「獅郎?どうした?」


慌しく身支度を済ませ、廊下を足早に進んでいく獅郎を見ては廊下に顔を出して其の背中に向けて尋ねた。玄関で黒革の靴を履く獅郎は、此方をカップアイスを頬張りながら見ているを見て渋々口を開く。


「燐が幼稚園で大暴れしてんだとよ。先生から電話があったんだ」

「ふーん」

「ふーん、じゃねぇよ。どうせお前も暇だろ、着いて来い!」

「やだ、これからドラゴンボール見るんだもん」

「アニメなんか録画して後から見りゃあいいだろ、良いから来い!」


靴を履き終えた獅郎が、未だカップアイスを頬張るを手招きする。何を言っても無駄だと悟り、は深く一度溜息を零すとリビングに戻り空になったカップを投げ捨てリモコンを操作し、あと5分もすれば放送されるアニメの録画を設定する。設定が済めば大人しく廊下に出て、出したままにしていたオレンジ色のスニーカーを履いた。フリルの付いた可愛らしいフェミニンの白い長袖に、薄い水色のデニム生地のショートパンツ。全て獅郎がの為に買い与えた私服だ。


「つーかお前、その歳でアニメなんか見てんのかよ」

「ドラゴンボール面白いよ、カッコいい。それにあたし歴とした子供だからね、5歳だし」

「今はな」


玄関の扉を開け、獅郎は燐と雪男を預けている幼稚園へと歩き出す。修道院に幼稚園から一本の電話が掛かってきたのは今から約数分前の事。今直ぐ来てくれとの事だったが、獅郎は慌てる様子もなく、ゆったりとした足取りで幼稚園までの道のりを歩いていた。その足取りは、隣を歩いているの歩幅に合わせている事もあり、とても遅い。


「これでクロより年食ってんだよなぁ…」

「クロの約二倍だね」

「ただのババアだな」

「その口二度と開かないように縫ってあげようか?」


クロとは獅郎の使い魔である猫又の名である。獅郎特製のマタタビ酒を好物とするクロは、普段は小さな猫で可愛らしい。初めて獅郎がクロにを会わせた時は、本当に見物だった。獅郎の友人、という紹介により直ぐにに懐いたクロだったのだが、話の流れで明らかになったの実年齢にクロは驚愕の余り其の場ですっ転んだのである。あ、え、う、と言葉にならない声を上げるクロに、獅郎とは腹を抱えて笑ったものだ。


「ずっとその容姿のままなのか?」

「いや、一応歳は取るよ。凄く遅いけどね。こっちに来た時に何でか幼児化してたけど」


獅郎にはクロの言葉は分からない。それは獅郎が人間であるからに他ならないのだ。クロは何を話しても、獅郎の耳には全て猫の鳴き声としてしか届かない。しかし、本来死神であったにはクロの言葉が全て聞き取れる。人間だが人間だと言い切れない存在。悪魔じゃないが悪魔じゃないと言い切れない存在。は限りなく此の世界では不可思議な存在だった。クロとの出会いは、其れを改めて認識した瞬間でもある。


「何か騒がしくない?」

「派手にやってんな」

「派手どころじゃないと思うけど」


がしゃん、ガン、ガゴ、派手な音が園舎の中から聞こえてくる。正門を潜り、小さなグラウンドを歩き進めるとその何かの破壊音はどんどん大きく聞こえきた。人の悲鳴も混じっている事から、中はとんでもない事になっているのだろう。


「獅郎一人で行ってきてよ」

「バカかお前、此処まで来たなら一緒に来い」

「…ぶー」

「そんなんしても可愛くねぇぞ」

「………。」


下足室で靴を脱ぐ獅郎に唇を尖らし不貞腐れる。明らかに“ちょっと暴れた”程度で済まないレベルの光景が広がっているだろう燐の居る教室は直ぐ目と鼻の先にあるのだが、教室から逃げる様に飛び出してくる先生も居る。場の状態は予想以上に酷いのかもしれない。しかし、獅郎さえ行けば燐は落ち着くのだからまで付いていく必要はないのだ。ならば事が収まるまでは此処で待機を望んだ。其れで何ら問題はないのだから。しかし獅郎は其れを許さない。


「ほら、可愛い“家族”を迎えに行くぞ」

「………。」


ぐしゃり、獅郎はの頭を乱雑に撫でる。一瞬にしてぐしゃぐしゃになった髪を撫で付けるように手櫛で梳いて、赤くなった頬を隠すようにそっぽ向くのだ。獅郎は歯を見せて笑う。そしての手を握れば、燐の教室へと向かう。


