林檎を片手に歩み寄ってくる彼はとても面白そうに此方を見ており、林檎を一齧りする。


「だから気を付けろって言っただろ」

「気を付けるも糞もないじゃない、こんなの」

「そりゃそうだな」


ジュダルはこうなる事を予想してに警告したのだろう。とは言え、事前に嫌がらせに注意しろ、と言われていたとしても回避出来そうな気はしない。誰が頭から溝水をかけられる事を想定する事が出来ると言うのだ。


「ジュダル殿、ジュダル殿」


けれど、それでも言ってくれれば良かったのにと思う訳で。ほんの少しの仕返しをは実行するのである。


「くっさ!近付くなよ!」

「ちょっとお姉さんと遊びましょうよぉ、ジュダル殿〜」

「やめろって!クッセ!!」


両手を広げてジュダルに詰め寄る。顔を引攣らせて鼻を摘み、後退するジュダルに更に駆け寄って詰め寄った。そんな追いかけっこの様な物を幾度か繰り返し、漸く掴んだジュダルの手。素早く腕を絡めて拘束すれば力一杯ジュダルを抱きしめるのだ。ジュダルの皮膚に、ひんやりてした濡れた感触が伝わり、間近で鼻に付く異臭。ジュダルは、おえっ、と声を漏らした。


「やっぱりアレよねぇ、元娼婦の夜伽の女が出世した事への嫌がらせってとこかしらぁ」

「だろうな!ちょ、マジで離れろって!吐く!おえっ、」

「何処にでも居るものねぇ。小さい器の人間って」


ぎゅうぎゅう、と抱き締める間もジュダルは抵抗をする。豊満な胸を此れでもかと擦りつけてやれば耳まで赤くしたのだから可愛らしい。拘束する腕を解いてやればジュダルはから一定の距離を保つと、変わらず鼻を摘んだまま、おえーっと声を漏らし、上から下でをジッと観察すると、目を細めるのだ。


「図太そうだな」

「もう何年生きてると思ってるのよぉ?」

「大して歳変わんねぇだろ」

「細かい事は気にしちゃ駄目よ」


うふふ、と口角を吊り上げて笑い、濡れた髪を?き上げる。とても美しい一連の動作の筈なのだが、鼻につく異臭が兎に角残念だった。


「戻って身体を洗うわ。流石に此の異臭は酷いもの」

「その臭いじゃ紅炎の部屋行けねぇもんな」


肩を竦めて踵を返したの背中に掛けられる笑い声。明らかに状況を頼んしでいる様子のジュダルには笑みを向けた。


「見てたのね」

「偶々だけどな」

「ジュダル殿が止めてくれたら、こんな溝水浴びて暑くもないのに涼しむ必要無かったのにぃ」

「普通そこまでするとは思わねぇだろ」


ジュダルに非はない。ジュダルは加害者では無いからだ。露程もジュダルを責める気は無いのだが、は頬を膨らませて怒った風に見せる。が、が本気で無い事は伝わっている様でジュダルは大して気にする素振りも無く笑う。そもそもが本気だったとしても気にする様な性格では無さそうではあるが。


「ジュダル殿」

「あ?」


じゃあな、と踵を返し去って行こうとしたジュダルの背中を呼び止める。柄が良いとは決して言えそうに無い返答をして振り返ったジュダルには微笑むのだ。


「私、案外貴方好きよ」

「…それ今言う台詞かよ」

「私が言いたい時が言うべき時なのよ」


まるで捨て台詞が如く、そんな殺し文句とも言える台詞を吐いては自室へと向かって歩き出す。背中を向けているが為、ジュダルがどんな顔をしていたのか、には知る由も無い。



















「という事があったので今日はもう休ませて下さる?」

「此の書物を読め」

「聞きなさいよ」


ジュダルと別れた後、湯を浴び、身体から臭う異臭を爽やかな石鹸の香りへと変えてから、先日購入した薄桃色の服を纏っては紅炎の部屋へと訪れた。既に日は沈み暗い闇の中を月明かりが照らす時刻。薄暗い部屋の中、机に向き合うは手元の書物を読む気は一切無く、椅子に深く座り込み、だらけきった態度で紅炎に自室に戻る許可を乞うが、悲しい事に予想通りの返答に溜息すら出る始末だった。


「その傲慢さ、モテないわよぉ」

「女に困った事は無い」

「でっすよねぇー」


ぺらり、紙を捲る音が耳につく。全くもって興味の無い内容が記された書物は、部屋に着いたと同時に紅炎が押し付けて来たものだ。同じ系統の内容が記された書物は、視界の端に山積みとなって今か今かとが読むのを待っている。


