大きな月だった。空の半分を覆い尽くす様な、そんな大きな満月だった。止め処なく流れる身体中を巡る筈の血液は、深く抉られた傷口から外へと流れ、砂の大地に何本もの道を作る。口からは異様な音と共に空気が漏れ、傷付いた身体はもう痛みすら感じない。動かぬ左脚を引き摺っても歩みを止める事はしなかった。できるだけ早く遠くに行かなければならなかった。でなければ命を刈り取られるかもしれない。未だ死ぬ訳にはいかなかった。


《(まだ、俺は…ッ)》


大地を駆け巡り、颯爽と草原を駆けていたあの頃の事はもう殆ど覚えていない。憎しみや恨みだけを遺して死んでいき、肉体が滅んだ日の事は微かに覚えているだけだった。死んだ筈なのに霊体として世に留まり、いつの間にか顔には仮面がついたのは十数年前の事。己の事は虚と呼ばれるらしい。度々遭遇する黒い着物を纏う死神と呼ばれる人間が俺をそう呼んでいた。そして虚は死神に命を狙われる事を知った。何故、と疑問が湧くのと同時に怒りが爆発しそうだった。何故人間に命を狙われなければならない。命を刈り取られなければならない。死神から逃げる日々の中で自分が変わった事が一つ。生きた魂だけでなく、俺と同じ虚の魂も欲しくなった。所謂共喰いだったが、欲には勝てず、いつからか生死に関わらず人間や動物の魂だけでなく、虚の魂も喰う様になったのだ。虚の魂を喰らうと強くなれる事も知った。強さを求めた。純粋に、唯ひたすらに強さを求めたのだ。欲を満たすだけでは無い、生きる為に強さも欲しくなった。


《(死ぬ、訳には、いかねぇんだよ…!!)》


道を作る血液と引き摺った足でついた砂の凹み。其れは自分が進む道を示し、辿れば簡単に見つかってしまう。今の状態で襲われては簡単に此の命を失ってしまうのは明白だった。其れでも無駄だと分かっていたが逃げる以外の選択はなかったのだ。


《(ッ!)》


後方から砂を踏む音が聞こえ、血の気が引く。勢い良く振り返れば女の死神が立っていた。慌てて態勢を整えるが、引き摺る左脚の所為でよろけ、間抜けにも地に倒れてしまう。なんと情けない。自分にはもう己を殺す相手を睨み付ける事しか出来ないとは。


《(…なんだ?)》


身構えたにも関わらず、一向に襲ってくる気配の無い死神を訝しむ。斬魄刀と呼ばれる刀すら抜かず、唯立ち尽くし此方を見ているだけの女の死神は、俺が油断し隙を見せる瞬間を待っているのかと思いきや、そうでは無いらしい。


「―――。」


やる気のない目。否、生気の無い目。正にそうだった。女は唯々、色のない双眼で自分を見下ろすだけで、何も発せず、刀も抜かず、近付く事も殺気を向ける事も一切無く、踵を返すのだ。一体何だったんだ。其の言葉に尽きる。死神は皆、遭遇すると直ぐさま斬魄刀を抜いて斬りかかってくる。そういうものだと認識していたし、そういうものだと理解していたからか、去った死神が妙に印象的だった。



















二度と会う事はないと思っていた死神と再び出逢ったのは其れから数年経った頃だ。其の時は身体は全快であり、数年前よりも沢山の修羅場を潜り、魂も喰らい、強くなっていた。けれど、死神の方は何も変わっていなかった。


「…お前、」


断崖絶壁の淵に座り、ぼんやりと空と海の交わる遥か彼方を見つめる死神が、俺に気付いて振り返って呟いた。初めて死神の声を聞いた。酷く冷め切った声だった。死んでいる。そう、思った。


「折角見逃したのに、のこのこと現れるなんてね」


そう言った死神は斬魄刀に手を掛ける事も無く、やはりぼんやりと空と海が交わる彼方を見つめるだけで。虚相手に背中を見せる等、殺してくれと言うようなものだと理解しているのだろうか。警戒心が無さすぎる死神に驚かされる半面、自分自身も敵意を抱いていない事に気付かされて困惑した。



















度々、其の死神を見かけるようになった。遭遇しようとして遭遇した訳ではない。本当に偶然だった。正確の時間の流れは把握していなかったが、一月に何度も遭遇する事もあれば、数年、数十年間が空く事もあった。関係は発展も悪化も無く、唯不思議な事に顔を合わせても戦闘にはならず、何時からか話をするようになった。とは言っても、死神が一人で喋るだけだが。


「…ああ、これ?」


何時からか死神は生傷が増え、日に日に其の傷が増えるものだから気になっていたら、視線に気付いた死神が傷だけの腕を少し掲げた。古いものから新しいものまで沢山の鋭利な何かで斬り付けられた様な傷。


《誰かにヤられたのか?》

「虚じゃないよ」


問いに死神は小さくはにかんで腕を死覇装の袖に隠した。


「強く、してもらってるんだよ」


死にたくないからさ、強くなりたいんだよね。そう言った死神の横顔に釘付けになる。生気の無い瞳の奥で微かに見えた力強い火。純粋に驚いた。


「毎日相手してもらうのは有り難いんだけど、やっぱり戦いは怖い事に変わらない。死神なのに矛盾してるでしょ」


困った様に笑う死神は、傷が絶えなくなった日から少しずつ表情を浮かべる様になった。喜怒哀楽、全てが抜け落ちて無だけが残っていたのに、死神の顔に、心に、再び感情を、生きる力を与えたのはきっと“毎日相手をしている”死神に傷を与えている人物なのだろう。


《なんで死神になった》

「成り行き、かな」


率直な疑問を頭で考えるよりも早く口にすれば、死神はまた困った様に笑った。其の笑みが、何を思って浮かべたものか、此の時は少しも分からなかったし、気にもしなかった。


「そう言えば初めて声を聞いたね。名前、何て言うの?」


死神の目が自分に向く。漆黒の瞳に豹が映った。


《グリムジョー》


自分の名を聞かれたのは、答えたのは、久々で、少しだけ声が強張る。緊張なんてする質じゃないのにだ。


《グリムジョー・ジャガージャック》

「グリムジョー、ね」


舌の上で名を転がして、脳に刻む死神は立ち上がった。尸魂界に帰るのだろう。揺れた死覇装の裾に噛み付けば、死神はどんな顔をするのだろうと馬鹿な考えが過った。



「あたしは



俺を見下ろしながら名乗った死神を唯見上げた。死神の名を頭の中で何度も何度も繰り返す。決して忘れない様に。










後編ヘ進ム

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