「ぎゃあああはながああ!いたいよォおお」

「きゃああ!!」

「園長先生!」


開け放たれたままの扉から廊下の擦り硝子越しに見えたのは散乱した積み木と首元が千切れて中の綿が出ているウサギのぬいぐるみ。そして真っ赤な血が床に零れており、服や拳に血をつけた燐と、その目の前に膝を付いて顔から血を流し蹲る男の子。興奮が収まらず息の荒い燐は血走った目をしていた。


「り…燐くん落ち着いて、こっちへ来なさい。ま…、ひっ」

「きゃ」

「うるせぇ!!」


園長が何とか燐の興奮を抑えようと逃げ腰ではあるものの声を何とか掛けるのだが、しかし燐は従う様子はなく、近くに置かれていた園児用の小さな机と椅子を園長に向かって投げつけた。


「くんな」


燐は強く握った拳を窓硝子に叩き付ければ甲高い音を奏でて大きな亀裂を生む硝子。破片が其処等中に散乱し、燐の身体にもその破片は降り注ぐ。


「こっちにくんな!!」


燐に歩み寄ろうとした園長に、すぐさま燐は積み木が入っていた車輪の付いた大きな木の入れ物を中に入っていた積み木ごと投げつける。その木の入れ物は真っ直ぐ獅郎との方向へと飛んでき、直ぐ隣の窓硝子へと派手な音を立ててぶち当たった。とてもじゃないが幼い子供が容易に片手で投げれるような物ではない。流石サタンの落胤と言えるだろう。


「おっと。平気…だな」

「当たってないからね」


木の入れ物が床に落下し、パラパラと粉砕された硝子の破片が舞い落ちる。教室の扉を開けて中に入りながら、獅郎はに怪我の有無を念の為にと尋ねる。は面倒臭げに変事を返せば、獅郎は視線をから騒動の中心である燐へと移した。


「…燐!!」

「と…とうさん…!」


獅郎の呼びかけに反応した燐が、ゆっくりと園長から視線を扉の方へと向ける。其処に立っている神父の格好をした獅郎と、其の隣に無表情で佇んでいるの姿を認識すれば目を泳がせてあからさまに動揺の色を見せるのだ。


「…相手の子は鼻と腕の骨が折れて苦しんでるぞ!」

「おれはわるくない。あいつがおれをカゲで“アクマ”っていったんだよ。“ばけもの”だって…」

「お前が悪い!!」

「………!!」


獅郎の登場に漸く少しばかり大人しくなった燐に向かって、獅郎は厳しい言葉を投げる。しかし、其れを素直に聞き入れられるほど、燐はまだ成長していなかった。燐は心の何処かで、いつだって獅郎は自分の味方だと思っていただろう。お前が悪い、其の言葉は酷く強く燐の心に突き刺さる。


「来い!これ以上物を壊すな!」


物が散乱した教室に一歩、また一歩踏み出して燐に歩み寄る獅郎。そんな獅郎に燐は表情を一変させると近くに倒れていた椅子を引っ掴む。途端、身体を強張らせる先生達。


「グォおおオ」


目を血走らせ、声を上げ、燐は力一杯掴んだ椅子を獅郎に向かって投げつける。咄嗟に右腕で獅郎はガードをするが、腕に弾かれた椅子は他の机と椅子が集まっている箇所に突っ込んでまた派手な音を響かせた。


「何て顔…!どうやったらあんな子に育つの」

「きゃあ」

「本当に悪魔みたいな顔…!」


幼稚園の先生達が、零した言葉は燐だけでなく獅郎やの耳にも届く。は呆れたように、面倒臭そうに溜息を吐いた。獅郎は顔を顰めると、無言でスタスタと大股で歩き燐の前で立ち止まる。身構えた燐を気にもせず、獅郎は其の場にしゃがみ込んで強く燐を抱擁するのだ。


「グルルあ゛あ゛あ゛あ゛」


獅郎に強く抱きしめられながら、その腕の中で燐は声を荒げ、拳を振りまわす。我を失ったかのように暴れるその燐の姿は、普段の浮かべている笑顔からでは想像出来ない姿だ。幼稚園の先生達は獅郎と燐の様子を恐る恐る眺めている。その時、酷く鈍い音が教室に響くのだ。燐の拳が、獅郎の胸に減り込んだ瞬間である。


