シンドバッド達はシンドリアへと帰って行った。奇跡的に月見酒以降は鉢合わせる事は無く、一切顔を合わす事が無いまま、滞在期日最終日を迎えた彼等は煌帝国を出たのである。大いなる問題を残して。


「成る程ねぇ…」


場所は紅玉の自室。紅玉と向かい合う様に着席するは相槌を打って出された茶を飲んだ。目の前の紅玉は怒りや悲しみと言った感情に震えており、彼女御付きの官吏達は哀れむ様に彼女を励ましている。原作でもあった“シンドバッドが紅玉を汚した”事件である。


「嗚呼、なんと可哀想な姫君…!」

「気をしっかりお持ち下さい…!」


夏黄文を筆頭とし、皆が紅玉が懸命に声を掛けるものの、紅玉は聞こえているのか聞こえていないのか反応は無い。そして不意に顔を上げたなら、紅玉はを真っ直ぐ射抜く様に見つめる。


「今日、ちゃんを呼んだのはお願いがあったからなのよぉ」

「お願い…ねぇ。どんな?」

「私と一緒にシンドリア王国に行って欲しいのよぉ」


何となく呼び出されて聞かされた話から、この展開は読めていては左程驚きはしなかった。が、其れでも何故同行を要請されるのかは気になる所で理由を尋ねる様に紅玉を見つめ返すのである。すると紅玉は其れを読み取ったのか、机の下、膝の上で握る両の手を強く握りしめた。


「白龍ちゃんがね、シンドリアに留学に行くんですって。私どうしてもシンドバッド様に直接謝って頂きたいのぉ」

「それで私も一緒に?」

「そう。ちゃんも一緒の方が心強いんだもの」


どうやら知らず知らずの内に、えらく信頼されているらしい。其れが何だか嬉しくては優しい微笑みを浮かべた。


「そういう事なら喜んで同行するわ」


にこり、と微笑めば嬉しそうに紅玉は強張る表情をほんの少し和らげる。そんな彼女からは彼女の隣に携える男に視線をやるのだ。夏黄文、紅玉とほぼ常に行動する官吏にして、今回の騒動の発端の男である。夏黄文はに見られている事に気付いてはおらず、紅玉を心の底から哀れみ、心配している演技を絶えず続けていた。


「ありがとう!でもお兄様達が許してくれるかしらぁ…」

「其れが一番の課題よねぇ…」


眉をほんの少し下げて言う紅玉にが遠い目をする。禁城入りをしてからまともな休暇も無く働かされる日々、白龍の留学に同行する事を許してくれる紅炎や紅明の姿が全く想像がつかなかった。



















「という事なんだけれど、これってどうなのかしらぁ?」

「意味が分かりません」


紅玉の自室を出た後、散歩がてら遠回りをして己の部屋へと戻ってきたは、自室に滞在していた紅明と、其の傍ら、大量に積み上げられた書物の山に文句を零した。自室に戻って来て開口一番に言うのだから、紅明が全く理解出来ずに居たのは当然の事である。


「なぁに、これ?燃やしていい書物?なら早速外で焚き火でもしましょう」

「何を馬鹿な事を言ってるんですか」

「馬鹿な事とは何よ、私は至って真面目よぉ」

「なら、ますます馬鹿です」


山積みになった書物の山を手に取り持ち出そうとすれば羽扇で勢い良く手を叩かれる。地味に痛い。


「紅明殿、私って馬鹿というよりも、どちらかと言えば頭は良い方だと自負しているのだけれど」

「そんな事、知っています」

「あ、認めてくれてるのねぇ。意外」


学生時代、運動よりも勉強の方が得意だった。特に暗記物がそうで、記憶力に関しては人より良かったと言えるのは実際そう感じていたし、同級生や同僚等の周りと比較してだ。の頭脳は誰よりも彼女と接する時間が長く、共に軍議や政治を話し合う紅明が一番理解していたと言っても過言では無い。


「近々、バルバッドを拠点に西方侵略を果たす事は知ってますよね」

「前の会議で言ってたねぇ」

「此れは其の書物です。纏めてありますので目を通して下さい」

「其れ必要かしらぁ?」

「はい」


絶対に必要無い、と言いたくなるのをはぐっと飲み込んだ。本来なら此処に居る筈の無い存在であり、の意見は紅明と同意見である事が殆どで、例えが軍議や今後の政治に口を挟まなくても進む道は大方漫画通りの筋書きになるのだろう。


