「すみません、本当にすみません…!!」


隣人と初対面を果たしたは、力士一人通れる大穴を通って隣人の住まいに足を踏み入れていた。綺麗に掃除のされた清潔感溢れる部屋の中央に、深々と頭を下げて土下座をするを男性は何とも形容し難い表情で見下ろしていた。


「べ、弁償します!必ずします!でも少し待って下さい、今手持ちのお金が無くって…!」

「ええ、勿論弁償はしてもらいますけど…先ず此れはどういう事でしょうか」

「実は今日勤めてた会社をクビになって…情け無い話なんですけど自棄酒してたら、こう…つい壁を殴ってしまってて…」


土下座の姿勢を崩さず壁に大穴が空いた事情を説明するを男性は途轍もなく冷ややかな目で見下ろしていた。壁はそんなに薄くは無い。家賃相応の作りの物件、隣の物音すら今まで聞こえていなかった位なのだから防音設備は抜かりないのは勿論の事、壁も十分に分厚かった筈だ。其れを証明する様に大穴が空いたことにより双方の部屋の床に落ちる瓦礫にはコンクリートが含まれている。こんなにも華奢な若い女性、其れも酔っ払いが勢いで殴って破壊する事が出来るものか。けれど嘘吐け、と咎められないのは彼女の事情があまりにも不憫で、申し訳ないと懺悔する姿が嘘を吐いている様に見えなかったからだ。


「とりあえずお互いの事を先ずは知りませんか?一応隣人ですし」

「そ、うですね…。っていいます。一年前に此処に引っ越してきて、今日まで建設会社の事務員として働いていました」

「僕は安室透です。私立探偵をしています」

「探偵さん…ですか」

「はい」


遅れながら互いに名前を名乗り、自己紹介をすれば状況に似つかわしくない笑みを浮かべて男性、安室は座って下さい、とダイニングテーブルに備え付けられた椅子を促す。其れに困惑しながらも勧められた通りには居心地悪そうに椅子に座ると、安室は食べ掛けの昼食を下げるとキッチンに立つのだ。


「珈琲で良いですか?」

「は、はい」

「砂糖とミルクは要ります?」

「ブラックで大丈夫です…」


壁を破壊した上、珈琲まで頂くのが申し訳無く、自己嫌悪に陥るは膝の上に置いた拳を強く握り、項垂れる。そんなの目の前に置かれる湯気を立てた珈琲。其の向こうで腰掛ける安室の姿が見えた。


「正直言うと僕も混乱しています。全くもって訳が分からない、というのが本心です」

「本当にすみません…」

「話をしましょう、一つずつ。落ち着いて」

「はい…」


安室の手の中にも珈琲が入れられたマグカップがあり、安室は珈琲を一口飲むとテーブルの上にマグカップを置けば、これから話す内容に身構えての身体が強張るのを安室はしっかりと見逃しはしなかった。


「聞かせてもらえますか?」

「え?」

「クビになったんですよね?会社。さんを見ていると、どうも何か他に自棄酒をする様な理由があった様に思えるのですが」


クビになって自棄酒をするのは可笑しな事で無い。けれど安室から見たは大人しいと言える分類の人種だった。染めていない髪や佇まいが安室にそう思わせたのだ。そんな彼女が壁を殴る程の怒りを覚えるなんて、クビになった会社でストレスを溜め込ませる何かがあったのだろう。


「実は…」


安室がの話を聞こうと切り出したのは何も親切心や彼女に同情したからでは無い。自身が潜入捜査をしている組織の人間である可能性も勿論ある訳で、もう少し彼女の様子を見ていたかったのだ。組織から送り込まれた人物なら、何かの拍子にボロを出すかもしれないから。が、全て其れは杞憂に終わる事を直ぐに安室は知る事になる。


「とんだパワハラですよ、信じられます?自分のミスを私の所為にするんですよ。全く業務内容も違う私の!馬鹿でしょ、更年期ですよ、ボケ始まってんですよ」

「其れは酷い話ですね」

「でしょう!?其れにあの次男も日に日にエスカレートするんです。最初は距離が近いなーって位だったのに、いつの間にか肩に当たって来たりして。昨日なんかお尻触られたんですよ!」

「悲惨ですね…」

「ですよね!?可笑しいですよね!あの会社!!」


の愚痴は止まる事なく、次から次へと出てくる。相当ストレスを抱えていたらしい。ニュースでもよく取り上げられている事から、パワハラやセクハラ問題に悩んでいる人間は今の世の中では多い。そして数多い其の中の一人が、今目の前で捲したてる彼女だ。彼女が勤めてたという御堂建設と言えば、此の辺では有名な中小企業である。地域密着型として主に住宅を対象とした仕事を請け負い、地域住民からも評判が良い筈なのだが、実際社内には凡ゆる問題を抱えていたらしい。怒りに任せて一気に不満を吐き出す様子に嘘偽りは無さそうだ。仮に此れが全て嘘だと言うのなら、彼女はとんだ大女優である。


「此処の家賃、そんな安くないじゃないですか。其れに初めて入った会社だし、そう簡単に辞めれないし、ずっと我慢してたんです。もう捌け口もお酒しかなくて毎日遅くまで飲み歩いたりもしてました。なのに…」

