部屋に訪れど、もぬけの殻で散歩がてら外を歩いて漸く彼女を見つけた場所は、初めて彼女と出逢った場所。ぼんやりと憂いを帯びた瞳で彼方を見つめる彼女に歩み寄れば、ジャリ、と砂を踏んだ音が鳴る。其れに気付いて振り返った彼女は見覚えのある女を瞳に移して目を丸くさせた。


「貴女は…」


以降、名前が続く事は無い。何故なら彼女に名乗った事が無いからだ。困り顔の彼女にゆるりと微笑み隣に並べば、堅苦しい煌帝国のお辞儀を省いて、彼女の代わりに彼女の名を呼ぶ。


「お久しぶりです、紅玉殿」


紅玉は、そうねぇ、と、元気の無い声で頷いて微笑む。バルバッドへの政略結婚について紅玉がどう思っているのかは原作でも出ているので重々承知だが、仮に知らなかったとしても此の顔を見れば一目瞭然だった。


「嫁ぐ事になったと聞いたので挨拶でもと。探したましたよ、部屋に行ったら居ないのだもの」


とは言え、実際はルフが紅玉のいる場所まで道案内をしてくれたので探してはいないのだが、態々言う必要の無い事なので此の点は省略だ。


「結婚が嫌?」

「だって…政略結婚だもの」


あからさまな元気の無い紅玉に、さり気無く問い掛ける。すると案外紅玉は素直に本音を暴露するのだから、意外と自分は警戒されていないのだなと、少しだけ嬉しくなった。


「金属器を手に入れたところだったし、武の道を歩みたかったわぁ…」


はぁ、と溜息を一つ零し、紅玉は頬杖をついて、それに、と続けた。


「恋だってしてみたかった」


若い女が己の気持ち無しに結婚させられるのは、嫌なものだろう。其れも、顔も知らぬ男が相手なら尚更に違いない。は官吏として勤める前は何処にでもいる様な唯の娼婦だ。誰と結婚させられようが、今更そんな感情は無い。結婚という言葉に何の魅力を感じなくなってしまったのは一体何時からだったか。


「貴女は恋をしたことがある?」


不意に紅玉が首を傾げて問い掛ける。若い頃、誰もがした恋の話。其れが何だか懐かしくて、は笑みを浮かべた。


「あるわよ」

「どんな方だったのぉ?」


目を輝かせて問う紅玉は、とても可愛らしくて、妹がいればこんな気分なんじゃないかと思わされる。脳裏に過る男の影。けれど、今となってはシルエットだけで顔は思い出せなくなっていた。


「博識で優しい人。それから自分に厳しい人だった」


高校の同級生の彼は、学年で一番頭が良く、生徒会長だった。皆から慕われ、教師達からは信頼と期待を寄せられ、いつも微笑んで嫌な顔一つしない。とても努力家で、目標への道筋に一切の甘えを捨てて進む彼の力強さが好きだった。高校を卒業して別々の進路を歩み、違う職業についても、毎日連絡は欠かさなかったし、時間が合えば会っていた。


「結婚しなかったのぉ?」

「そうねぇ…あのままだったら結婚してたかもしれないわね」


言葉にはしなかったが、あのままって?と聞かれている様な気がしては一度頷く。付き合い自体は長く、何時しか、まるで長年連れ添った老夫婦の様になっていた。傍に居るのが当たり前の様になっていた日々。今となっては懐かしい過去の記憶だ。


「もう会えないのよ。遠い遠い場所にいるから」


もう会えない。海の向こうだからという次元の話じゃないのだ。時空が違うのだから。推測だが、そもそも自分はあの世界で死んだから此の世界に居るのだ。の死を知った彼は悲しむかもしれないが、何だかんだ切り替えの早い彼だから、きっとまた寄り添う女の1人くらい簡単に見つけて今度はその女と人生を歩むのだろう。ちっとも寂しいと思わないあたり、やはり気持ちはいつの間にか冷めていたのだなと再確認させられた。


「まだ好きなのぉ?」

「どうかしらねぇ」


好きだったのかと聞かれれば分からない。一緒に居たのは好きだからと言うよりも情であったり、楽だったからだ。また一から他人と築き上げていくのが億劫だったのもある。けれど、あのまま未だ傍に居たのなら、いつかは本当の夫婦になっていたのかもしれない。


「で、でもぉ!お兄様達は素敵よぉ!」

「鬼だけれどねぇ」


ぼんやりと彼の事を思いながら話していたのが、紅玉には寂しげに見えたのかもしれない。だからか、優しい彼女は元気付けようと何故か兄達を勧める。思わず笑ってしまったら、つられて紅玉も花の様に笑った。