「目を通したら貴女の見解を聞かせて下さい。其れから此れはこれまでの煌帝国の政に関する書物、前回渡した分の続きです。そして此れは新たに解読をお願いしたいトラン語の…。此れは次の侵略対象の国を纏めたもの。此れは」

「もう良いわ、聞きたくない」


一つ一つ書物が何に関するものなのかを説明しようとする紅明を遮っては耳を塞ぐ。百歩譲って軍議に出席したり、意見を求められる事は構わない。が、こんな勉強尽くしの日々なんて受験生の時ですら経験していないのだ。勉強が出来ても、勉強が好きと同意義になる事は無い。其れも、自分が望んだ知識では無く、他人に強要された勉強なら特にだ。


「では私はこれで」

「この山を置いて?」

「軍議があるので。同席しますか?」

「しっし。早く行きなさいな」


まるで虫を追い払う様に手で促させば、紅明はさっさと踵を返し部屋を後にする。静けさを取り戻す室内には山積みの書物を前に椅子に深く腰掛けた。


「…紅明殿にシンドリア同行の件、聞けば良かったわ」


しまった、と大きな溜息を一つ。そして嫌でも視界に入る書物を見て、また溜息が漏れた。


「この山を綺麗な平地にしない限り、行かせてはくれなさそうねぇ…」


数えたくも無い書物の塔を見やって嫌々一番上の物を手に取る。パラパラとページを捲りながら、さっと中身に目を通し最後のページまで辿り着くと一番最初のページに戻り、ページが捲れない様にしっかりと開いた。


「気が進まないけれど原状回復するしかない…かな」


自然と溢れる溜息は本日で3回目になる。





















着々と書物の山を削り、次の書物へと手を伸ばし表紙を目にした時だった。思わずページを捲る指が止まったのは。煌帝国の使用する文字が読めなかったからでは無い。死に物狂いで生き、世界に順応し、元々語学を学ぶ事は割と得意だった故に会話は勿論のこと読み書きは完璧なのだ。ならば何故指が止まったのか。


「…これ私宛て?」


其れが明らかに自分が関与していない国の侵略計画書だったからだ。は全ての軍議に出席している訳では無い。主な仕事はトラン語に関わる事であり、軍議や政治に関する事は、其の合間を縫ってだからだ。バルバッドの次に侵略対象となる国は聞いてはいるものの、其の内容までは知らない。表紙を捲れば一枚の紙が挟まれており、紅炎の署名が必要な欄があるのだから、明らかに宛のものでは無かった。


「紅明殿、疲れてるのかしら」


恐らく紅明が間違えてに渡す書物の中に紛れさせてしまったのだろう。彼らしくないミスに驚きはするが、此処最近疲れが溜まっている様にも見えるので、きっと其の所為に違いない。文句の一つや二つも言ってやりたい所だが、紅明の多忙さは充分嫌という程、目にしているので今回は口を噤み、此の書物を本当に手に取るべき相手へと届ける為には席を立つのだ。


「(紅明殿、少しは休めば良いのにねぇ…言った所で素直に聞くとは思えないけれど。次のトラン語講義はお休みさせますか)」


2日後に控えている紅明との約束を思い返しながら、はひっそりと講義を放棄して、最近また目の下の隈と肌荒れが酷くなってきた彼を休ませる事を決意する。紅炎の自室まではそれ程遠くは無く、は書物を抱えながら夜の廊下を歩いていた。


「あら、お久しぶりねぇ。白龍殿。元気?」

殿。お久しぶりです」

「そういや未だ一緒にお茶を飲めていないわねぇ」


廊下の先に見覚えある青年を見つけ、はゆるりと片手を上げた微笑んだ。声を掛ければに気付いた白龍が表情をほんの少しだけ柔らかくする。が、どうも以前会った時に比べると表情は硬く、違和感を感じた。