「遂に今日爆発したんですか?」

「そうなんです!でもワザとじゃないんです、気付いたら自分のデスクを投げちゃってて」

「(デスクを投げ…?)」

「そしたら今日付けで解雇って言われちゃいました。晴れて無職です。あたしこれからどうやって生きていけば…」


絶望に打ちひしがれ、テーブルにガンッと額を打ち付けて項垂れるは最早半泣きだ。相当痛そうな音が響いていたが痛くないのだろうか、は鼻を啜りながら嗚咽を漏らしている。先程まで怒っていたのに今では泣いて、感情の起伏が激しいを安室は何処にでもいる唯の一般市民だと判断するが、其れでも一つだけ、どうしても理解し難い問題が残っていた。否、寧ろ増えたくらいだった。


「あの、少し確認したいのですが」

「?はい」

さん、デスクを投げたって言いましたよね。さっきも壁に穴が空いたのは殴った所為だと」

「そうですけど…」

「本当なんですか?僕にはとてもさんがそんな力持ちには見えないんですが…」


華奢な肩、細い指。力こぶすらなさそうな腕。到底信じられない事を言うに安室は目を細めるのだ。仮に彼女がプロレスラーの様な筋肉質の体型であったとして、デスクを投げれたとしても壁にあんな大穴を空けるのは人の為せる技じゃ無い。嘘偽り無く真実を話せ、そんな意味のつもりで安室は問うたのだが、には伝わらなかったらしい。


「あたし、ちょっと変わった体質で。筋力のリミッターが無いんです」

「リミッターが?」

「はい。何で他の人より少し力が強くって…」


眉を下げて恥ずかしそうに言うに「そうなんですか」と相槌を打つものの安室は全く信じてはいなかった。普通の人間かと思えば虚言癖持ちらしい。職場のストレスで精神が可笑しくなってしまったのだろう、深く追求する必要は無いと判断すれば安室は話を切り上げる事にした。


「事情は分かりました。壁の修理はお金が出来次第で良いですよ。僕も仕事があるので殆ど家は空けていますし」

「ほ、本当ですか!?助かります!!」

「はい。ですが1つ条件があります」

「条件…ですか?」

「お酒はほどほどに。今日はゆっくり休んで明日から就活頑張って下さい」


壁の大穴の向こうに、空になった一升瓶が床に転がっているのが見える。幾ら自棄酒とは言え飲みすぎて体調を崩したのなら元も子も無いだろう。隣人と穴を通して自由に行き来が出来てしまうのはセキュリティやプライバシー的問題があるが、安室は殆ど家を空ける生活であるし、貴重品等はリビングには置かず、別室の鍵の掛けられる部屋に置いてある。用心して後で監視カメラを部屋に設置すれば良いだけの話だ。どちらかと言うと女であるの方が気にしそうではあるが、穴を空けた張本人なのだから文句など言える訳もなく、寧ろ今直ぐ壁を直せと言っているわけでも無いので感謝される位だった。其れは其れで危機感は無いのかと言いたくもなるが、一先ず安室は口にはしないでおいた。


「ありがとうございます、安室さん…。頑張ります!」

「いえいえ」


強く拳を握って目を輝かせるはすっかり気を取り直したらしい。最後に深々と頭を下げたのなら、穴を通って自室へと戻って行った。どうやら先ず散らかった部屋を片付けるつもりらしい。


「安室さん」

「何ですか?」

「此の瓦礫って何ゴミで捨てれば良いんですかね…」


穴から顔を覗かせ、穴の空いた部分にあった壁の一部を指しながら眉を下げて尋ねるに安室は小さく笑うのだ。確かに瓦礫も片付けなければならない。明らかに生ゴミでは無い其れをはどう処理して良いのか分からなかったのだろう。其れも其の筈である。コンクリートの塊を捨てる市民はそうは居ないだろうから。


「危ないですし僕が片付けて置きますよ」

「何から何まですみません…」

「大丈夫ですよ。穴はとりあえずタオルか何か布で隠して置きましょうか。お互い剥き出しのままだと気になるでしょうし」

「そうですね、あたし余った大判タオルがあるんで画鋲で留めておきます!」

「お願いします」


安室に頭を下げてから瓦礫の処理は任せる事にしてはクローゼットに向かう。確か昔買った殆ど使っていない大判タオルは此処の何処かに仕舞い込んでいた筈なのだ。


「(安室さん、良い人で良かったー…)」


壁に穴を空けてしまった件も、直ぐに修理が出来ない件も、全て嫌な顔をせずに聞いてくれ、承諾してくれた。世の中には良い人も居るんだと当然のことを思い出しては一人くすりと笑みを零す。目当てのタオルを見つけたなら、リビングにあるチェストの引き出しから画鋲を2つ取り、大穴の前に立つと穴を塞ぐ様にタオルを当てがいながら右上と左上に画鋲を差した。仕切りとしては頼りないが、目隠しとしては十分である。床に転がる一升瓶はゴミ袋へ、未だ中身の残った一升瓶は蓋をしてキッチンのシンク下の収納に片付けた。次に此の一升瓶を開けるのは仕事が決まった時と決めて。









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