「…歴代皇帝の成し遂げた政策や功績なんて私読む必要ある?」

「あるから読めと言っている」

「いや無いでしょ」


上を向き、読みかけの書物を顔に被せて目を閉じる。香る古い本の匂いはとても落ち着き、直ぐにでも寝れそうだった。が、紅炎はそうはさせてはくれないのだろう。


「恐らく、何れ俺は皇帝になるだろう」

「かもしれませんねぇ」

「戦が終われば帝位は紅明に譲るつもりだ」

「え?そうなの?」


何の脈絡も無く語り出した紅炎の話に適当に相槌を打っていれば、唐突に信じられない情報が耳に入り、は本を退かせて紅炎を凝視する。原作の漫画は途中までしか読んではいないが、其の間に紅炎が帝位を譲る事を考えている様な描写は一切無かったからだ。そもそも、そう言った内容は完結迄に出ないものなのかもしれないし、既に出ているものの自身が読み落としているか、忘れている可能性も捨て切れないのだが。


「俺が戦時の王ならば紅明は平時の王に相応しい」


妙に納得してしまったのは、も其れを感じているからなのかもしれない。戦をする上でのカリスマ的存在は絶対的に紅炎だ。が、政策は紅炎よりも紅明の方が向いていると言える。実際現状、政策や戦の戦略は紅炎よりも紅明の方が携わっているからだ。


「此の世界に平時が訪れた時、お前には紅明と共に煌帝国を支えろ」

「命令なのね」


其れは何時になる話なのか。此の世界の平時の世をは知らない。其処まで原作が進んでいなかったからだ。数ヶ月先の未来なのかもしれないが、数十年先の未来なのかもしれない。其の頃に己は未だ生きているのか、遠過ぎる未来ならば最悪死に、良くて老婆位にはなっているだろう。とまで思考を巡らせてからは紅炎の言葉に引っ掛かりを覚えるのだ。


「…共に?」

「そうだ」


共に。何の変哲も無い言葉がにはやけに意味深に聞こえた。其れは直ぐに紅炎の口から明らかとされる。


「紅明の妻となれ」


唖然、以外に今のの心情を明確に表せる言葉無い。目の前の仏頂面の男が何を口にしているのか全くもって理解出来なかった。


「冗談でしょう」

「本気だ」

「私は唯の官吏よ。それも元は娼婦」

「そんなもの関係ない」

「関係あるに決まってるでしょう。身分が違い過ぎるわ」

「煌帝国にはお前が必要だ」

「だからとはいえ皆が納得するとでも?紅明殿と私が夫婦になる事を」

「納得させる」


政略結婚が当然の世界だ。実際問題紅玉も政略結婚をさせられる所であったし、他の姫達は既に他国に嫁がされている。そんな中、子が出来た訳でも無い天と地程ある身分の差の皇子と元娼婦が夫婦になる等、考えられない事だ。


「嫌か?」


書物に目を通してばかりで此方を一向に見る事の無かった紅炎の目がを射抜く。其の目を見て、は己の中で何かが過ぎ去っていく様な感覚を覚えた。


「いいえ」


紅炎の問いを否定する言葉は案外簡単にするりと口から出た。さっきまでの戸惑いはもう欠片も無く、冷水でも浴びせられた後の様に冷静になっていた。


「唯、変な気分なだけよ」


紅明の事は嫌いでは無い。むしろ好きな方だ。唯、其れが恋愛感情なのかと問われれば異なるし、紅玉の様に恋愛結婚を望んでいる訳でない。唯、皇子と官吏の関係が夫婦に変わり、身分が上がるだけの事。其れだけの事だ。再び書物の内容を頭に入れる為、すっかり慣れた文字に目を落とし読み上げる。訪れた静寂の中、時折響くのはや紅炎が読む書物の紙の音だけたったが、暫くしてから其処に肉声が加わった。


「何かあれば言え」

「何が?」


唐突な命令に書物に目を通しながらは問う。が、紅炎からの返答は無い。顔を上げて紅炎に目を向ければ、紅炎は書物に目を通したままだった。そして1つの仮説が過ぎる。紅炎は気付いているので無いか、と。嫌がらせで官吏達に溝水を浴びせられた事をは一切口にしていない。嫌がらせを受けた事を態々言う必要が無かったからに過ぎないが、休みたい一心の言葉から、何かしら紅炎は悟る事は容易なのかもしれないと。紅炎はとても聡いからだ。


「何も無いわよ」


心配されている訳では無いのだろうが、滲み出る優しさは素直に嬉しい。嬉しいと思うと自然と表情は和らぐのは必然で、は珍しく優しい表情で書物と向かい合った。









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