊へと軍議の結果を伝えに行くのだろう。そして戦の準備を始めるに違いない。紅明が解散を告げれば続々と部屋を後にする男達、屈強な男達が密集しており狭く感じた部屋も、紅明と二人だけになればとても広く感じた。ここで漸くは深い息を吐き、肩の力を抜くのだ。首を傾げれば、ポキッと音を立てる骨。
「はー、終わった終わった」
「お疲れ様でした」
手を組んで伸びをすれば、真っ直ぐと伸びる背中が気持ち良い。そんなの隣でにこにこと笑みを絶えず浮かべる紅明が、何処と無く不気味に思えては片眉を吊り上げた。
「何よ」
「いえ、しっかり勉強されたんですね」
「そりゃあれだけ書物読まされたら嫌でも覚えるわよ」
はあ、と一度、盛大な溜息を一つ。毎日何冊もの書物を読まされていれば、嫌でも知識は身につくというものである。元々記憶力の良いだからこそ、無駄なく記憶出来たと言っても過言ではない。肩を軽く回せば漸く少し身体が軽くなった様な気がした。
「次回の軍議ですが」
「冗談じゃない!あんな堅苦しいの2度とごめんだわ」
さり気無く次回の予定を口にしようとした紅明を、顔を痙攣らせながら言葉を遮るという方法で黙らせたは、紅明と共に部屋を後にした。煌びやかな装飾の施された真昼の廊下を二人して並び歩く。紅明さえいれば軍議なんて何の問題も無く終わるのだから、からすれば自分が出席する意味はまるで無いのだ。なのに次回も出席させようとする紅明の考えがには全く理解出来ない。もう二度と御免だと眉間に皺わ寄せて鋭く紅明を睨んだならば、不意に聞き覚えのない声を耳は拾った。
「誰その女?」
廊下の曲がり角から姿を現した彼は、物珍しそうにを見やり、問い掛けた。顔には出さず、ひっそりとは息を吐く。漆黒の長い髪、露出された腹筋。真っ赤な其の瞳は紙面では分からなかったが、とても深みのある色をしていた。
「へぇー…イイ女じゃん。紅明の側室か何か?」
「唯の官吏です」
「だろうな!」
はは、と声を上げて笑ったジュダルは不躾な視線をへと向ける。頭の先から爪先まで、それこそ舐めるようにだ。ジュダルやの周辺を飛ぶルフは、以前が言った言い付けを守っているようで騒ぐ事なく大人しい。ジュダル自身も違和感は感じていないようで、は安堵に胸を撫で下ろすのである。
「見た事無い顔だけどさ、もしかして新入り?」
「ええ」
「ふーん、じゃあお前があの官吏か」
大きく進んだ一歩で距離を詰め、顔を覗き込む様に近付けてジュダルは問うた。新入りと言われれば新入りの分類なのだろう。にこやかに微笑みを浮かべて肯定すれば、ジュダルは顎に手をやって顔を離すのだ。“あの”ということは、また何か噂話でも出回っているのだろうか。
「此方は神官のジュダル、そして此方は殿です」
「こんにちは、ジュダル殿。以後お見知り置きを」
「どーも」
にやにやと、紅明の紹介に笑み絶えず浮かべるジュダルに、は手を合わせて敬礼をする。其れをさらりと片手を振って流したジュダルは、口角をこれでもかと吊り上げての肩を二度軽く叩くのである。
「気を付けた方が良いぜ」
そんな言葉を耳元で囁いて。
「またな、!」
ぶんぶん、と音でもしそうなくらい大きく手を振って、何処かへと去って行くジュダルを紅明とは静かに見送った。ジュダルの漆黒の長い髪が、歩く度に右へ左へと、ゆらゆらと背中で揺れている。
「彼が此の国のマギです」
「ふーん」
紅明の補足には適当な返事を返しておいた。知ってるけど、とは口が裂けても言えない。そんな事よりもは気掛かりな点があるのである。
「(気を付けるって何に?)」
一体全体、彼は何を知っていて、何に注意を促したのだろうか。どうせ警告するのであれば、もっとしっかりしていってくれれば良いのにと、はひっそりと息を吐いた。
「紅明様!」
「どうしました?」
「結納品の件ですが…」
が思い耽ていると、忙しない足取りで駆けてくる官吏の姿が視界に入る。敬礼をしながら紅明へと歩み寄り、何やら確認を取っているようで、彼は紅明から新たに指示を貰い受けると素早く頭を下げて踵を返して行くのだ。どうやら急いでいるらしい彼に、胸の内の中で声援を送ると、は紅明に問うた。
「誰か結婚するの?」
「ええ。殿は紅玉と面識はありますか?」
「一応は」
突如出て来た紅玉の名に、もしやと思って紅明を見上げる。相変わらず表情の乏しい彼は眠たげな表情其の儘に、の推測は正しいものである事を告げるのだ。
「煌帝国第八皇女にあたる紅玉は、明後日バルバッド王国へ嫁ぐ事が決定しています」
それはつまり、が知らぬところで原作通りに話は進んでおり、物語はバルバッド編の真っ最中であるという事だ。ただ軍議に出た筈の1日が思わぬ収穫に繋がった事には笑みを浮かべるのである。
「バルバッドねぇ…。じゃあ嫁ぐ前に紅玉殿に挨拶にでも行ってくるわ」
「今からですか?」
「善は急げと言うでしょう」
くるりと方向転換をして、は微笑みを一つ零し紅明に背を向ける。長い服の裾を廊下に引き摺りながら、過去一度だけ顔を合わした彼女の事を思った。
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