「………う…」

「!!」

「…あっ」


少しばかり力を抜いて、燐に凭れ掛かる様にして呻き声を上げる獅郎に、漸く燐は事態を読み込む。痛みに呻く父を見て、燐は目の色を変えた。振り回していた拳をピタリと止めて、横目で呆然と獅郎を見る。そして最後に、相変わらず扉の所で突っ立っているを見た。


「…んなーんちゃってウッソォー!!ビビッたか!」


燐の肩に乗せていた顔を勢い良く上げ、まるで赤子を驚かせる様に変な顔をして豪快に笑う獅郎に燐は目を大きく見開く。そして獅郎は優しく燐の後頭部に手を添えると、再び自分の胸に優しく押し付けるのだ。今度こそ抵抗なく、燐は目をキュッと目を瞑って獅郎の胸に顔を埋める。


「…燐、聞け」


そして獅郎は優しく諭すのだ。


「このままじゃお前、いつか一人ぼっちになっちまうぞ…!」


獅郎の言葉に瞑っていた目を開き、固まる燐。獅郎はゆっくりと抱きしめていた力を緩めて身体を離すと、真っ直ぐ燐と視線を合わす。二人の視線が合わされば、獅郎は口角を吊り上げるとすっかり怒りも収まった燐に普段通りの話し方で言葉を発する。


「何かの…誰かの為に、もっと優しい事の為に力を使え。俺はお前には将来、仲間に沢山囲まれて女にもモッテモテのカッコいい人間になって欲しいんだ!」


呆然と獅郎の言葉を静かに、そして素直に聞いていた燐は、一度下唇を噛んでからゆっくりと口を開く。


「なんだよそれ…どうすればそんなのになれるんだよ」

「もがけ!そうなろうともがいてりゃその内、ふと振り返ったらいつの間にかそうなってるもんだよ」


つぶらな瞳で尋ねてくる燐に、獅郎は歯を見せて笑う。今の燐に獅郎の言葉はどれだけ届いた事だろう。其れは燐にしか分からない。しかしその強く握られた小さな拳を見て、少なくとも、僅かではあろうが言葉はちゃんと胸に届いたようだ。は一歩、足を踏み出し教室に入る。


「…てダメだ救急車呼んでくれー!!」

「えーーーーー!?とうさん!」


突如血を噴出し派手に倒れた獅郎に驚愕の声を上げる燐と様子を見ていた幼稚園の先生達。ぎゃあぎゃあと喚く五月蝿い大人と、幼い子供のやり取りを呆れた目付きで眺めるは漸く燐と獅郎の元まで歩いてくると、横倒れになった獅郎の背中を軽く足で蹴る。ぴきり、獅郎の折れた肋骨が悲鳴を上げた。


「いってーーーー!!」

「骨でも折れた?」

「バカか!この俺が燐の拳で折れる訳ねぇだろ!」


引き攣った笑顔を浮かべ、やけに高いテンションで笑い飛ばす獅郎を見ては笑った。馬鹿な男だと、つくづく思う。慌しく部屋から園長が飛び出し、救急車を呼びに行ったのを横目に見て、は燐に視線を向ける。倒れた獅郎に動揺し、うろたえる燐の姿は可愛らしくさえ見えた。


「燐」


が静かに名を呼べば燐はぴくりと肩を弾ませて恐る恐ると視線を獅郎からへと向ける。怒りも悲しみも無い、無表情で自身を見つめるの瞳が燐は無性に恐ろしく感じた。燐は知っている。が自分達の様に獅郎に懐いている事を。自分がした事に対して怒られると、燐は思って強く目を瞑った。


「―――――?」


しかし何時まで経っても何のアクションも起きない。燐は目元に入れていた力を抜くと、薄っすらと目を開いて目の前の光景を確認する。焦点の合わない霞んだ世界で見えたのは、相変わらず目の前にたったままでいるの下半身。そんな視界に現れる影。燐に向かって手が差し伸ばされたのだ。燐は驚いて目を一気に見開いて顔を上げる。が燐に右手を突き出していた。


「帰ろう、燐。一人で帰るのは危ないから」

「え…でも…」

「獅郎は救急車で運ばれるから一緒には帰れない」


は突き出した手を燐に向けたまま「ほら、」と催促をするのだ。燐は困ったように床に倒れたまま起き上がれない獅郎に視線を落とす。獅郎は横になったまま、優しい表情で一度頷くのだ。其れは肯定の合図。燐は躊躇いながらも血や傷の付いた小さな手をの掌に重ねた。刹那、力強く握り返される燐の手。