「ねぇ」

「なあに?」


紅玉には幸せになってほしい。原作は途中で完結する前に此の世界に来た故に、紅玉が誰と添い遂げるのかは知らないが、良い人に巡り会って生きて欲しいと思う。妹の様な彼女を、は1人の人間として大切に思っていた。


「貴女、名前は何て言うのぉ?」


思わず目を丸くしたのは仕方ない。恋の話までしているのに、紅玉は未だの名を知らなかったのだ。其れが可笑しくて小さな笑い声を上げてから、は顔の前で手を合わせて、やや腰を下ろし、口元に弧を描いた。


「唯の住み込みの官吏…と申します」


宜しく、紅玉殿。そう言えば紅玉はまた花の様に笑って大きく頷くのだ。



















紅炎に追いかけ回され、紅明に目が眩む様な紙束の山を押し付けられ、紅覇に買い物に付き合わされたりと、めまぐるしい日々を過ごしたある日、の耳に一つの朗報が入る。紙束の山?そんなものしったことではない。一目散に目当ての部屋へと向かえば部屋の主に了承を受ける前に扉を開ければ、ゆるりと振り返った彼女には笑った。


「おかえりなさい、紅玉殿」


バルバッドでの失態は既に耳にしている。元々知っていた事なので驚きはしないが、紅玉はとても気まずそうに目を彷徨わせて俯いた。


「た、ただいま…」


か細い声の返答は彼女の心情を物語っていて、其れを取っ払う様には笑うと備え付けの机の前に設置された椅子に腰掛ける紅玉の隣に並び、壁に身体を預けて笑みを深めた。


「結婚台無しになって良かったわねぇ。相当、悲惨な容姿の持ち主だと聞いたけれど?」

「そうなのよぉ!!」


は紅玉の婚約相手の顔も名前も知らない。という設定だが、本当は知っているし、今後影響ある知識だとは思えないので昔見た本の中で登場したアブマドの顔を思い出しながら口にすれば、突如立ち上がり感情のままに声を張り上げた紅玉に、これ以上なく笑ってやれば、一瞬本音を曝け出した事に我に返った顔をしたが、紅玉は結局つられたように笑うのだ。


「貴女は笑ってる顔の方が素敵だわ」


紅玉の鼻頭を人差し指の腹で、つい、と優しく押せば、擽ったそうに紅玉ははにかむ。そんな紅玉が愛しくて堪らなくなって、は反射的に強く紅玉を抱き締めるのだ。突然の熱い抱擁に赤面して戸惑う紅玉だったが、少し気恥ずかしそうにしながらも背に手を回してきた時、は更に抱きしめる力を強めて微笑んだのである。



















「おい」

「うおっ」


紅玉と暫し談笑を楽しんだ後、1人歩いていたは気配も無く背後から呼び止められて思わず肩が跳ねる。振り返ると相変わらずの仏頂面を引っ提げた男が居て、は分かり易く嫌な顔をした。


「何だ、紅炎殿か。驚かさないでよ」


総督やら閣下と呼ばれる、とても偉い身分の皇子相手に、この様な軽口を叩けるのは煌帝国ではだけだろう。王の器と金属器に認められる程の彼は無礼な態度のを咎める事が無いのが幸いである。


「何か用かしらぁ?」

「後で俺の部屋に来い」

「また!?」


用件を、と促せば短い命令に思わず声を上げる。連日のトラン語講義にはもううんざりで、は頭をいよいよ抱えるのだ。日中は軍議の参加を強要され、絶えず歴史や軍法等の書物を読まされ、挙げ句の果てに朝まで講義。寝る時間は最早無いに等しい。


「そこそこガチで真剣に労働基準法を取り入れる事を強く推奨します」

「何だそれは」

「そのままの意味よ」


説明しろと言わんばかりの鋭い目付きを無視し、分かりましたぁ、と手を振って、さっさと其の場を退散する。あの場に居続けると労働基準法について深く言及されるに違いないからだ。そんな事になろうものなら、ますます自由な時間と休息の時間が奪われてしまう。やってられないにも程がある。


「人使い荒いにも程があるわ」


深い溜息を一つ零し、長い髪を掻き上げて後ろへ流す。刹那、視界が一瞬歪む。眩暈等というものではない。物理的に遮られたのだ。茶色く濁った透明な水に。


「…くっさ!」


ぐっしょりと濡れた髪と服。袖で顔を拭えは鼻につく強烈な異臭。足元に視線を落とせば茶色い水溜りが出来ていた。周囲を見渡せばクスクスと笑いながら此方を見ている複数の見慣れない官吏が居り、は瞬時に理解するのだ。溝水を意図的にぶっ掛けられたのだと。


「派手にやられたな」

「ジュダル殿」


髪から滴る汚い水が、更に服に染み込み肌を濡らす。横から掛けられた声に視線を向ければいつ振りだろうか、煌帝国のマギであるジュダルの姿があった。









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