「シンドリアに留学に行くのね」

「はい。でも、どうして其れを?」

「紅玉殿から聞いたわ。彼女も付いて行くでしょう?」

「凄い勢いで頼まれたので…」


困った様に眉を下げる彼に、どんな様子で紅玉が迫ったのか容易に想像出来ては小さく笑った。


「紅玉殿に頼まれたの。一緒に同行して欲しいって」

「そうなんですか」

「構わないかしら?って言っても未だ紅炎殿も紅明殿にも同行の許しは貰ってないのだけれど」


首を傾げて妖艶な笑みを浮かべて問う。そもそもシンドリアに留学という名目で向かうのは白龍であり、紅玉は付き添いというおまけに過ぎない。主に紅炎や紅明と仕事をする為、は二人の許可を得なければ勿論同行は不可能なのだが、そもそも白龍が許さなければはおろか紅玉も付いて行く事は出来ないのだ。だからは尋ねたのだ。白龍に。


「ええ、俺は構いませんよ」


にこり、と微笑んだ白龍だったが、其の返答迄に僅かな間があった事に気付かなかったでは無い。何より其れを彼の周りを飛ぶルフが証明している。


「少し散歩でもしない?私と」


紅炎への届け物は急ぎでは無い。恐らくは。そもそも直ぐにが書物の山に取り掛からなければ紅炎や紅明が気付くまでの机の上に置かれたままだったのだ。今晩中に届ける事に変わりは無いのだから、少しの寄り道くらい構わないだろう。


「ええ、良いですね」


友好に接する白龍だが、やはりどうしてか違和感を感じられずにはいられない。月が綺麗な事もあり、は白龍と中庭へ出る事にした。無駄に広い中庭を、特に目的地も無く、ゆったりとしたペースで歩く。


「白龍殿、趣味は?」

「料理です」

「そうなの。機会があれば是非手料理を食べてみたいわぁ」

殿の様な創作料理は作れませんよ」

「私のは適当よ、適当」


男で料理が趣味だなんて良い夫になるわぁ、とは笑う。何かと夫婦というものは女が家事をほぼ全て負担するのだから、料理だけでも男が負担してくれるのであれば、其の妻は有難いに違いない。そもそも、皇子が台所に立つ様な国では無いのだが。


「白龍殿」

「はい?」

「私に何か隠してる?」


其の問いは実に核心を突くものだったと言える。実際白龍の表情は一瞬にして強張ったし、硬く口を一文字に噤んだ彼には片手をひらひらと左右に振った。


「別に良いのよ、言わなくても。誰だって隠してる事ってあるもの」


は白龍が隠している事を知りたい訳では無い。何故なら其れを“知っている”からだ。唯、以前とは違う態度の変化の原因が何処にあるのかを知りたかっただけに過ぎない。


殿は俺に隠してる事でもあるんですか?」

「そりゃあるわよぉ。女は隠し事だらけだもの」


にこり、そんな音が聞こえてきそうな程には笑みを浮かべる。


殿は義理兄上達と親しいのですね」

「人をボロ雑巾になるまで働かせるのが親しい間柄と言えるのならそうねぇ」


相変わらず白龍の表情は硬い。まるで何か探っているかの様にすら見え、は立ち止まると白龍へと身体ごと向き合った。


「私はそんな難しい顔はしないで笑って欲しいものだわ。だってこんなに可愛らしい顔なんだもの。ねぇ、白龍殿」


トン、と軽くて彼の額を小突いて笑えば、白龍は驚いた様に目を丸くする。年相応とも言える其の顔がより一層可愛らしく思えては白龍の頭を撫でた。すると更に驚きに満ちた顔をするのだからの顔に笑みが浮かぶ。


「そろそろ戻りましょう、夜風に当たり過ぎると風邪を引くわぁ」


撫でる手を引っ込め踵を返したに、白龍は暫し呆然と立ち尽くしたままだったが、我に返ると慌てての後を追う。屋内へと戻ればは今度こそ紅炎の部屋へ向かう為、白龍に軽く手を振るのだ。


「またね、白龍殿」

「ええ、また」


柔らかな笑みを浮かべて別れを告げれば、白龍も同じく笑みを浮かべて応えてくれる。遠去かる白龍の背中を暫し見届けてからも歩き出したのなら、過去の記憶を引っ張り出すのだ。









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