「!」

「お父さん!救急車来ましたよ!!」

「こっちです!」


強く握り返される手に引かれるまま、燐はに続いて歩き出す。駆けつけた救急隊員の邪魔にならないよう、部屋の端に移動したは、背を壁に凭れるとぼんやりと担架に乗せられる獅郎を見守った。そんなの横顔を燐は少しばかり赤くなった頬で見るのだ。


「(こわくないのかな)」


視線を落とせばしっかりと繋がれた小さな手がある。燐は幼いながらも、他の人と自分が違うという事を知っていた。この力は他の子達とは比にならない程強いもので傷付ける事もとても容易に出来るのだ。


「とうさん!!」

「何だ、その面ァ。フハハハ、バカめ!この俺がお前ごときの拳で倒れるか!ワザと折ったんだよ気合で!ついでに巨乳ナースに看病してもらってくるわ。ぁうっ…いって!やさしーく、そーーーっとね」


担架に乗せた獅郎を運ぶ救急隊員の後に続き、と燐も外へと出れば、幼稚園に止まった救急車に小声で噂話をする近隣の住民が正門の所で集まっているのが見えた。グラウンドに停車し、開け放たれた後部の扉から車内に運ばれた獅郎は、その一瞬、揺れた担架によって響いた折れた肋骨に顔を歪ませる。痛々しい其の姿に、ひゅっと燐が息を呑むのが聞こえ、は視線を一瞬燐へと落とした。救急隊員が簡単に診察した所、獅郎は肋骨三本を折る重傷だったのだ。しかし燐を咎める事はせず、怖がる様子も無く、自分に笑顔を向けて優しく抱きしめた獅郎。そんな父の姿を見て、何も感じない程、燐は幼くはなかった。燐の胸は熱くなる。そして強く願うのだ。


「燐、帰ろう」


いつか父さんのようになりたいと。


「燐?」


沢山の涙を流し、拭いもせず鼻水を垂らしながら、救急車によって病院に搬送される獅郎をの手を強く握りながら燐は見送った。やれやれ、は息を吐いて手を握っていない方の手でくしゃりと燐の頭を撫でる。途端顔を上げる燐の酷い面に小さく噴出すと、服の袖が濡れる事も気にせず乱暴に燐の流す涙と鼻水を拭ってやった。


「死にゃあしないよ。図太い男だからね」

「うん…」

「とりあえず今日はこのまま帰るよ。夕方になったら一緒に雪男を迎えに来よう」

「わかった」


涙は止まる事無く溢れ続け、鼻を啜る音が聞こえる。しかし食いしばるように下唇を噛む姿を見て、燐も少しずつ大人になっていくのだと感じた。少し前までは喧嘩をして泣いても、自ら泣き止もうと我慢する事はしなかったのだから。


、」

「なあに?」


だからこそ、珍しくは滅多に浮かべない微笑を浮かべたのかもしれない。もしも子供が居れば、親はこんな気分なのだろうか。肉体こそ同じ幼児だが、精神年齢で言えばは二百は優に超えるのだ。自分よりも随分と年下の子供、普段ならば鬱陶しがる事の方が多いのだが、今回ばかりはその成長に穏やかな気持ちになっていた。


「どうしたら、とうさんみたいになれるかな」

「んー…、」


涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて尋ねてきた燐に、は困った様に声を漏らした。そして逃げるように、先程獅郎が燐に言っていた言葉を思い出して、殆どそのまま、その言葉を口にするのだ。


「もがいてたら、意外といつの間にかそうなってるかもね」


燐はむすりと眉を寄せて頬を膨らませる。納得のいかない回答だったのだろう、はまた小さく笑った。繋がれた小さな手と、手。幼児が二人だけで道を歩く姿は、端から見ればさぞかし不思議なものだっただろう。時折大人達が「大丈夫?」と心配そうに声を掛けてくる事もあったが、二人は無事に修道院へと帰ってきた。玄関で靴を脱げば奥から駆け足でやって来る修道院に勤める男達。何でも、獅郎が救急車に搬送された事を今しがた連絡が来て知ったらしく、酷く慌てふためいていた。其れを横目に無視をして、はリビングに戻ると録画していたアニメを早速再生を始める。


「いっしょにみてもいい?」

「静かに出来るならね」


椅子に座って観賞の姿勢に入り、始まったOPをぼんやり眺める。そんな時、掛けられた言葉に視線だけを向けると隣に燐が立っていた。泣き止み、鼻水も垂らしていない燐が、真っ直ぐの姿を其の目に映している。視線を再びテレビへと移しながらが頷けば、燐は嬉しそうに笑っての隣へと座るのだ。そして二人は、これから始まる怒涛のバトルに夢中となる。










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